浅草
三業地
江戸東京随一の歓楽街浅草に形成された花街

東京都
台東区
浅草3,4




交通
地下鉄銀座線浅草駅下車徒歩ほか





浅草三業地




2008.02.09
 江戸時代より、浅草寺の周りには参詣客を相手にした飲食店街が集まり賑わっていた。浅草寺門前の田楽茶屋の酒客を相手に生まれたのが田楽芸者とも呼ばれた「広小路芸者」である。また、新吉原遊郭大門外の浅草田町の山谷堀に面する編笠茶屋や船宿を出先とした「堀の芸者」が生まれた。さらに、天保の改革で江戸市中にあった歌舞伎の三座、人形芝居の二座が移転して芝居町が形成された猿若町(現在の浅草六丁目)には、芝居茶屋を出先とした芝居芸者(櫓下芸者)が誕生した。これら三か所の花柳界を背景に、浅草は江戸府内随一の歓楽街として発展した。
 明治18年(1885年)の浅草寺境内整備を契機に広小路、山谷堀、猿若町の芸妓の一部が集まり、公園内の飲食屋を出先にした、現在の浅草芸妓のもととな公園芸者が生まれた。やがて、花街は公園内から浅草寺北側の現在の位置に移り、大正末期には料理店49軒、待合茶屋250軒、芸妓1060名と東京随一の規模を誇るまで発展したが、関東大震災と戦災で壊滅状態となってしまった。しかし、戦後も花街として復興し、今でも花街としての活気と風情を感じることのできる街となっている。
見番所である三業会館。現役の花街であることの証。
花街の町並み。ここいら一帯は戦災を受けているので、戦前の建物が残っていないのは残念であるが、戦後のモルタル系木造建築の料理店が建ち並ぶ。
モルタル系外装の木造建家。

新橋や赤坂などは大型の料亭しか残っていないが、小さな店もあるのが浅草花街の特徴。
参考資料 リンク
台東区

参考文献
『赤線跡を歩く2』 木村聡 自由国民社