にっぽん集落町並み縦走紀行 
  
第5日 福岡(福岡県)~的山大島(長崎県)
    上無津呂 玉島南山下
  伊万里 平戸
 


【回想】 平戸 寺院と教会が一緒に見える坂  1983年に訪れた時の写真
 
 第5日、福岡空港9:00am。今日は高速道路にのって西へ進み、長崎道佐賀大和ICから国道323号線を北上、佐賀市富士町上無津呂という小集落から探訪を開始する。この縦走紀行、初日から天気には恵まれないが今日も雨。私はどうやら正真正銘の雨男のようで、35年前にはじめた集落町並み探訪の旅での雨率は高い。本降りになってくれなければよいのだが。
 国道に見られる民家は梁間の短い角家造りで、佐賀県に入ったんだなぁと実感させてくれる。江戸時代の肥前地方では建築規制があり、梁間の制限があった。しかし、住人はその規制の中で何とか家の面積を広げようと、小さな梁間の屋根を寄せることで面積を確保する工夫をした。その結果、棟がコの字やロの字になるくど造りが生まれた、といわれている。くど造りは佐賀平野を中心に分布していて、集落規模だと鹿島市の高津原船津三河内小城町などにみられる。この建築規制、質素倹約を目的に佐賀県のみならず全国で見られた現象であり、たとえば関東の四方下屋造りもそうである。
 

国道323号線を走る

 国道は嘉瀬川に沿って上り、熊の川温泉を過ぎたあたりから勾配が強まる。下無津呂で国道を外れ、少し走ったところに茅葺トタンカバー屋根の民家が集まって現れ出した。上無津呂である。背振山地の中でも福岡県境に近い山里で、この集落には重要文化財吉村家住宅という天明9年(1789年)に建築された古民家がある。比較的大型の直家で、平野部の折れ曲がった棟の民家とは形態を異にする。その周りの家々も直家だ。この上無津呂集落、眺めていて質の高さを感じる。集落の中を流れている上無津呂川の護岸や神社境内の石畳、石鳥居にはじまり、家々の屋敷が石垣で築かれているからで、石材はおそらく地元で産するのであろう。茅葺屋根の民家集落が激減している現在、北部九州では貴重な存在だ。
 

浜玉町玉島南山下の町並み 玉島川と菜の花
 

 再び国道に戻り、背振山地を越えると玄界灘を臨む平野部に下る。ずっと進んでいけば虹の松原をかすめて唐津に至るが、その手前の玉島南山下に古い町並みが残っているらしい。まずはクルマで流してみるとあっけない短さではあったが、中々重厚な町並みだ。端にあるJA前にクルマを停めて歩く。通して歩くのをもったいぶるように、途中で町と並行する玉島川の古い橋を渡って、対岸から全景を眺めてみた。護岸の丸石垣と家並みの良さもさることながら、川原に菜の花が咲き乱れていて綺麗だ。今年は長く寒い冬だったが、ようやく春が来た。町並みの中には料理屋もあり、それなりの町だったのだろうと思う。近くの海岸沿いの浜崎地区も期待したが、こっちは何もなかった。
 唐津は地形が面白い城下町。2003年に訪れていて好きな町の一つではあるが、街中を通ると時間を要するので、唐津殿には申し訳ないが会わずに失礼する。国道202号線を今度は唐津から南下し伊万里へ急ぐ。
 

伊万里 道路拡幅された道路の両隣の通りに古い町並みが見られる


伊万里 入母屋妻入りの町並み

 伊万里といえば、有田で焼かれた焼き物を世界に送り出した港町。市内の大川内山地区でも窯元があり観光名所になっている。こっちは2003年に訪れているが、町の方をやり過ごしてしまった。後で文献を調べて載っていて悔しい思いをした町である。最盛期は江戸時代初期から中期だったそうで、残っている町並みは江戸後期から明治期に建てられたもの。道路の拡幅によって失われた通りもあるものの、その両隣の通りには残っている。特徴は入母屋妻入りの町並みで、大きな商家は平入りだった。

 

【回想】 鹿島市三河内のくど造り民家

富士町上無津呂集落の手前にあった直家の集まった集落

上無津呂の旧吉村家住宅(国重文)

浜玉町玉島南山下 短いながら古い建物が残っている

【回想】 唐津

【回想】 大川内山

【回想】 有田

伊万里 大きな商家は平入り
 伊万里から西へ走る。右手所々に海を臨み、並走する松浦鉄道が右行ったり左いったり。途中、地名から期待できそうな松浦の町を調べたが見どころが見つからなかった。15時半に真っ赤な平戸大橋を渡って平戸に着いた。

 平戸は3回目になる。以前来たのは35年前と20年前で、有名な「寺院と教会が同時に見える坂」の場所以外まったく記憶にない。写真もフィルム時代であったこともあり数枚しか残っておらず、長年リベンジしたかった町の一つだ。平戸は、かつては遣唐使が寄港し、天文19年(1550年)にポルトガル船が来港して以来、鎖国時代も南蛮貿易港として繁栄した町である。もちろん、建物に当時の面影があるわけではないが、そのような歴史の下地の上に明治期以降形成された町並みには、どことなくエキゾチックな香りがする。歩いても記憶が蘇ることのない町人町の間から、背後の寺町へ上がった。丘の一番高いところにはザビエル教会が建っていて、これはさすがに記憶にある。教会の裏から坂を下ると寺の築地塀が続き、振り返るとあの場所だった。教会はきれいに塗りなおされ、築地塀も以前は途中までしか瓦が載っていなかったのがスッキリ修復されていた。
 

平戸 町人町の町並みは現在商店街

 時間に余裕があるつもりで、的山大島への渡船乗り場へ立ち寄ったら、18:10発だと調べていた船が17:40だという。これは大変だ、乗り遅れたら島へ渡れないではないか。急いでクルマの停めてある市役所まで走って行ってリュックを背負い、走って戻って何とか渡船の出航に間に合った。
 大島的山港までは45分。多くの乗客が降りたにもかかわらず、島内の集落を巡回し神浦へ向かう市営マイクロバスに乗ったのは老夫婦と私の3人だけだ。老夫婦は知人の葬式に出席するために島にきた様子。集落のはずれのある家の前でバスが停まり、老夫婦のお父さんの方が、花束を持って車外へ出ていったかと思うとすぐに戻ってきた。どうやら、亡くなった方の家のようで、玄関前に花を供えてきたようだ。そして、丘の上にある集落の花輪の並ぶ家の前で老夫婦は降り、乗客は私一人になった。すると運転手のおじさんが語り始めた。「葬式がある度に島へ人が集まってくるとです。かなりの人が本土へ移住してしまった」と。車窓には美しい棚田が広がっていた。そして、日が傾き暗くなりかけている神浦に着いた。

 今晩は、関東屋旅館という宿に泊まる。神浦集落は、国の重伝建になってはいるものの指定されてからの時も浅く、シーズンオフでもあり、泊り客は私だけだ。風呂で汗を流し、大きな部屋にポツンと置かれた御膳に座って、今日一日歩いた町の記憶を肴に飲んだ。
 

大島神浦 関東屋旅館にて

【回想】 平戸口にあたる田平 田平天主堂

平戸 寺院と教会が同時に見える坂

平戸 寺町から平戸城を見る

大島神浦の夕景
 
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