東奔西走 2008 苦中紀行

東奔西走2007春夏でも記載したとおり、2007年5月にこのサイトを止めてしまおうかとまで考えた大変な事件が起こった。いらかぐみ第5回伊豆オフ会から帰った一週間後、妻からのメールに「緊急事態」・・・妻の身体の異変の原因が確定した。青天の霹靂・・・それは癌。すでに根治を目指す治療ができない状態であった。私はやっとのことで事実を受け入れながらも、これからいろんな手を尽くせば宣告された余命は伸ばすことができると信じ、やがて来るであろう「その日」は遥か先と思っていた。
妻とともに癌と闘う生活が始まった。いつ「その日」は訪れるのか。だけど人間、そのことに常に怯えながら生きていくわけにはいかない。日常生活を捨てるわけにもいかない。仕事だって辞めるわけにはいかない。私は妻との闘病に全力を傾けながらも、「集落町並みWalker」を止めなかった。
東奔西走2008年の旅は、苦しみの中で自分を見失わないため歩いた旅だった。
 

自宅外泊から有明の病院へ戻る途中、家族3人で天王洲のクリスタルヨットクラブのレストランにて食事をした。船着場から眺めた運河対岸の夜景はとても綺麗だった。
 
城東園(愛知県名古屋市)
2008年1月

名古屋でずっと営業していたプロジェクトが実現の運びとなった。都心部で戦災から免れた歴史的建築物を保存するプロジェクトである。
その関係で名古屋へ頻繁に通うことになった。6:00品川始発ののぞみ99号は7:26に名古屋に着く。仕事開始まで市内を一か所は歩ける。中央線の通勤電車に揺られ大曽根駅へ。駅から西へ1kmほどの所にあった旧遊里「城東園」を探す。このあたりは戦災に遭っていないので古い建物が残っているがどうもそれっぽくない。さんざん歩いて諦めかけた時、路地の向こうに画像の場所を見つけた。ここから西一帯を歩くと次々と出てきた。
(詳しくは連載「遊里を歩く」に掲載予定)
小樽花園町(北海道小樽市)
2008月2月

三菱一号館復元プロジェクトの関係で日本郵船小樽支店を調査するため、昨夜札幌入りした。今朝は、始発電車で同僚より二足早く小樽へ、7時前に南小樽駅に着いた。南小樽駅構内、札幌へ向かう通勤客たちは、雪が降っているというのに傘もささずに集まってくる。もちろんコートや靴にはたくさん雪がついている。しかし、パッパッとはたくと簡単に雪は落ちてしまう。気温の低い北海道の冬ならではの光景だ。私も完全防備の身支度をし、覚悟を決めて駅を出た。最初はさほど寒くはないがだんだん芯まで冷えてくる。
南小樽から東のエリアは小樽でも最初に開かれた金雲町で遊郭もあった。だが、痕跡はない。西へ移動し、入船町、新町あたりは古い町並みが残っているが、旧遊郭だと確信できるものはない。

小樽駅と南小樽駅の中間にある稲穂町から花園町にかけての一帯は、昭和三十年ころで置屋29軒、芸妓90名のいた花街。現在は小樽最大の飲屋街・スナック街となっている。路地は除雪されず一階の半分まで雪が積もっているので、各店の入り口は埋もれていた。

色内通りを旧日本郵船小樽支店に向けて歩いていると後ろからタクシーに乗った同僚が声をかけてきた。御苦労さま。

(詳しくは連載「遊里を歩く」に掲載予定)
今里新地(大阪府大阪市)
2008年3月

今里新地は現役の遊里。例によって終戦直後の航空写真を見ながら町に入っていく。このあたりから戦前の建物が現れるぞと思われた場所からきっちり登場。戦災のない町を探訪する醍醐味だ。
新地らしく都市計画された町のため交差点には角切があり、各戸の間口はおおむね一定である。現役営業している店は大きな突き出し看板をつけていて建物とのつり合いがとれていない。所々でおっかなそうな兄ちゃんが立っているので慎重に取材をしていた。

ある被写体を撮るのにデジカメをマニュアルモードに切り替えたのが失敗。その後オートモードに戻し忘れたため、以降の写真がすべてピンボケになってしまった。つづけて訪れた鶴橋商店街も同様である。


こういう失敗はほっとけない。近々再訪しなくては気が済まない
(詳しくは連載「遊里を歩く」に掲載予定)
九条(大阪府大阪市)
2008年3月

神戸での仕事を終えたがまだ明るい。これから大阪に戻れば一か所は歩ける。
九条には現役遊里松島新地と戦災を免れた町の両方がある。夕方なので現役新地はまずいので今回はパスして九条の非戦災地区を歩いた。福島区のそれとは違って長屋が少ないけれど、大阪名物の軒先段々の町家が比較的多く残っていた。
一宮花岡町(愛知県一宮市)
2008年3月

愛知県一宮市は私にとって重要な町である。父の出身地であり母方の祖母の出身地でもある。つまり、私の血の3/4が一宮出身ということになる。一宮は繊維業で栄えた町で、町のはずれに旧遊里の町並みが残っている。

花岡神社の前でタクシーを降りた。この周りを歩けばよい。数軒だが伝統的な造りの建物、戦後カフェー調の建物が残っていた。
面白かったのは「花岡銀座」というスナック街。「HANAOKA GINZA」というゲートの向こうに小さなスナックが集まっている。こういう場所は遊里あるいは旧遊里には必ずと言っていいほどある。近代的なものではこれが一つの建物になっている。
(詳しくは連載「遊里を歩く」に掲載予定)
大垣藤江町(岐阜県大垣市)
2008年3月

大垣にも旧遊郭跡がある。町の中心部から東に外れた場所。藤江町という名前だけを頼りにタクシーに連れて行ってもらい、適当に降りて歩く。すると伝統的ではあるがやや華美なデザインの住宅が現れた。遊郭時代の妓楼である。意匠は結構手の込んだものが多く、大きな建物もあった。

(詳しくは連載「遊里を歩く」に掲載予定)
長浜南片町(滋賀県長浜市)
2008年3月

長浜は以前訪れたことがあるが、家族旅行だったので有名な観光エリアしか歩いたことはない。今回は、そのエリアの見落としがないか再び歩くとともに、南側のエリアも歩いた。駅から東へ延びる通りには、観光エリアに負けず劣らずの町並みが残っていて見ごたえあり。そして、その先に遊里がある。伝統的な町家に被せるように店構えを設えており、現役のスナックが並ぶ。一宮花岡町で見たようなスナック集合体もしっかりあった。
(詳しくは連載「遊里を歩く」に掲載予定)
横浜新天地(神奈川県横浜市)
2008年3月

長浜を歩いた後京都へ移動。京都で夜の会合を終えて寝台特急サンライズ瀬戸に乗る。この列車、何度も利用しているが上り列車は初めてだ。
さて、明日朝の予定だが、横浜の手前で起きられれば横浜で下車して横浜市内の遊里を歩くが、起きられなければ品川まで行ってしまおう。気分は早く帰ってお布団で寝たかったが、熱海で目が覚めてしまったのでわが身に鞭打って横浜で下車する。
まず、現役の赤線?黄金町を取材。そこからタクシーに乗って西横浜の南浅間町へ。ここは戦後のカフェー街だったところである。「赤線跡を歩く」の頼りない地図(わざとそうなっている)に従って洪福寺交差点の北西を歩くが旧東海道沿いの商店街だけで遊里はなし。交差点の北東部はスナックの集合体だった建物も残っていて、ここがかつてカフェー街であったと確認できた。しかし、本に掲載されていた写真の神社がない。一生懸命探せどない。神社が無くなることはまずあり得ないので、もう一度本の写真をよ〜く分析し、神社の背景に映っている立体道路のわずかな傾きから場所を読み解き、ようやく目的の神社にたどりつくことができた。神社の囲いにはカフェー時代の店の名前がずらり刻まれており必見のポイントであった。執念深く探しあてることができてヨカッタヨカッタ!
(詳しくは連載「遊里を歩く」に掲載予定)
豊川(愛知県豊川市)
2008年4月

仕事を片づけて夜遅いひかり号に飛び乗った。明日は豊川の旧遊郭を歩く目的だが、仕事が忙しく下調べができていない。すでに歩かれている「いらかぐみ」のYasukoさんに車内から電話をして情報を聞き出す。豊橋駅で飯田線に乗り換え、酔っ払いサラリーマンと一緒に豊川駅へ。0時近くに豊川駅前のビジネスホテルにチェックインした。

翌朝、飯田線の音で目が覚める。ホテルを出て旧遊郭だった光陽町を目指すがかなり遠い。ずいぶんと遠くに新地を造ったものだ。光陽町は農地を住宅地に最近開発したような街で、まさか遊郭だったとは思えない姿だが、場違い的に残っている二棟の妓楼が過去の歴史を物語っていた。
豊川は、豊川稲荷の門前町が街の中心商業地になっていて、参道から入った裏路地に雰囲気のあるスナック街があった。


(詳しくは連載「遊里を歩く」に掲載予定)
岡崎(愛知県岡崎市)
2008年4月

岡崎では、大正〜昭和初期に名古屋で活躍した建築家鈴木禎治の作品である旧岡崎銀行本店を見ることが仕事上のミッションである。しかし、そこへ行く途中に遊郭跡があるので、その町も見ることになる。

岡崎公園駅前に大きな看板を掲げた料亭があり、旧遊郭の方向を先導してくれる。幹線道路を渡ると旧遊郭エリア。戦前と思われる妓楼が結構残っていた。(詳しくは連載「遊里を歩く」に掲載予定)
岡崎城址を経て中心市街地へ。目的の旧岡崎銀行本店まで歩き、建物を眺めていてちょっと疑問に思ったことがある。地元の銀行建築が表通りから外れて立地しているのはなぜなのか?
その理由は、旧東海道岡崎宿の「二十七曲がり」にあった。旧東海道は攻め入る敵を惑わすため岡崎の宿場に入ってから「二十七曲がり」と呼ばれるジグザグルートをなしている。しかし、岡崎は戦災に遭っていることもあり、現在の街路は他の町と同様に直線状で、曲がりくねっていた旧街道の線形は道標をたどらなければ容易に見えてはこない。つまり、旧東海道は現在の表通りから、旧岡崎銀行本店のところでコノ字状に折れまがっていたのである。二十七曲がりは、町並み愛好者をも惑わした。
大須(愛知県名古屋市)
2008年4月

名古屋を訪れるたびに少しづつ積み重ねてきた名古屋の旧遊里探訪も最後の詰めだ。何より名古屋は街全体が遊里だった都市。たくさんあって探訪するのも大変である。大須は明治期に遊郭が開かれた町で、のちに中村へ移転した。遊郭跡でも町の性格は引き継がれるもので、花街・料亭街・歓楽街などになる場合が多い。大須もそうで「名古屋の浅草」と呼ばれるほど映画館や商店街でにぎわっていたという。

しかし、大須は戦災を受けているので、大須観音も街の中にも戦前の面影はない。ただ大須観音のすぐそばに料亭街だったと思われる通りがあり、そこから入る一本の路地にはとてもユニークなスナック街が形成されていた。でこぼこしたモルタル吹付けやモザイクタイルなど、戦後のカフェー街の様式がそのまま残されていて面白い。
(詳しくは連載「遊里を歩く」に掲載予定)
寝覚(長野県上松町)
2008年5月

ゴールデンウィークのこどもの日、家族3人で久しぶりの旅に出かけた。信州へ日帰り旅行である。中央道は空いていて午前中には旧中山道の平沢に着いた。木曾漆器の箸を買って、奈良井宿へ。お決まりの喫茶たむらでお茶をして土産物屋めぐり。木曽福島のくるまやでそばを食べ、上松町の寝覚集落を訪れた。
最後は松本の白壁通りで土産物屋めぐりと喫茶店まるもでのコーヒー。いままで妻と何度も訪れたパターンである。松本は老後二人で移住しようと決めていた街。その街を訪れる旅が妻との最後の旅になるとは、その時知る由もなかった。
高松東浜(香川県高松市)
2008年5月

高松で設計したビルの検査で1年ぶりに高松にやってきた。朝一番の便で入り、港に突き出した半島状の城東町(旧東浜遊郭)を歩いた。高松市内はほとんどが戦災に遭っているが、市内西部の錦町と城東町は免れたようだ。現在、ソープ街になっているので建物は新しいものが多いが、古いものも数棟残っている。
仕事を終え、さぁこれからレンタカーを借りて高知へ向かおうとしたその時、携帯が鳴った。妻が緊急入院した。
妻の癌が発覚してからちょうど1年が経っていた。抗癌剤による治療は、やがて癌が対抗性を持つことで効かなくなってくる。次々と試す薬を変えていくことになる。しかし、国の認可した標準的抗癌剤治療には限度がある。私は病院からはこの時点で標準治療の終了宣告を受けた。1年前、「その時」はまだ先だと思っていたものが、1か月から長くて3か月だと宣告されてしまった。
ここで諦めてはなるものか。あらゆる手段を模索した。大学病院の臨床試験も試した。そしてある自由診療(保険の効かない治療)の道に可能性が残されていることを知った。私は、その自由診療のクリニックの先生にやっとのことでアポを取りつけ、車を飛ばした。車の中で涙が止まらなかった。
大病院を追い出された妻は、大塚の小さなクリニックへ通うことになった。幸運にも効く薬が見つかり、僅かだが希望の光が差した。

有明の病院から眺めた東京都心部の夜景
武蔵小山(東京都品川区)
2008年9月

武蔵小山は安い買い物で有名なアーケード商店街パルムがある。ここは妻の大好きな場所で、二人で日用品の買い物に出かけた。点滴の袋の入ったバッグを片手に持ち点滴をしながらのショッピング。そんな状態にあっても、妻は少しでも安いものをと店を物色している。その姿には恐れ入った。
アーケード街の横にごちゃごちゃとした飲食店街があった。面白い空間なので取材した。
京島(東京都墨田区)
2008年9月

大塚のクリニックでの点滴治療は3時間ほどかかる。妻も慣れてきたので、私はその合間に町歩きをすることにした。

隅田川の東側一帯は非戦災地区が多い。京島もその中の一つである。戦前の木造住宅が残る町だが、面白いのは街路の構成だ。農地の畦道の線形がそのまま道になっているのであろう、何処を歩いても曲がりくねっている。集落を歩きなれている私でも方向がわからなくなってします。
この近くにもうすぐ第二東京タワーが建設される。
白髭東アパート(東京都墨田区)
2008年9月

9月上旬に訪れた広島基町アパートですっかり連結型団地の虜になってしまった私は、連結長日本一の白髭東アパートを見てみたくなった。隅田川に沿ってつらなる団地は、災害時に東側の木造家屋密集地の住人が隅田川沿いの公園に避難した時の防火帯となるように計画されたものである。これは期待できる。・・・しかし、連結部分は非常時のみ通過できるようになっていて住棟間を渡ることができない。残念!住棟を伝って歩くことができたら1km以上になるのに!
西台(東京都板橋区)
2008年10月

今日も大塚のクリニックから3時間の旅に出る。高島平は戦後の人口増加に対応して、荒川氾濫原の農地が開発され、一大ベッドタウンとして生まれた街である。高島平団地はもとより、集合住宅だらけである。
私は新婚時代この街に居を構えた。50uの安アパートだった。都営三田線西台駅と我がアパートとの間には妙な団地があった。それは都営三田線の車両基地の上に築かれた集合住宅。その町を改めて歩いてみたくなった。こんな町は他にないであろう。とても珍しい集落である。
高島平(東京都板橋区)
2008年10月

西台のかつての我が家に立ち寄った。外壁の色が変わっていたけれど懐かしかった。近くに大きな東急ストアができていたので写真を撮って治療中の妻にメールしたら、「以前はなかったよ」と返事が返ってきた。
高島平団地は一時期悲しいことで全国的に有名になったことがある。それは「自殺の名所」。その後の改修工事で7億円もかけて共用部の開口部に柵を取り付けた。40年前の巨大な若夫婦の町は、今では巨大な老人の町。成長した木々が年月を物語っていた。 
中目黒(東京都目黒区)
2008年11月

大塚のクリニックのおかげで宣告された余命は永らえていた。しかし、癌は進行していた。10月末、薬による積極的な延命治療に終止符を打たざるを得ない時がきた。
自宅介護ではいつ何が起こるかわからない。わが家から近い中目黒の病院に入院することにした。私は毎朝、自転車で病院へ行き妻の顔を見てから会社に出勤、帰りも病院に寄ってから自転車で家に寝に帰る。そんな毎日が続いた。

ある朝、妻の様子が安定しているので、気晴らしに近くの中目黒の町を歩いた。目黒銀座商店街の出桁造りの酒屋さんはまだ残っていたし、目黒川沿いの商業施設も以前より増えていた。

病室から見下ろす目黒川の風景は美しい。桜並木が日を追うごとに赤く色づいてゆくのがわかった。
 
2008年11月19日未明・・・ついに「その日」は来てしまった。

永遠の眠りについた妻を自宅に戻すため車に乗せ、自分は自転車で目黒川のほとりを一人帰った。夜空は雲一つなく、都心とは思えないほどたくさんの星が輝いていた。

通夜、葬儀にはたくさんの方々に参列していただいた。自分たちはなんと多くの人々に支えられているんだと実感した。そして、数日後には仕事に復帰し、再び仕事に追われる日常が始まった。

ここで妻を失った思いを綴るつもりはないが、このサイトの主題である「集落町並み」に対する思いは綴る必要がある。これまで私は、「集落町並みを歩く」ことが生きがいと思って数々の旅をしてきた。しかし、自分にとって何が一番大切だったのであろうか。仕事に集中して打ち込むことができ、オフでは「集落町並み」に没頭できたのも、娘が順調に育ち、そして何よりも妻がしっかり家庭を守ってくれていたからであった。
現在の私は、今まで通り「集落町並みを歩く」ことを生きがいとして続けられるものなのかどうなのかわからないでいる。自分を見失わないつもりで歩いてきた旅のはずが、これからどうなるのかわからないのだ。おそらく、その答えを出すのには時間がかかるだろう。何がこれからの自分にとって「生きがい」となるのか、真正面から問うことになるだろう。その答えを出すために私は再び旅に出ることになるだろう。