遊里を歩く
第4話 東京 城北編
 東京城東編から隅田川を渡って旧江戸墨引内に戻ろう。城北編は江戸東京を通じて市中随一の歓楽街として発展した浅草を皮切りに下町の遊里を巡り、九段から山手の谷部に形成された遊里を伝って再度北上し、大正期以降に新設された郊外の花街・遊郭を歩く。まずは京の島原と双壁をなした吉原からスタートだ。
 
下町の遊里 浅草〜上野周辺
吉原
 
 『全国遊郭案内』(昭和4年)より吉原を引用しよう。

 「全国で何千とある遊郭の其の総てが湯女または飯盛女の進化した者であるが、東京の吉原と京都の島原だけは、最初から遊女屋として開業されたものである。(中略)最初に遊女屋を開業したのは庄司甚左衛門又の名を大阪小甚内という人で、慶長18年、今より約320年前に今の日本橋芳町へ開業した。その処はさびしい墨田の川岸で、四辺は一面葦原だったので名も芳原と命名したという事である。その後元和3年の火災にあい、直ちに同年3月現在の吉原に移転して今日に至ったものである。(中略)吉原の現勢としては、引手茶屋が45軒、貸座敷業が295軒、紅唇の娼妓が3560人働いている。震災後の建物は半永久的なものであるが、震災前の物に比べ何れも皆近代味を取り入れて、何処も彼処も明るい感じのする純日本風の建て方が何よりも悦ばしい傾向である。・・・」

 その後戦災で全焼した吉原は、戦後は一時、進駐軍向けの施設がつくられ、進駐軍撤退後は赤線のカフェー街となり、現在のソープ街へと移行した。江戸時代は中心市街から船でアクセスしたため山谷堀側に大門があった。街区は中央の大通りである中之町通りを軸に大門側から見て右側手前から江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目、左側手前から江戸町二丁目、角町、京町二丁目と配置され、中之町通りの奥に吉原神社という構成である。
 現在の吉原は、近年建て替えられたソープランド店が表通りを占める一方で、戦後のカフェー街時代の建物を町中に散見できるという町並みである。

 この吉原、私が遊里探訪を始めた初期のころに訪ねた街で、遊里探訪の鉄則を心得ていなかった頃。朝7:00に街に入って写真を撮りまくった。しかし、吉原は朝から営業している店があって呼び込みが立っている。よくおっかないお兄さんに捕まらなかったと思う。




吉原全景

江戸町一丁目の町並み
ここはソープランド店が軒を連ねる

京町二丁目辺りとなると現役営業の店はなくなる。戦後カフェー時代の色気あるモルタル系の建物が残っている。
浅草花街
 
 江戸時代より、浅草寺の周りには参詣客を相手にした飲食店街が集まり賑わっていた。浅草寺門前の田楽茶屋の酒客を相手に生まれたのが田楽芸者とも呼ばれた「広小路芸者」である。また、新吉原遊郭大門外の浅草田町には、山谷堀に面する編笠茶屋や船宿を出先とした「堀の芸者」が生まれた。さらに、天保の改革で江戸市中にあった歌舞伎の三座、人形芝居の二座が移転して芝居町が形成された猿若町(現在の浅草六丁目)には、芝居茶屋を出先とした芝居芸者(櫓下芸者)が誕生した。これら三か所の花柳界を背景に、浅草は江戸府内随一の歓楽街として発展した。
 
 明治18年(1885年)の浅草寺境内整備を契機に広小路、山谷堀、猿若町の芸妓の一部が集まり、公園内の飲食屋を出先にした、現在の浅草芸妓のもととな公園芸者が生まれた。やがて、花街は公園内から浅草寺北側の現在の位置に移り、大正末期には料理店49軒、待合茶屋250軒、芸妓1060名と東京随一の規模を誇るまで発展したが、関東大震災と戦災で壊滅状態となってしまった。しかし、戦後も花街として復興し、今でも花街としての活気と風情を感じることのできる街となっている。



現役の花街らしく三業会館(検番所)がある。

高級料亭から小料理屋まで広範囲に街を形成している
根岸
 
 鶯谷駅の東側が根岸界隈。金杉通り(旧奥州裏街道)に沿って江戸から明治にかけて発展した地区で、正岡子規をはじめ文人や画人なども多く住む「呉竹の根岸の里」とも呼ばれていた。
 
 金杉通り沿いには、明治から昭和初期に建てられた町家が多く残っている。金杉通りの北側にほぼ並行する通りは、大正10年に三業地の許可が下った遊里だったところで、大正15年には、芸妓置屋40軒、芸妓139人、待合30軒があった。それらしき家屋が数軒見られる。




花街の遺構はほとんどないがそれらしい一角。
上野

 上野は江戸期以来の繁華街・行楽地である。中でも上野広小路はその中心地で、江戸城の鬼門鎮にあたる東叡山寛永寺の門前町から発展し、東北方面からの玄関口である上野駅がその命脈を維持してきた。広小路にある松坂屋デパートは江戸期の呉服店が拡大発展した老舗である。
 
 その上野広小路の西側、不忍池から松坂屋がある春日通りを南へ渡ったブロックまでの広いエリアが上野の花街である。北から池の端、数寄屋町、同朋町と呼ばれていた。「全国花街めぐり」(昭和4年)によれば、芸妓置屋180軒、芸妓420人であったという。

 この街は残念ながら戦災に遭っているためかつての花街を感じることのできる風情は残っていないが、戦後発展した昭和の歓楽街の色濃い町並みとなっている。特に東西に中心を貫く仲通り沿いには焼け残った鉄筋コンクリート造の建物が二棟残っていて歴史を感じさせてくれるほか、仲通りと春日通りとの間は路地状の飲食店街となっていて夜歩くと楽しそうだ。

 年の暮に賑わうことで有名なアメ横は、上野広小路をはさんでこの繁華街のすぐそば。ガード下集落として見ると面白い。

 

 

中通りに面する戦前の建物。花街一帯は戦災で焼けているので、このような不燃建築が数棟残っているにすぎない。

アメ横のガード下集落。戦後の闇市から発展した商店街。
湯島
 
 東京大空襲の時、旧市街の下町では北西の風にあおられて燃え広がったと考えられる。大きな緑地や川、大通り、震災復興小学校などの不燃建築物の風下側の町は焼け残った場所が多い。文京区湯島3丁目の一部は、湯島天神の南東側に位置しており、戦災を免れた戦前の町並みが見られる。しかし、大正12年の関東大震災では被災しており、復興小学校である黒門小学校がある。小学校の南側も焼け残った場所であり、火除けとして建てられた不燃建築物の効果はあった。しかし、現在では小学校周辺では残っていない。

 町並みは湯島神社の男坂、女坂を下ったあたりが見所で、伝統的な出し桁造りの町家が数棟見られる。ただ、都心部は現在、住宅建設ラッシュで、すごい勢いで建て替えが進んでいるので、町並として認識できる景観はここ数年が命といった感じである。
 また、湯島天神の西側、中坂の上は明治維新後に栄えた三業地で、「全国花街めぐり」(昭和4年)によれば、芸妓置屋59軒、芸妓120人、料亭15軒、待合31軒が存在していたという。今ではラブホテルの間に小料理屋が数軒見られる程度だ。

 


 

湯島神社下の町並み
花街は丘の上だったようだが、風情はこの辺りに残っている
神田講武所
 
 江戸時代、神田には江戸幕府御用達の市場があった。神田明神下には市場の旦那衆が遊んだ花柳界が形成されていた。その起源は、現在の秋葉原駅前付近にあった武術の練習場である「講武所」を運営するために開かれた町屋敷だったと言われる。そのため、ここの花柳界の芸者は「講武所芸者」と呼ばれ、明治期から戦前まで夜の繁栄を見せていた。神田講武所なる花街の範囲は、神田明神下交差点を中心に、外神田2丁目から3丁目にかけてだったというから、現在の神田明神下から秋葉原駅までの一帯にあたる。現在、その面影が一番感じられるのは神田明神のすぐ下のあたりだが、秋葉原電気街の中にもそれらしい建物が点在している。


 

神田講武所花街の範囲は何と秋葉原電気街もそうであった。確かに電気屋さんの間に飲食店をやっている戦前の建物が残っていることに驚いたことがある。
画像は神田明神の下で、面影が残っているエリア。
山の手の遊里 神楽坂〜白山
九段
 
 九段は都心部山手台地上の住宅文教地区。江戸時代、幕府が傾斜地に九段の石垣を築き、御用達屋敷を建てて九段屋敷と呼ぶようになったのが地名の由来という。明治2年に九段坂上に招魂社を設置し、明治維新前後の戦死者を祭った(後の靖国神社)。九段坂は山の手と下町を結ぶ急坂で、江戸時代は石段だったが明治期に坂道となり、関東大震災後の復興事業で大改修され現在のような長い坂になった。現在でも坂上は武家屋敷町、坂下は町人町という江戸期の土地利用の様子を体感できる場所。
 
 九段坂上の靖国神社からみて靖国通りの反対側には戦前まで富士見町と呼ばれた花街があった。富士見町といえば靖国神社の北側だが、かつては南側も町域であった。昭和初期には芸妓置屋100軒、芸妓340人、待合120軒があったという。九段から麹町にかけての一帯は戦災に遭っているので古い建物は残っていないが、花街の面影がほんの少しだが残っている。



富士見町花街の面影は料亭が残っている程度。
神楽坂

 JR飯田橋駅の西口を下りると江戸城外堀跡の牛込見附がある。そこから外堀と外堀通りを渡って西へ上っていく坂が「神楽坂」である。意外と急な坂を上りきると左手に「毘沙門天」がある。神楽坂はこの毘沙門天の門前町として江戸時代より発展した。門前町といえば遊郭がつきもので、坂の北側一帯が、明治期には銀座以上と詠われた遊郭である。

 神楽坂は戦災で殆ど焼けたと言われており、戦後の航空写真を見てその様子が確認できる。しかし遊郭エリアは、従前の細く入り組んだ路地の構成が戦後に引き継がれた。その路地を徘徊すると、遊郭らしい石畳、黒い板塀、板壁や黄土色のリシン吹付け外装の建物、小さな庭の緑、背景にはオフィスビルやマンションが見えるという、独特な都市空間を体験できる。


この料亭(現おにぎり屋)は最近火事で焼失したため現存しません
白山
 
 現在の文京区白山は、旧小石川区指ヶ谷町、白山前町などを合わせた新しい地名で、地域内にある白山神社に由来している。旧指ヶ谷にはかつて花街史上重要な花街があった。
 明治期、幕藩体制の転換とともに武家屋敷地の土地利用転換の一つとして花街の形成があった。しかし、明治後期に風紀取り締まりのために指定地以外の私娼街は存続できなくなった。つまり、取締りを始めた時期にそれまであった「慣例地」だけに限定され、明治末期まで都心部では新たな花街が生まれることはなかった。
 そんな花街の増殖を抑制していた明治期、小石川で酒屋・飲み屋を経営したいた秋本鉄五郎という人物が、三業地指定の許可を再三警察に申し出ながら政治的な手段も使って明治45年に指定地許可を勝ち取った。こうして生まれたのが白山の花街である。白山は樋口一葉の『にごりえ』の舞台となっていた私娼の街という下地はあったものの公に認められていた場所ではなかった。それまで既存の営業を行っていなかった場所には許可をしないという原則を破り、白山に三業地二業地指定の許可が下ったことは、大正期に多くの新花街を誕生させるきっかけとなった。昭和初期で、芸妓置屋160軒、芸妓60人、料亭39軒。

 都営三田線春日駅と白山駅の間、白山通りの一本東側に商店街がある。その商店街と本郷台地との間のエリアが旧白山花街である。戦災からも免れているため花街時代の細い路地に木造2階建ての建物が結構残っている。外装は下見板張り系が多く屋号が刻まれているものもある。戦前の家屋がこれほど残っているのもすごいが、花街時代の空間がこれほど色濃く残っているのは驚きだ。




白山は戦災を免れた山手の花街である
城北郊外の遊里
大塚 駒込

 大塚は江戸時代には江戸北西の郊外地であったが、1903年(明治36年)大塚駅開設後しだいに発展し、王子電気軌道(現都電)の開業後は駅前商店街が成立した。第二次世界大戦までは池袋をしのぐ城北の繁華街であったが、戦後は東京の住宅地が西進したため停滞した。 大正7年に大塚に二業地の許可が、続いて大正14年に三業地の許可が下りた。大塚駅前の天祖神社周辺にはお師匠さんたちが集住し「大塚遊芸師匠組合」が組織されていたため、当初神社周辺に地区指定が期待されていたが、許可が下りたのは駅から東方にやや離れた場所であった。
 大塚駅の南口を出て大通りを東へ渡ると「大塚三業通入口」なる看板が現れる。その名から容易に花街であることが分かる。大塚三業通りは古い通りらしくくねくねしていて、両側に料亭が並んでいる。看板をあげている店が多いので多くは現役であろう。

 山手線で大塚駅から上野方面に二駅の駒込にも新興の花柳会があった。地元の大地主ら数名の三業地出願によって大正11年に指定された。駒込駅南口からアザレア通り商店街をずっと進み、不忍通りの手前あたりになる。現在では古い元料亭か旅館と思われる建物が残っている程度である。




大塚三業通りに面する料亭

駒込花街のあたりにあった古そうな建物。
王子 尾久

 北区王子はわが国の製紙(洋紙)工業発祥の地。荒川西岸の沖積地に立地し、駅付近の中心商店街をはさんで、北に十条製紙工場、南に王子製紙工場がある。そんな中心商店街から外れた一角(豊島1丁目)に花街があった。待合・料亭組合員数では、1955年頃がピークで27軒の記録がある。現在ではその面影はほとんど皆無であるが、場違いにある飲み屋や質屋の存在から想像するほかない。

 王子から都電荒川線で数駅の小台駅で下車した荒川区西尾久2丁目にも花街が存在した。関東大震災後、王子にあった軍需工場を背景に発展したといわれる。昭和40年ころは料亭が20軒芸妓80人がいたそうだが、最近まで一軒の料亭があった(「赤線跡を歩く2」)。しかし、現在、最後の一軒と言われた料亭もなくなって公園になっている。隅々まで歩いてみたが全く痕跡は感じられなかった。




王子花街があった界隈

尾久花街のあった界隈
千住

 千住町遊郭(柳新地)は、千住駅から日光街道、日光街道バイパスを横切って徒歩15分というかなり離れた場所につくられた。日光街道沿いの宿場町では、飯盛女を大勢置いた旅館が十三軒あったが、大正13年に柳町が指定され移転した。その直後に関東大震災があり、移転したことが幸いして被災しなかったため、東京の吉原洲崎の客がどしどし押し寄せて発展したといわれる。昭和4年時で、貸座敷53軒、娼妓330人が居た。
 北千住の町は戦災にあったが、柳新地は被災しなかったため、戦前の建物に戦後のカフェー建築が混在する町並みとなっている。



何の変哲もない住宅地に画像のような建物が見られる。見る人が見ないとかつてカフェーだったとはわからない。

 遊郭は時代が下ると取締りを受け町の外の新地に移転されるケースが多い。近世近代問わず遊郭が都市計画された整然とした街区となっている例が多いのもそこに理由がある。一方、遊郭が移転した後の土地はどうなるのであろうか。遊郭時代の飲食店業者は行政の思惑どおりに移転するものもあるが元の場所にとどまって飲食店の営業を続けるものもある。つまり、場所の性格はそう簡単に変えられるものではないということだ。そうなると、遊郭跡地は娼妓を置かず芸妓を置く「花街」となり、飲食店街として存続するのである。東京の花街=花柳界の一部はこのような法則で生まれたものも多い。さらに、大正期になると「慣例地」でもない新たな場所にも花街が許可されるようになり、世界一の人口をもつ東京という大都市にはたくさんの遊里が存在することとなった。そしてそれらの一部は、戦後、進駐軍を相手にした私娼街から発展した赤線青線あるいはカフェーへと移行した。昭和33年の売春防止法遺構、赤線は姿を消したものの、やはり歴史ある風俗街は現在も形を変えつつ存続しているといってよいだろう。

 さて、日本最大の都市東京の遊里を隈なく探訪した後、その知識と感覚をもって全国の遊里を北から南へ旅することとしよう。「遊里を歩く」第5話は北海道・東北編である。