遊里を歩く
第1話 東京 城西編
 遊里とは、遊郭、花街、赤線、青線、カフェー、特飲街、歓楽街、トルコ街、ソープ街、風俗街・・・、女性を求めて男性が遊んだ町の総称である。遊里は、時代を問わず、国を問わず常に存在し続けている。これらの町を「町並み」として観察すると何が見えてくるのであろうか。時代時代の流行やスタイルの現れた独特の意匠に飾られた建物群、共通した立地性と都市計画の痕跡、なぜか現代まで残っている古い町並み、町が栄えた頃の記憶を最も残している町、などなど旧遊里を歩く魅力を語ると尽きない。
 我が国の主要都市は多くが戦災を受けているし、そうでなくても都市整備や建物の更新はかなり進んでいる。ところが、遊里は町はずれに立地する場合が多かったり、過去の記憶からであろうか、戦災から免れていたり開発から取り残されている場所が少なくない。つまり、遊里は偶然か必然か、開発の進む都市の中にあって、比較的歴史的な都市景観を残している場所となっているのである。しかし、現役でない遊里たちは、いよいよ都市再編の手をつけられ始めている。歴史的町並みとして脚光を浴び始めている傍ら、町並みとしての最後の火をともし今にも消えようとしている。であるから、今それらの町を歩き体感し記憶にとどめる必要がある。

 さあ、これから日本全国の「夢の町」を歩くの旅に出かけることとしよう。
「探訪 遊里を歩く」は私が本拠を置く東京から始める。第1話は日本一の歓楽街、新宿東口界隈をはじめとした城西地区である。

 
日本一の遊里 新宿東口界隈

新宿・大木戸
 遊里を本格的に歩き始めて5年、やっと新宿遊郭跡(現新宿2丁目)を歩くことができた。それまでこの街に足を踏み入れたことがないわけではないが、「いつでも来られる」場所ほど行かないもの。2008年2月、現役の遊里ゆえ早朝を狙った。しかし、早朝だというのにバーからはカラオケの歌声が聞こえてくるし、酔っ払いが通りをフラフラと歩いている。「何してるんだ!」などと絡まれてはマズイ。気をつけながら写真を撮るが、既に赤線・青線時代に建てられたカフェー調の建物は姿を消していた。遊里に詳しいサイト「花街ノスタルジア」によれば、1993年ころまでは残っていたというが、時すでに遅し。でも、小さなバーが密集している形態は面白い。
 ここから甲州街道を上った大木戸(四谷四丁目)あたりにも遊郭があったようだが、現在は一軒の旅館と銭湯がある程度だった。

新宿2丁目
甲州街道内藤新宿に分散していた遊郭が、大正期に一か所にまとめられたのが現在の新宿2丁目の始まり。戦災で焼け、戦後赤線・青線となり現在のゲイの町へと遊里の歴史は変遷してきた。


大木戸
今では旅館が一軒と銭湯があるのみ
歌舞伎町 ゴールデン街

2003年暮れ、新宿歌舞伎町の名曲喫茶「スカラ座」が取り壊されるというニュースがテレビで流れた。それまで歌舞伎町は単純な風俗街だと思っていたのに「名曲喫茶」がなぜ?。いやいや歌舞伎町はもともとは健全な?歓楽街として誕生したのである。そういう目で歩いてみると確かにいかがわしくない店が結構ある。たとえば風俗店の隣に八百屋があったりする。その象徴が新宿区役所で、風俗店密集地帯の真っただ中にデーンと居座っている。風俗店に侵食されてた街の中にそれ以前の街の要素を見つけるのが、歌舞伎町ウォッチングの面白いところ。最近では呼び込みが禁止されているので、歌舞伎町も安心して?歩ける。
 歌舞伎町から区役所通りを横切ると小さな飲食店が密集する地域=新宿ゴールデン街がある。木造2階建ての飲食店が規則正しく区画され並んでいて、同じように袖看板を掲げ、それぞれに違った店構えで独自性を表現している。こういう街は常連客でもっているのであろう。かつて私も「花の木」とかいう店に2か月に1度のペースで通ったことがあるが、行かなくなった今でも毎年年賀状が届く。このゴールデン街、再開発されると言われて久しいが、最近では改めて脚光を浴びているようだ。こういう空間=汚い・危険というイメージから、珍しい・ホッとするというイメージに変わりつつあるのであろうか。かつては私娼がいた青線だったが、今では昔ながらの店のほか新しい発想の店も入って街の魅力を高めているようだ。

 

新宿歌舞伎町
いまや日本を代表する風俗街がだ、もともとはそればかりではなかった。町並みとして観察すると面白い街だ。

新宿ゴールデン街
小さな飲食店が花園神社の前に密集する。新宿駅前の闇市が移転してできた町。昭和33年売春防止法施行までは青線だった。
超高層ビル群の足元の旧花街
 
十二社
 
新宿副都心の超高層ビル群の端にあるにある新宿中央公園の西側の通りを十二社通りという。十二社(じゅうにそう)とは、神田川の谷に臨む弁天池(現十二社通りの西側一帯の細長い池)に、熊野神社ほか十二社を祭ったことにちなんむ。熊野神社は、応永年間(1394年〜1428年)建立され江戸名所の一つだった。その弁天池の西側のやや高い所に花街が形成されていた。昭和40年当時で、料亭24軒、芸者60人という。現在、弁天池は道路とビル敷地になっているが、花街時代の階段や路地が残っていて、今でも料亭や旅館の建物が見られる。また、この旧花街の奥の新宿四丁目界隈は丘の上の街で、細街路に戸建住宅が密集し、振り返ると東京都庁をはじめとする超高層ビル群がそびえている。その対比は全国でも西新宿ならではの珍しい風景だ。
 
中野新橋
 
地下鉄丸ノ内線、中野坂上駅より方南町行きの支線に乗り換えて一駅、中野新橋駅で降りる。駅すぐにある赤い欄干の橋が「新橋」で、神田川を渡った右手一帯がかつての花柳界、いわゆる三業地(芸妓置屋、待合、料亭)のあった場所だ。昭和41年ころで、料亭41軒、芸者130人だったという。
 昭和40年代まで花街だった割には面影がかなり薄れている。神田川も堀が深く改修されており、かぐや姫が唄う「神田川」の風情はない。それでも、歩いてみると料亭が数軒残っていた。ビルの1階に入っているものが多いが、玄関周りにらしさを演出している。川から離れたところには、一時若貴兄弟とともにテレビによく登場した旧二子山部屋=貴乃花部屋があり、その向いに戸建ての料亭があった。

 

新宿十二社
新宿副都心の新宿中央公園の脇の十二社通りの熊野神社と反対側の一角に、旧花街の町並みが残る。この階段を降りたところが弁天池畔だったという。

中野新橋
神田川を臨む花柳界は今では住宅街。それでもマンションの一階で営業を続けている料亭はある。中野新橋は貴乃花部屋(旧二子山部屋)がある街として有名になった。
二つの副都心に残る旧三業地
 
渋谷円山町
 
渋谷という街はその名の通り谷が集まっている。渋谷駅を中心とするいくつもの谷筋と尾根筋に性格を異にする街が隣り合って存在している。地形にしたがって街が複雑に形成され、時代とともに変化しているところが渋谷の面白いところである。渋谷センター街から宇田川町、公園通りにかけてが現在の商業の中心だが、109から先の道玄坂や東急本店界隈はというと、その前の時代の中心だった。道玄坂はもともと大山街道の宿場町があったところで、道玄坂と神泉谷の間の丘=円山町は今でこそラブホテル街だが、明治以降花街(三業地)として栄えたところである。昭和40年に料亭84軒、芸者170人が居たというから結構大きな遊里であった。今、円山町のラブホテル街を歩くと、その間に遊郭時代の建物がわずかながらに残っている。円山町に接する谷底の街神泉町もまた遊里(二業地)であった。その先の丘は、一転して高級住宅街の松濤となる。

池袋
 
もう一つの副都心、池袋にも三業地はあった。池袋の歓楽街、風俗街と言えば駅の周辺に広がっており、そのどこかが旧花街だったのではと想像するところであるが、実は全く離れた場所だ。池袋北口を出て歓楽街を抜け、トキワ通りを越えて点在するラブホテル以外に色気の無くなった町を西へ曲がると「三業通り」と呼ばれる商店街に出る。ここがかつての花街であったことは通りの名前から疑う余地もないが、三業通りの南側一帯に「夢の町」の痕跡を色濃くとどめている。駅前の商業集積地区から離れていることが幸いしているようだ。

 

渋谷円山町
道玄坂を上ったところから西側に入ったところがかつて三業地だったところ。現在はラブホテル街だが、わずかながら名残を感じることができる。


池袋
池袋は新宿に次いで歓楽街風俗街の盛んな町。しかし、かつての花街は駅前の商業集積地区からずっと離れた場所にあって、夢の町の痕跡を色濃くとどめていた。
郊外住宅地に息づく旧遊里
 

新井薬師
 
新井薬師は通称で正式には「梅照院」というお寺。御本尊は薬師如来と如意輪観音の二佛一体の黄金仏で、そのご利益は徳川二代将軍秀忠公の第五女和子(東福間院)がかかった悪質な眼病を祈願して快癒したことなどから「眼の薬師」、第五世玄鏡が如来の啓示によって小児薬を調整したことなどから「子育て薬師」とも呼ばれ、古くから江戸の庶民信仰を集めていた。江戸からの参道は南東から、鉄道ができてからの参道は北東の西武新宿線新井薬師駅からになる。
 人が集まるところには必ずモノ・食・遊の消費する場ができるわけで、商店街は両方の参道に沿ってL字型に形成されている。そして遊里はといえば、門前の薬師柳通りと薬師銀座との間に形成された。古くは「薬師芸者」として知られ、昭和41年当時で芸者50人、料亭15軒ほどがあったという。薬師銀座商店街から路地を入っていくとスナックや居酒屋、質屋の看板が現れるから間違いなく旧遊里とわかる。外壁にモルタルを吹き付けたカフェー調の店もあれば色気のある意匠が施された和風の建物も見られる。それは薬師柳通りの対岸までみられたので、古くは割と広範囲だったのだろう。

 
調布
 
甲州街道の宿場町から東京郊外の住宅地へと発展した調布は、かつて大映や日活の大きな撮影所のある町だった。調布駅北口の仲通りに戦後できたカフェー街には、当時14軒の店があったというが、今では面影は全くない。調布で生まれ育った私(野村万訪)は、ここに料亭があったことを記憶している。

 

新井薬師
西武新宿線新井薬師駅から長い商店街を抜けると新井薬師。門前を通り過ぎた薬師銀座の表通りから脇道を入ったところが旧花街だったところ。


調布
戦後カフェー街があったところ。今では面影は全くないが、調布で生まれ育った私(野村万訪)は、ここに料亭があったことを記憶している。
飛行機乗りたちの新旧の色街

立川
 
立川駅の1kmほど東に2つのカフェー街があった。錦町楽天地は三業地のあとに戦時中に洲崎の業者が入り、戦後進駐軍向けの接待所(RAA)を経てカフェー街となったもの。羽衣町新天地も戦後つくられたものである。南武線の東側にある羽衣新天地から歩いてみた。中央に幅広の通りを配置して両側を規則的に街区割りした町はいかにもそれとわかる。当時の建物と思われる「都営住宅のような平屋建て」住宅が一軒残ってたが、ほかはアパートやマンション、駐車場になっていた。
 南武線の踏切を西へ渡ると飲食店街になる。旧赤線だった錦町はそこから北へ入ったところ。羽衣新天地のように通りは広くないが整形に区画された町で、何も知らなかったら単なる住宅地である。しかし、意識して見ると飲み屋やスナックが点在していることに気づく。地名には「楽天地」の名称は一切ないが、電柱の表示に見られた。

 
福生
 
福生は米軍横田基地がある町。福生駅東口を出て800mほど離れた横田基地第2ゲートに向かって歩くと250mくらいの所に、基地へ向かう通りとは直交する形でパブ、スナック、バーがずらっと並んでいる町がある。駅の近くでもない、基地の近くでもないところに突然現れるところが不思議だ。建物は平屋が多く一直線でいかにもアメリカっぽく感じるのは先入観からであろうか。かつては赤線だったという。
 一方、基地の前は国道16号線でトラックがごうごうと走っているが、その片側に横文字の看板を掲げた商店が並んでいる。その風景はまさにアメリカ。範囲は第2ゲートから第5ゲートあたりまでである。身近でアメリカを感じることのできる街だ。

 

立川
戦前戦中は陸軍、戦後は米軍の飛行場のあった立川。錦町楽天地、羽衣町新天地は、ともに戦後開かれた色街。米軍の飛行機乗りたちがここで遊んだ。

福生
駅の近くでもなく基地の近くでもない中途半端な場所に、突然色街が現れるところが不思議。
西東京の機業地に残る旧遊里
 

八王子 八王子田町
 
近代産業で隆盛をみた八王子であるが、残念ながら市街地のほとんどが戦災で焼き尽くされていて歴史を感じる町並みは乏しい。旧甲州街道沿いは商店街、旧野猿街道に伸びた町は飲食店街として発展していて、中町から南町にかけてはかつて花街だった。戦災に遭っているので戦前の建物はないが、伝統的な意匠が用いられる料亭建築やスナック店がかつての歴史を物語っている。
 宿場町時代の遊郭は甲州街道沿いの横山町や八日町にあったようだが、明治30年の大火の後、市街から離れた浅川の近くの田んぼのど真ん中に集められた。中央に並木の植えられた大通りがあって両側に十数軒の妓楼が並んでいる。当時は入口に大門があったそうだ。終戦後は米軍が通い、その後は赤線となった。東京の貸座敷免許地(遊郭)で戦災を免れたのは、千住、品川とここ八王子田町だけだったというから大変貴重な一角だといえよう。
 
青梅
 
青梅も古くから機業地として発展した町で、旧青梅街道に沿って青梅駅から西の上町〜森下町界隈に古い土蔵造りや塗籠造りの町家が残っている。一方、駅の東側は昭和に栄えた遊興地、町おこしで昭和レトロ映画の看板をあちこちに掲げている。駅を出てすぐ左(東)の通りが三業通りで、飲食店が並んでいる。ここがかつて花街のあった場所であろう。現在でも当時の建物が残り、飲食店や仕出し屋、旧検番所などがある。三業通りと青梅街道との間が仲通り。仲通りがぶつかる直交した通りがキネマ通りで、青梅街道からの入口の所に映画館「青梅キネマ」のあったところからこう呼ばれており、レトロな昭和モダンの商店建築が見られる。青梅街道には出桁造りの町家があって「昭和レトロ商品博物館」など観光スポットにもなっている。そして青梅街道を渡り、多摩川へ向かって坂を下るとかつては旅館であったであろう建物があり、とてもいい坂道の町並みが残っている。

 

八王子
八王子駅周辺の商業集積地域のはずれに花街があった。

八王子田町
田町遊郭は明治30年の大火をきっかけに市街地から離れた浅川近くに集められた新地遊郭。戦災で焼けていない東京の遊郭は、千住と品川とここ八王子田町だけだった。


青梅
機業地として栄えた東京最西端の都市青梅であるが、ここにも花柳界はあった。青梅駅のすぐ東側にある三業通りがそうだが、青梅街道を渡って多摩川の方へ下る崖線にも古い旅館のような建物が残っていた。
すり鉢状の特異な空間の花街
 
荒木町
 
四谷の荒木町は江戸時代の松平摂津守の屋敷跡にできた花街である。明治維新後、広大な屋敷が分割され売られる過程で生まれた。芝居小屋がつくられたのをきっかけとして、池を中心としたすり鉢状の高低差のある地形の上に芸妓屋、待合が並び、軍人や学生相手の花柳界として栄えたという。
 新宿通りからアプローチする杉大門通りは飲食店がひしめきあっており途中を外苑西通りが分断している。そこから池に降りていく道は折れ曲がった石段で古い建物や洒落た外灯が建っている。かつての池の底地には住宅で埋め尽くされているが、わずかな池が残っていて弁天様が祭られている。花街にはかつて芸妓150人、料亭14軒、待合36軒あったという。花街としての面影をしのぶとともに、特異な地形を楽しみながら街歩きをすることができる。

 このページを書くにあたって久しぶりにに荒木町へ再取材に出かけた。旧池の上の町の中に10年前見落としていた町並みを確認するとともに、窪地の底にも料亭が存在していたことを今頃知った。見る目がなければ旧遊里もただの町なのである。そして、荒木町で一番好きな石段の坂道を登って行ったらなんか変だ。もっと狭かったはずなのに広く感じる。そうか、道ギリギリに建っていた建物が建て替わってしまったからだ。ん〜っ、悲しいけどしょうがないのか。街から見上げるバブルの塔(バブル崩壊で工事がストップしていた高層ビル)にはちゃんとテナントが入居していた。

 

荒木町
上の町から底の町へ下る石段の坂道。建物に挟まれた狭く曲がった空間がよかったのに、現在は画像左手の建物がマンションに建て替わって視界が開けてしまった。デザインされた外灯は旧花街を証明する要素の一つ。


荒木町
すり鉢状の窪地の底にも料亭建築はあった。10年前に訪れた時には気がつかなかった。

 次回、第2話は東京城南の遊里を歩く。