越紀行
 

私は今新潟行きの上越新幹線とき301号の中にいる。これから新潟県、富山県、福井県の集落を歩こうと思う。ところがその順番がちょっと変わっている。今日新潟の集落を歩いた後、一旦東京に戻り新幹線で京都へ向かい、今度は西から福井県、富山県と歩く計画である。もちろん一続きの旅ではなく仕事の都合によりこうなった。越後→越前→越中と歩く北陸の集落町並みの旅、題して「越紀行」が始まる。

寺泊新潟県寺泊町)
長岡駅で新幹線を降りる。先般の中越地震で一時は立ち入りができなくなった新幹線の長岡駅だが、その後何処を補強したかわからない。大丈夫なのだろうか。駅レンタカーを借りて信濃川に沿って下っていく。信濃川は新潟市で日本海に注ぐが、中之島町で大河津分水路を分けている。その分水路の河口にある白岩という集落まで行く。新潟県の漁村は海岸線に沿って長く続く形態が特徴だが、寺泊はその典型で、この白岩から南へ延々4km連なる。ここまで長いと全て歩く気はしない。車で流して見所区間を定めてから歩くことにした。
町並みは軒の深い切妻妻入の屋根が小刻みなリズムを奏でている。町並みの山側には家の間から石段が上っている。石段の上には山門を構えた寺がある。寺泊はその名のごとく「日本海の鎌倉」と呼ばれるほど寺の多い町なのであった。
山田(新潟県寺泊町)
寺泊から旧北陸街道を南へ辿ろう。右手には日本海、そこにド〜ンと佐渡島が横たわっている。佐渡島にもいい集落があるが、宿根木は行ったことがあるもののまだ全島を巡ってはいない。そんなことを考えながら旧街道を走ると山田集落に着いた。ここいらは海岸段丘下の狭い土地にぽつんぽつんと集落がある。山田もそんな寂しい集落で、寄り添うように家が集まっていた。かつては旧街道の宿場町だったようで明治天皇北陸巡幸小休止場所の記念碑が建っていたが、今は宿場の面影は無い。風雪に洗われたグレーの板壁の町並みはなかなか印象の良い小集落であるけれど、何も意識しないで国道を走っていれば記憶になど残らない集落なのであろう。
久田(新潟県出雲崎町)
さらに旧北陸街道を南へ走る。右手に日本海、左手には高木の少ない海岸段丘。いかにも日本海らしい風景は、太平洋であればチューブやサザンのBGMが似合うのであろうが、ここでは演歌がよく似合う。
遠くに出雲崎の町が見えてきたところで久田集落に着いた。ここは新潟県の日本海沿岸には珍しい茅葺集落である。1995年に訪れたときは多くの茅葺民家があったが、今ではその内の何棟かはトタンでカバーされていた。国道から一番目に付く場所にある民家の屋根の上に人が二人上って作業をしている。この民家だけはさすがに保存され差し茅でもしているのだろうと近づいてみた。ん?ちょっと様子が違う。茅葺屋根の上に下地らしき木材が横に並べられている。あちゃ〜っ!トタンカバー化工事中だ。
海岸線でなぜこの集落だけ茅葺なのか?。謎は海岸から離れ内陸に入ると直ぐに解けた。内陸部は米どころで茅葺屋根の農家が割と多く残っている。久田はその農村が海辺にはみ出しただけなのだ。
出雲崎(新潟県出雲崎町)
出雲崎は昔から佐渡航路で栄えた町である。佐渡で取れた金は出雲崎に荷揚げされ、北陸街道から中山道を経て江戸に運ばれた。日本海沿いの漁村よろしく、出雲崎も寺泊と同様に延々と長い町並みである。本来は端から端まで自分の足で歩いて町全体を感じるべきであろうが、往復したら3時間はかかるだろう。3時間も歩いたら具合の悪い膝が壊れてしまう。などと言い訳をしてまずは車で流し、要所を3箇所に絞った。まずは北東部の端。次が中央部の町。最後が南西部の端。中央にあたる中心部には、大きな商家や洋館などがあったので歩く必要がある。そして古い町並みが残っているのは法則にしたがって町の両端であった。一軒あたりに与えられた敷地間口はとても小さく、切妻妻入のため三角屋根はリズミカルな町並みのスカイラインを形成していた。

夕方の上越新幹線で長岡から東京へ戻る。2日後、今度は東海道新幹線に乗って西へ向かう。名古屋・京都での仕事を済ませ、越前の西端、若狭湾から今度は西から富山を目指す。
東舞鶴(京都府舞鶴市)
昨日は名古屋市内、京都市内の数々の歴史的建築を見てまわった。今朝は特急まいづる1号で東舞鶴にやってきた。東舞鶴に来たのは煉瓦建築を調べるためである。軍港施設の煉瓦建築がたくさん残っている東舞鶴は興味ある町であったが、交通が不便な場所のため今まで残ってしまった。
軍港施設だった煉瓦建築は全てが公開されているわけではないが、ちょうどイベントで公開しておりラッキーにも中に立ち入ることができた。よくもこんなにたくさんの煉瓦倉庫が残っているものだとビックリ。そして赤煉瓦博物館の内容の濃さにまたもビックリ。赤煉瓦好きには必見の場所である。
港町の外れに旧遊郭があるというので行ってみた。真ん中に大通りがあって両側にかつては妓楼が建ち並んでいたのであろう。今では数棟しか残っていなかった。
西舞鶴(京都府舞鶴市)
舞鶴は東と西に別れている。両者はとても歩いていけるような距離ではないので、赤煉瓦倉庫群近くのバス停からバスに乗った。
西舞鶴は運河に面する町並みがよく紹介されているが、水際の景観はたいしたことはない。川は商家の裏手が面していて船の荷卸場だったが、現在は護岸工事によって面影が薄れている。一方、表側の通りには廻船問屋などの商家が並んでいる。
町の西域は寺町で神社仏閣が山裾に建っている。このような寺町の門前といえば遊郭がありそうな場所である。歩き回ったら案の定あった。一つは旧遊郭の跡。もう一つは現役の遊郭である。
小浜(福井県小浜市)
西舞鶴から2両編成のJR小浜線に揺られる。行く先にある小浜は若狭湾に面する北前船で栄えた港町である。良い町並みがあることは前に車で通り過ぎた際に確認している。小浜も交通の便が悪くなかなか訪れる機会がなかった町である。だから今回なんとしてでも歩きたい。今日は天候が悪いので暗くなるのも早いだろう。小浜駅に到着したがまだ明るく何とかいけそうである。駅で荷物を預け身軽にして出動だ。小浜の町並みは長く続いていて最大の見所は西の端っこにある旧遊郭。早歩きでドンドンと町を歩いてゆく。そして何とか日没前に辿りつくことが出来た。その旧小浜遊郭のなんと素敵なことか。時間が止まったような町並みは、日本遊郭10選があれば間違いなく入るであろう。
もう薄暗く町並み探訪をするような状態ではないが小浜の旧市街を全て巡ろう。町の東の端には船溜があってここにもいい町並みが残っていた。暗い中で何とか撮影はしたものの、またいつか訪れたときに歩きな直さなければならない。
鯖江(福井県鯖江市)
小浜市内の寿司屋で上寿司を頼んでビールを2本飲んだ。港町だというのに寿司は今いちであったがすっかり酔っぱらってしまった。小浜線ではぐっすり眠って敦賀で北陸本線に乗り換え、夜遅く鯖江駅に着いた。駅前のビジネスホテルが今日の宿である。
鯖江は町並み本に紹介されているような町ではないが、航空写真の分析により何かありそうだ。翌朝早起きして町を歩く。旧北陸街道は商店街になっておりそこを抜けると古い町並みが現れるはずだった・・・が、道路拡幅工事がまさに行われている最中で残念ながら道の片側のみにしか残っていなかった。でも登り梁形式の商家や擬洋風建築があったりして収穫はあった。

勝山(福井県勝山市)
福井駅に出てレンタカーを借りる。有名な永平寺とその門前町、さらに勝山街道から永平寺に向かう街道の分岐点にあたる古市の町を探索したが見るべきものは無い(リストから削除)。しかし、永平寺は期待を裏切らなかった。
昨日とは違って今日は良い天気である。盆地にある勝山の町並みは、白山へ連なる山並みを背景にしたきれいな町並みだ。町家は屋根の軒が深く太い登り梁と1階庇の銅板葺きが印象的である。
さらに中心市街を外れた川沿いの町を歩くとそこは旧遊郭だった。河港でもある勝山の湊遊郭と呼ばれたこの町には、表通りに松並木があり旧遊郭の面影が色濃く感じられた。
大野(福井県大野市)
大野に着いたのは12時前、有名な朝市通りがまだ賑わっていた。ここは15年前に訪れたことがあるが記憶と写真が無いので再訪である。城下町を基盤とした町は碁盤目状で歩くのが大変だ。北東の寺町から初めてジグザグに歩き、南西の有名な湧水「御清水」で町歩きを終える。
遅めの昼飯を食べようと蕎麦屋さんに入ってメニューを見る。だが字がぼけて見えない。一昨日から歩き続けているので疲れたのであろうと目をこすってみるが、いっこうにはっきりしない。もしや!メニューを目から離してみたらはっきりした。人生42年、老眼になった記念すべき場所は越前大野の蕎麦屋であった。その後、たいそう気落ちしたのは言うまでも無い。
五箇(福井県今立町)
老眼になってしまった事実をなかなか受け入れられず、動揺しながら記念すべき越前大野を離れる。西に走り、越前漆器の里である鯖江市河和田の町を探索するが見るべき町並みは確認できなかった(リストから削除)。続いて越前和紙の里、今立町五箇を訪れる。
ここはいくつかの集落が越前和紙を生産している。なかでも不老、定友、新在家あたりにいい町並みが残っていた。ここの特徴は通りに面して妻面を見せる本卯建の民家。他に見たことが無い不思議な町並みである。さらに新在家には商家が並ぶ町並みもあって、伝統産業の息づく里の雰囲気が味わえる集落である。
武生(福井県武生市)
福井県最後は武生の町である。ここは朝歩いた鯖江の隣にあたる旧城下町である。武生にある古い町並みのありかに関する情報が無いのでここでも航空写真を見ながらの探索となる。旧北陸街道にあたる目抜き通りは異常に広く、近代に大火があったことを物語っている(大火後に整備された通りは広い)。沿道には伝統的な町家が見られるが大火後のものであろう。旧北陸街道の元町から西へ府中菊街道というのを入っていったら家具屋の並ぶ古い町並みが残っていた。また、北の京町にも古い町並みがあった。町家の屋根を支える太い材の登り梁は力強く、意匠的にも効いている。福井県ののもは、富山県のそれより材の本数が少なく太いように思う。
今晩は富山県魚津まで移動する予定であるが、富山県高岡駅で途中下車する。高岡で降りたのは夜の町並みを歩くためではない。「いらかぐみ」の孫右衛門さんと落ち合うためである。彼も偶然にも北陸を旅している最中であった。高岡で一緒に夕食をとりながら一杯やる約束をしていた。孫さんは事前に地元民が集う旨い居酒屋を探してくれていた。そこで、焼き魚を肴にまいどの町並み談義とあいなった。翌日の予定を確認して別れ、魚津に着いたのは深夜0時であった。
魚津(富山県魚津市)
JR魚津駅は市街地からとんでもなく離れている。隣の滑川もそうだが、なんでこうも離れているのか。しかも泊まったビジネスホテルも駅から離れているので早朝のタクシーは捕まらない。しょうがないから旧市街までテクテク歩くことにした。
魚津は特に古い町並みがあると紹介されている町ではない。蜃気楼の町、旧北陸街道の宿場町、旧遊郭のある工業都市、ということでなんとなく期待して訪れた。しかし、旧北陸街道の周辺のを探っても探っても全く古い町並みは残っていない。諦めかけて商店街のタクシー会社に向かう途中、ようやく見つけた。古い町並みは旧街道沿いではなく直行する通りにあったのだ。短い通りだが出桁造りに特徴がある町家が残っていた。
東岩瀬(富山県富山市)
富山港は工業地帯の真っ只中にある。ここに江戸時代から北前船で繁栄を極めた港町東岩瀬がある。富山市街から工場地帯の中を抜け国道から旧道に別れると古い町並みが現れた。最初は違和感があるが、だんだんこの地が富山の重要な港町であったことがわかってくる。南北に貫く大通りは明治初期の大火後の整備によって広がったものと思われるが、通りに沿った港側には立派な廻船問屋の大屋敷が並んでいた。とにかく屋敷の間口がでかい。1,2軒の廻船問屋がある町並みは他にもあるが、これだけ規模の大きな廻船問屋が並んでいる町並みは他に見たことが無い。
滑川(富山県滑川市)
東岩瀬から海岸線の県道を魚津方面へ向かう。常願寺川を渡ると水橋というところに良い町並みが残っていた。ここは売薬業で栄えた町だそうだが、残っている立派な町家は薬売りで財をなした家なのであろうか。
さらに東へ進むと滑川の町である。ここも予備知識が無いので航空写真に頼る。なんとなく揃った町並みと洋館や土蔵造りの店蔵ある場所があった。明治天皇北陸巡幸小休止場所の石碑があったのでこの辺りが旧宿場町に違いない。滑川は魚津同様、工業都市の中に僅かに残る町並みといった印象である。
さて、ここから北陸自動車道を走って砺波に向かう。「いらかぐみ」の孫さんと福光で合流するためだ。
福光(富山県南砺市)
福光駅前で孫さんが待っていた。お互いレンタカーを近くのスーパーマーケットの駐車場に停めさせてもらう。レンタカーは偶然にも同じ車種であった。
小矢部川を渡って市街地に向かうというとき、なにやら右手の桜並木の土手に魅かれるものがある。これは完全に動物的勘だがその雰囲気から遊郭のような気がした。その町に入っていくとズボシ、旧福光遊郭であった。ついに匂いでかぎ分けることが出来るようになったようだ。
福光の町並みは、橋を渡った左手の河岸段丘の上である。ある時期に整備されたのであろう、整然とした通りに町家が並んでいる。脇の路地を入ると段丘の下に下りる。下は地形なりに曲がった道と古い住宅地であった。
相倉(富山県南砺市)
さて、これから庄川沿いの合掌集落をめぐろう。五箇山白川郷はかつての隔絶山村だが、そういう場所ほどいい道が通っている。国道も走りやすく便利だがさらに高速道路も走っている。さすが世界文化遺産ともなると観光ルートがバッチリ整備されている。
国道304号線の五箇山トンネルを抜けると最初の相倉集落だ。庄川の深い谷に面した山腹のお盆のような台地にある集落。たくさんの観光客で賑わっていた。ここは3度目だし、人が一杯なのであまり長居をしたくない。ちょっと高い場所から集落を見下ろしてみる。ん〜、やっぱり合掌集落は迫力があるなぁ。
菅沼(富山県南砺市)
菅沼は初めてである。保存されている集落なので、あわてて見る必要は無いと今まで通り過ぎてきた。合掌造り民家が8棟と小さな集落で、国道からだと見下ろす形になるので庄川の川原に集落があるように見える。
ここも多くの人が見物に訪れていた。こういう観光化された集落はだいたい嫌気が差すものだが、歩いているとなぜか居心地が良い。山に囲まれ屈曲した川に囲まれ合掌造り民家に囲まれている空間はなんともいえず気持ちがよいのである。大きな草屋根がそうさせるのであろうか、合掌集落には不思議な癒し効果があるようだ。
西赤尾(富山県南砺市
国道156号線は五箇山の谷の集落をいくつも通過していく。相倉や菅沼こそ合掌集落として保存されているが、その他の集落にも合掌造り民家は残っている。トタンカバーで覆われた合掌造りがあったりすると、逆にほっとっしたりするのも五箇山ならではの現象である。
西赤尾集落はその中の一つで、国道脇の集落である。ここにもかつては合掌集落だったのであろうが、今や2棟しか残っていない。だが、その内の1棟は五箇山・白川郷で最大の合掌造り民家の岩瀬家住宅である。西赤尾は保存の手を加えていない五箇山の今を感じる自然体の集落である。
荻町岐阜県白川村
岐阜県境を越えて越紀行最後の訪問地白川郷荻町を歩く。かつては集落内を走っていた国道156号線もバイパスが整備され、その通りには土産物屋が並び、五箇山の世界遺産集落以上に観光客が押し寄せていた。ここまで人が多いと私の性格から言うと普通嫌になる。われわれはより静かに歩きたいので、外周の人通りの無い道を選んだ。その道は少し高い位置を通っているので集落を見下ろしながら歩くことができる。荻町には合掌造り民家が113棟あるという。これだけ茅葺民家が集まっている集落は全国的にもここだけだろう。私は歩いているうちにこの集落の磁場に完全に飲み込まれてしまった。どんなに人が多かろうと保存の手を加えた民家であろうと、その集落空間の持っている力は強烈である。そして荻城址の展望台から集落全景を眺めて言葉を失った。この集落が世界に誇れる文化遺産に選ばれたことに素直に納得させられた。
越後の漁村から始まった「越紀行」も越前、越中と経て飛騨白川郷でおしまいである。孫さんは金沢駅へ向かい広島へ帰っていった。私は富山駅に戻った。駅前のとんかつ屋で、旅の思い出に浸りながら一人酒を飲んだ。そして特急北越号に乗って新潟県長岡駅へ向かった。長岡駅で上越新幹線に乗り換えたとき、5日前にこの長岡駅からスタートした旅が終わったことを実感した。