立川錦町 陸軍から米軍へ飛行場を背景にした2つの遊里

東京都
立川市
錦町1
羽衣町1






交通
JR中央本線立川駅下車徒歩
JR南武線西国立駅下車徒歩





立川錦町



立川羽衣町




2008.02.23
立川の地名は、約800年前、武蔵七党の一豪族が立川氏を名乗り、現柴崎町付近に歴代居城を構えたことによる。古くは鎌倉街道の要地、近世は甲州街道の宿場町(柴崎町4丁目付近)だった。1922年(大正11年)に陸軍飛行場設置以降、市街が急速に発展し、第二次世界大戦中は航空機生産の一中心を担った。戦後、アメリカ軍の基地となり、それに関連した商工業が発達した。現在は、多摩地区の中心をなす商業住宅都市で、各種工場が立地している。
立川駅の1kmほど東に2つのカフェー街があった。錦町楽天地は三業地のあとに戦時中に洲崎の業者が入り、戦後進駐軍向けの接待所(RAA)を経てカフェー街となったもので、羽衣新天地も同様に戦後開かれたものという。その頃の町並みは、錦町が戦後カフェー調、羽衣町は都営住宅のように平屋の1階建てが並ぶ形態だったという。(「赤線跡を歩く」より)
南武線の東側にある羽衣新天地から歩いてみる。中央に幅広の通りを配置して両側を規則的に街区割りした町はいかにもそれとわかる。当時の建物と思われる「都営住宅のような平屋建て」の住宅が一軒残ってたが、ほかはアパートやマンション、駐車場になっていた。
南武線の踏切を西へ渡ると飲食店街になる。旧赤線だった錦町はそこから北へ入ったところ。羽衣新天地のように通りは広くないが整形に区画された町で、何も知らなかったら単なる住宅地である。しかし、意識して見ると飲み屋やスナックが点在していることに気づく。地名には「楽天地」の名称は一切見られないが、電柱の表示に見られた。また、「花柳流」の教室もあり、こういう要素からかろうじてかつての町の歴史を推測することはできる。
羽衣新天地の中央大通り。アパートや駐車場が目立つ。
羽衣新天地時代は、都営住宅のような平屋建てが並んでいたというから、この家はその頃からのものであろう。(上)

古そうなアパート(左)
錦町楽天地跡。「和風スナック」がマンションの1階に入っている。

今でも飲み屋さんやスナックが集まって営業している一角。単なる住宅街でこういう一角は発生しないだろう。(左上、左)

「楽天地」という地名は地図や住居表示類には一切見られないが、電柱の地区表示に見られた。
錦町楽天地の町並み。(左、左下)

「花柳流」の教室を開いている家があった。この看板は旧遊里で時たま見かける。(下)
錦町へ向かう通りには飲食店が点在する。
参考資料 リンク
立川市

参考文献
『赤線跡を歩く2』 木村聡 自由国民社