越後湯沢駅で上越新幹線から北越急行に乗り換え。在来線のホームには北越急行の普通列車が停まってた。どこぞのお古車両だろうと思ったら新しいじゃない。北越急行は平成9年に開業した第三セクター方式の鉄道で、ほとんどがトンネルです。棚田の美しい新潟県上越地方の山間部農村を走るのだけれど、トンネルばかりで景色はほとんど見えません。今日は夜なので元々ぜんぜん見えません。
23:26に富山駅に着きました。富山駅は新しくなっていて、北口の新しい町をてくてく歩いてアパホテルへ。時計は0:00前でした。
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越後湯沢駅にて |
富山市内はほとんど全域が戦災にあっているので古い町並みは期待できません。となれば、純度の高い戦後の町並みと遊里が見どころとなります。
まずは富山駅前からタクシーで一番遠い新世界と呼ばれた旧青に行きます。ここは繁華街の東端にあたる静かな住宅地。何気ない場所にアパートみたいな建物が2棟並んで、あいだの路地の入り口に「新世界」なる看板が掲げられていました。路地には、モザイクタイルや色づいたモルタル吹き付けというお決まりの外装で飾られたスナックが並んでいます。いわゆる戦後「青」のスタイル。わずかこれだけ?なんでこんなにところに?というような場所。中央通りは旧市街の全天候型アーケード商店街で、新世界はそのアーケード街の終点の先に位置しています。繁華街のはずれという、遊里立地の典型的な一パターンといえましょう。
中央通りアーケードの北側一帯が歓楽街の総曲輪(そうがわ)。クラブやキャバレーが軒を連ねていて、松川沿いには料亭が並んでいました。ここは富山の「赤」だった町だそうです。
新世界から総曲輪、市役所、業務地区を歩いて駅前まで戻ってきました。富山駅前は比較的新しい町ですが、ホテルや旅館、ちょっとした歓楽街もあります。富山シネマ食堂街は、映画館の周りに集まった飲食店街で、とっても不思議な空間。どこまで映画館と同一の建物内なのかわからない造りになっていて実に面白い!。映画館はもう営業していないようでした。
同じような造りの映画館+飲食店街ビルで「富劇食堂街」というのも近くにありました。
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富山新世界(富山県) |
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富山シネマ食堂街(富山県) |
高岡は木舟町、金屋町という素晴らしい歴史的町並みがあります。今回はそこへは立ち寄らず、駅前の歓楽街をちょろっと歩いてからクルマを借りて富山湾沿いの町を巡り、石川県に入って中能登の内陸部から富山湾沿いの町を歩きます。
富山湾に注ぐ小矢部川の河口、両岸には北前船で栄えた港町があります。西側の伏木は有名で大きな町ですが、東側の渡六寺はとても小さな町でした。北陸らしい下見板張りの民家が並んでいる統一感のあるいい町並みでした。
渡六寺の町がのっかっている小矢部川と庄川に挟まれた中洲は工場地帯。その中に場違いな重伝建といってもいいような町並み吉久があります。平入りの町家が2階と1階の軒線をビシッとそろえていて間に建て替わった家がない。あっぱれ!
伏木は北前船の寄港地として栄えた湊町。ここでは町が大きく的を絞るのに苦労しました。庄西や吉久のように一本道の町並みは簡単なのですが、面的に広がり町の中心が移動する発展過程をたどっていたりしてると難しくなります。まず丘の上に北前船資料館というのがあったので行ってみました。迷った時は裏ではなく表の名所から訪ねるべし。そこは、旧秋元家という廻船問屋で財をなした旧家。望楼があって町を眺め渡すことができました。そして周りにも望楼をのせた屋敷がある。そうか、ここから眺められる範囲内に港があり旧市街があるはず。丘を下ると商店街になっていて銅板の看板建築がありました。商店街を伝って海に近付いて行くと洋風近代建築が現れた。大通りに転々と並んでいます。このあたりが港の中心地でしょう。そうだとすれば裏町があるはず。ズバリ!裏に歓楽街がありました。ただし、旧遊郭だったかは確証ありません。
富山に来た時は「きときと寿司」が定番。まずはごひいき氷見きときと寿司の氷見本店で腹ごしらえだ。ところが味が落ちてて残念。
氷見あとっても大きな町です。ここでも的が絞れません。クルマで流して旧遊郭を探し回ること30分。アーケード商店街のアーケードが途中一カ所切れていて大店が構えて建っている場所がある。ここらが旧市街の核心部かな?。その裏手に目を付けて探したら、旅館や料亭、スナックが並んでる。ここに違いない!
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庄西(富山県) |
吉久(富山県) |
伏木(富山県) |
氷見(富山県) |
氷見から富山石川県境山脈の原山峠を越えます。峠を下ると能登半島を横断する邑知潟平野(地溝帯)で、能登一の穀倉地帯を金沢と七尾を結んでいた旧七尾街道が通っています。街道は細長い平野の両側に2筋あり、東往還には高畠、久江、西往還には能登部集落があります。いずれも切妻妻入の町並み。この地方の古民家は、妻面に木軸組を現わした様式、意匠の質が実に高い。米作のみならず能登上布の機業でも栄えたそうで、裕福だったのでしょう。
七尾街道を走ります。終点の七尾は能登地方の中心都市。かつては加賀藩金沢の外港として栄えました。しかし、金沢の近くに新港が整備されてからは急速に衰えていったようです。町は大きく、城下町から発展していますので、規則正しい町割に鉤形も残っていました。古い町並みは一本杉通りに残ってはいますが大店が見られるようなものではありませんでした。鉄道が敷かれて旧市街と駅の間の商店街が形成されました。その裏に飲食店街がありました。
七尾から七尾西湾に沿った内浦街道を北へ進みます。田鶴浜は内浦街道の旧宿場町であり、近世より建具製造で栄えた町。中島はかつては七尾西湾に面した港町だったのですが、海岸線が埋立てによって移動したため内陸っぽい場所にあります。町は神社に向かう通りに面して形成されていて、戦前の建物が多く残っていました。古い町並みとしてのレベルは高い。突き当たりに大きな呉服店があって通り景観の焦点を締めている。そのあたりの道幅が広く離れるに従って道幅は狭くなっていきます。途中には料亭が向かい合うような場所もある。中島はパースペクティブな町並み景観を楽しめる町です。今日はここ中島で日が暮れました。
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能登部(石川県) |
七尾(石川県) |
中島(石川県) |
金沢はわが国の県庁所在地の中で貴重な戦災を受けていない都市のひとつ。古い町並みの宝庫ではありますが、さすがに戦後60年を過ぎ計画道路の整備や再開発は進んで少なくなってきています。そんな状況でもやはり残り方は他の県庁所在地と比較しても半端じゃない。
金沢には重伝建地区2ヶ所ありますが、いずれも茶屋街です。東茶屋街と主計町。また、西茶屋街も観光名所になっています。東西の茶屋街はかつての東廓、西廓と呼ばれた遊郭でした。私が最初に訪れた1980年ころも「廓」と呼ばれていました。でも、何故「茶屋街」と呼ばれるように変わったのでしょうか。おそらく重伝建地区にするためでしょう。遊郭とは娼妓の町で茶屋街とは芸妓の町。実際、いずれの廓とも娼妓と芸妓の混在する遊里だったようですが、前者は受け入れることのできない歴史なのでしょうか。
また、金沢にはほかにも遊里がありました。東廓の近くの愛宕、西廓の近くの北廓と石坂で、いずれも遊郭。愛宕と石坂は戦後、赤へと移行し昭和33年に消滅したようです。また、金沢一の繁華街である片町にも青の遊里がありました。
さて、前置きが長くなりましたが、今回の金沢の目的は全7か所の遊里を歩くことにあります。しかも、夕方の福井を加えて一日で歩かなければならない。朝、6:00に金沢駅前のホテルをチェックアウトしました。
まず一番遠い東山へ。東茶屋街と浅野川との間、観音院の門前に観音町があります。観音町を歩いてから卯辰山に登りました。結婚式場以外何があるわけでもない。再び下って東茶屋街を再訪。ここの修景整備はほぼ完了したようです。愛宕遊郭は東廓のすぐ隣にあったといいますが、痕跡がわからない。修景整備された遊里の近傍で同様の別の遊里を発見する難しさでしょうか。「愛宕加登長」といううどん屋さんがあったのでそのあたりと思われますか。町を四周してあきらめ、卯辰山寺院群へ移動しました。ここも現在、重伝建を目指しています。
浅野川を渡って主計町、尾張町を歩いて片町へ。片町の飲食店街は大通りの北側。ここにも富山で見かけたような「新世界」という長屋の集合飲食店街がありました。
近江町市場で地元在住の大学時代の先輩と再開。一緒に犀川の西側の町を歩きます。古い犀川大橋を渡り寺町へ上がる蛤坂には木造3階建の料亭建築が残っていました。犀川大橋から西茶屋街へ行く途中に北廓があったといいますが、それらしき雰囲気はあれど確証は持てません。
西茶屋街では資料館に入って管理の方に石坂の場所を聞いてみました。しかし、多くを語りたくないご様子。別に遊郭でも重要な町の歴史なのになぁ。しつこく聞いたら、水路の向こう側だという。水路の向こうは増泉町という平らな町。結構広い範囲に戦後赤時代の建物が多く残っていました。
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金沢ひがし茶屋街(石川県) |
金沢尾張町(石川県) |
金沢 犀川と蛤坂(石川県) |
金沢石坂(石川県) |
先輩、遊里巡りに付き合っていただいてありがとうございます。この場を借りてお礼を申し上げます。
先輩と別れて急いで福井へ移動。日が暮れちゃうぞ!
福井も富山同様、市街地のほぼ全域で戦災にあっているので、戦後の遊里を歩きます。福井の歓楽街は金沢と同じく「片町」といいますが、金沢ほど大きくもなく栄えてもいないようでした。福井そのものの町が小さいですね。片町の近く、足羽川沿いの中央3丁目界隈に料亭が集中しており、そこが福井の遊郭だったところです。
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福井(福井県) |
真夏の旅は、いつかと同様「炎天紀行」と題したかったのですが、曇天で暑くはなくむしろ蒸し蒸ししたので「蒸天紀行」と題します。北陸編はここで終え、特急雷鳥号で大阪へ移動します。
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蒸天紀行 大阪編 |