広島
基町
集落のように巡る楽しさがある高層集合住宅

広島県
広島市
中区
基町




交通

アストラムライン基町小前駅下車





基町



2008.9.20.
広島基町は江戸時代、広島城と太田川の間の武家屋敷だった。明治期以降、軍都として発展した広島の中で陸軍施設として使われていた。1945年(昭和20年)原爆投下により爆心地に近い基町も焼土と化した。戦災復興計画の中で、国有地であった基町は公園として整備される予定であったが、戦災で家を無くした人たちのための応急処置として公営住宅が建てられ、河川敷や公営住宅の間にはバラックを建てて住みつく人々もおり、基町一帯は「原爆スラム」と呼ばれた木造住宅が密集したスラム街が形成されていた。
この原爆スラムを再整備と住宅不足を解消するため、4500戸を高層住宅として建設することとなった。エリア内には同時に、学校、集会所、ショッピングセンターを、太田川沿いやスラム街の跡地に公園緑地を整備するというプロジェクトだった。こうして基町高層アパートは1972〜1976年に竣工した。設計は大高建築設計事務所(大高正人)で、当時は大変センセーショナルな建築で、今では建築計画学の教科書には必ず載っている集合住宅である。
基町高層アパートは、建築を都市レベルで建設した早期事例として特筆すべきであるが、そこに織り込まれたアイデアは現代でも通用するものもある。一方、集落町並みとして歩いた場合どうかというと、とても面白いのである。板状の住棟は共用部の通路が二層毎のため天井高さが高い部分があり、集落内の路地のようである。各住戸へは通路に直接玄関があるAタイプと、通路から階段を上って上がるBタイプがある。さらに通路は折れ曲がり、住棟を連結しており延々歩いていけるのである。これらは、密集漁村を歩いている時のおもしろさに通じる。また、住棟に囲まれた中央部には人工地盤の緑の丘があり、丘の上には緑地と集会所、小学校への通路が計画されている。人工地盤の中はショッピングモールで、地下には駐車場が配置される。人工地盤部分の発想は、現代では古いものであるが、ここもまた集落町並み探訪の視点で見るといろんな現象が起きていて面白い。

昭和50年代の空中写真(国土交通省サイトより)
右上のテトリスのようなギザギザの建物が基町高層アパート。その南側にこの後一掃されるスラム街が見られる。

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スラブ街部分は公園として整備され痕跡はない。
旧スラム街のあった公園方向から見る。手前は基町小学校で、人工地盤上の散策路から直接アクセスできる。(左)

基町高層アパートの配置マップ。住棟が連結されて3つの集合体になっている。中央の赤い部分がショッピングモールや公共施設。(した)
撮影をしている場所から奥の住棟まで廊下はずっと続いている。足もとの緑地は人工地盤の丘で、この下にショッピングモールがある。(上)

住棟の1階はピロティ。現在では駐車場として利用されている。(左)
エレベータホール。後ろに階段があって降りると2層下る。
通路から住戸を見る。通路レベルのAタイプと上のBタイプの両方が通路から見える。こういう関係が集落的で面白い。

通路からBタイプ住戸へ上る階段。共用部の面積を削れたり2面採光が確保できたりと一時期流行った造り方だが、現在ではバリアフリーなどの問題から採用されない。

二層吹き抜けの通路。通路が一部斜めになって光庭を作ったり、画像のようにゴミ置き場に庇がついたりしているため、通路を歩いていると集落内の路地のような感覚になる。(左上)

通路側にでっぱっているのは各住戸の物置。(左)

足もとの空地。(上)

住棟と住棟を連結している通路。
人工地盤の丘。手前の三角屋根は集会場。丘の上の散策路を歩いてアクセスする。(上)

人工地盤下のショッピングモールへの入口。(左)
人工地盤下のショッピングモール。
あまりにも直線的で界隈性に欠ける。現在では、この手の古い住宅団地で共通する現象であるが、シャッター街となってしまっている。しかし、スナックやバーなど夜の飲食店が多く入居しているのが興味深い。

シャッター通り(左)

人工地盤地下の駐車場。
トップライトのある日が入る通路は物販店で、画像のような日の差さない場所に夜の飲食店が集まっていた。もともとの計画にあったのか、自然発生的にこうなったのかは不明。
人工地盤上の歩行者通路。突き当りが集会場。これもあまりにも無機的すぎる。歩いて休んで楽しい尾上庭園であったら少しはましであったろう。
人工地盤上の集会場。
参考資料 リンク
広島市
Architectural Map 基町・長寿園高層アパート

参考文献