広島瀬戸内紀行
 

2004年5月末、旧中山道69次の宿場町を全て歩き終わった私は、次なる目標としてDataBaseにリストアップした集落町並みの「全都道府県ごとに50%を歩く」というプロジェクトにとりかかった。目標達成のために訪れなければならない集落町並み数は315ヵ所、これを2年半で歩くというものである。下表がその分布状況である(2004年5月現在)。
山形県 
神奈川県
新潟県 
愛知県 
富山県 
福井県 
三重県 
24
滋賀県 
京都府 
11
奈良県 
14
和歌山県
12
大阪府 
11
兵庫県 
18
岡山県 
38
広島県 
27
鳥取県 
10
島根県 
山口県 
11
香川県 
12
徳島県 
愛媛県 
14
高知県 
12
福岡県 
10
大分県 
長崎県 
12
熊本県 
10
沖縄県 
なんと散らばっていることか!。47都道府県のうち半分以上の27府県に行きなおさなければならない。東京から遠い西日本ばかりである。しかも岡山県、広島県、三重県は件数が多く1回の旅では無理で、2回以上に分ける必要がある。逆に大分県などは3ヵ所のために行かなければならない。攻略の順番は、九州→近畿→北陸→四国→中国→沖縄と決めた。こうして2年半、ほぼ毎月せっせと各県を踏破していった。そして2006年11月下旬、広島県と沖縄県だけが残った。ラスト2は広島から仕上げ、最後は沖縄で飾りたい。
 
広島県は、「いらかぐみ」の一員で広島を拠点に歩いている孫右衛門さんのおかげでたくさんの集落町並みがリストアップされている。2005年3月は山沿いを歩いたので、今回は海沿いを歩く。ありがたいことに、今回の旅では、孫右衛門さんに一日ご案内していただける。そこへ、Yasukoさん(岡山県)、西山さん(京都府)が参加することになった。さらに、広島県在住の民家集落探訪家ルナルナさんも別の一日を案内してくださるという。広島の繁華街で5人揃っての食事会も企画された。各県50%プロジェクトのラスト2に相応しい、にぎやかな旅になりそうだ。
白市(広島県東広島市)
休暇をとった金曜日の朝、広島空港に近い白市の町から歩く。白市は2005年3月の旅の最後に歩こうとしたが、JR白市駅から遠く断念した思いがある。
町は、丘の上にあって急な坂道沿いに形成されている。上りきったところに開口が少ない閉鎖的な外観の町家があり文化財として保存されていた。開口が少ないということは古い町家である。そこから道は90度西へ折れて町並みは続く。丘の上から町を見下ろすと朝の光に赤瓦が輝いていた。
安芸津(広島県東広島市)
瀬戸内海岸へ走る。竹原の西、三津湾に臨む秋津町三津は、米どころの西条盆地を後背地に発達した港町である。町は米の集散地であったことから酒造業が多く、軟水製造法を採用して滑らかな味わいの酒を造り発展し、かつては5軒の蔵元があったという。
駅前駐車場に車を停めて、港近くの東浜、西浜、戻って胡町、本町を歩く。5軒あったという造り酒屋のうち、現役の2軒は見つけることができた。そのほか、閉じてしまったけれど酒蔵だったと思われる建物や店も残っていた。
忠海(広島県竹原市)
忠海は、三方を山に囲まれ瀬戸内海に臨む港を持つ商業地である。忠海港は三次藩の外港でもあった。古い町並みは、かつての海岸線に沿うように形成され、西部の忠海駅の北側付近が中心だったようだ。町のそこここで背後にそびえる黒滝山の見られるのが町並み景観の特徴である。東町に通じる東西の通りには鉤曲りが残っており、オーソドックスでシンプルな塗籠造りの2階建て町家が並んでいる。
幸崎(広島県三原市)
中心集落の能地は古い漁港で、沖合いの能地堆では急潮による浮鯛漁が行われていた。町並みはかつての海岸線に沿って弓なりの線形をとっており、軒線揃った町並みが見られる。途中に2階建ての洋館が建っている。当初、診療所として建築されたもので、現在は地元出身で大正から昭和に架けて活躍した彫金家清水南山の資料館となっている。町の東を歩くと通り景観の背景にスケールの大きな赤い幸陽ドックのクレーンが見える。幸崎駅周辺は造船所前の工場門前町となっていた。
三原(広島県三原市)
驚くことに新幹線が旧三原城の石垣の上にのっかっている。城の内堀と外堀の間に造られた駅は多いが、本丸の上に造られたのは珍しいであろう。三原町は城の北側と通る旧山陽道に沿って、東と西に造られそれぞれ東町、西町と呼ばれた。西町は駅から近く商店街として姿を替えたが、東町は内堀で迂回するため商店街としては寂れたのであろう、東町のほうが比較的良く残っていた。しかし、近年の道路拡幅工事で東町は一変してしまった。かつての三原東町(「郷愁小路」より)現在を見比べてほしい。一部の重要な町家は曳家保存されたが、軒を切り取られたものもあり、もう古い町並みとは言えない。したがって、今度は西町のほうが相対的に古い町並みとして見えてくる。町並みは時代とともに旬が移るものである。
横倉(広島県沼隈町)
瀬戸内海沼隈半島の真ん中にある農村集落である。町から離れた立地で村には平家の落人伝説が残っている。谷底の平野部から斜面にかけて石垣を積んで集落が形成されており、トタンでカバーされているが草葺屋根の古民家が多く現存している。集落を歩いてみると、田圃や敷地を平らにするために積み上げられた石垣の美しさが印象的な集落だった。
内海(広島県福山市)
福山市内海町(旧内海町)は、鞆半島の先端から橋で渡ることの出来る田島と横島の2島からなる。両島は坊地ノ瀬戸を挟んだ橋で結ばれていて、それぞれ向かい合うように農漁業の集落が形成されている。田島の町並みは、かつての繁栄振りをうかがえる町並みで、海鼠壁・虫籠窓の町家建ての民家や旅館建築も残っている。横島も田島には劣るものの単なる漁村とは思えない町並みが見られる。ある交差点には、昭和24年に建てられた「平和塔」というシンボリックな時計塔があった。
 
今晩は広島市街の外れの元宇品にある広島プリンスホテルに泊まる。あたりは真っ暗でどんな場所にあるのか分からないが、なんともうら寂しい場所である。
宮島(広島県廿日市市)
土曜日の朝6:30。ルナルナさんがホテルに迎えに来てくれた。彼とはネットでやり取りしているものの初対面である。ジャン・レノのような「渋カッコいい」方だった。
まず、観光客が押し寄せる前に宮島に渡る。以前来たのは厳島神社を見ただけで町並みは歩いていない。今回は厳島神社には入らず町並みだけを歩く。ルナルナさんも「宮島を案内して厳島神社に入らなかったのは今回が初めて」とおっしゃっている。ルナルナさんが厳島神社の鳥居を撮影し始めた。「鳥居の片方に月、もう一方に太陽が描かれていると最近知ったんです。」潮がひいている神社前を横切って反対側に渡り、また鳥居を撮影する。「月と太陽」、確かに描かれていた。
地御前(広島県廿日市市)
連絡船で宮島口へ戻る。これから宮島へ向かう船には観光客が一杯。さすがルナルナさん、宮島を朝一で訪れたのは大正解だった。
厳島神社には外宮があるということで、廿日市市の地御前神社へ立ち寄る。鉄道に挟まれた劣悪な環境に拝殿と本殿が建っている。厳島神社に訪れる観光客もここには来ないであろう。内宮とはあまりにも対照的である。しかし、徒歩時代の旅人は、西国街道からこの外宮の前を通って宮島に向かっていた。外宮の門前町もかつては賑わっていたのであろう。
草津(広島県広島市)
Yasukoさんは、今朝広島入りをし、すでに広島市東遊廓(下柳町)を歩いている。彼女とは旧西国街道沿いの草津の造り酒屋小泉本店前で落ち合った。
草津の町は、旧西国街道沿いから港の間に形成されている。旧西国街道がかつての海岸線に対して約45度に通るため、旧港付近は長方形街区なのだが国道2号線と旧街道との間は扇形の街区線形になっている。古い町並みとしては、まず旧西国街道沿いが見所となる。広電の踏み切り近くに整った家並みを見せる小泉本店は、厳島神社へ御神酒を献上する蔵元である。そこから古い町家が点在して残るが、中には他であまり例を見ない「つし3階建て」と表現したくなるような町家も見られる。扇形街区の方向性を失う不思議な町並み、国道2号線沿いの顔ウダツのある商家、旧港近くには鏝絵のある蔵など、珍しいものを見つける楽しさのある町並みだ。
舟入(広島県広島市)
広島市内の旧大田川である本川と天満川の中之島にあたる舟入町には、明治25年に創設され昭和33年の売春禁止法施行まで続いた広島市西遊廓があった。昭和5年時、貸座敷55軒、娼妓は約300人居たとある。
現在の舟入町を訪ねると、川沿いにラブホテルが建ち並び整然とした街区にマンションが多い。このエリアは原爆の被災地区であったため、当然古い建物は残っていないわけだが、伝統的な意匠の建物が数軒残っている。その意匠の細部を見ると欄干や欄間、ガラスに色気のある模様が施されている。戦後に建てられたものであろうが遊廓らしさを伝えようとしたのだろう。街には「羽田別荘」という高級料亭があった。その周りはラブホテル街。遊郭跡の典型的な街である。
祗園(広島県広島市)
祗園は広島市の北部、太田川沖積地の農業地の中に工場が立地する広島の近郊都市。可部街道沿いの旧市街は幹線道路に面していて交通量が多いのだが、道路の拡幅など行われておらず比較的古い町並みが残っている。祗園という地名は、中世武田氏以来の祗園神社にちなんでいる。
広島の市街地は戦災を受けているので古い町並みを見ることが出来ないが、祗園のような近郊部に残された町並みからかつての面影を知ることが出来よう。
可部(広島県広島市)
お好み焼き しーやん Movie
広島市北部の可部は、大田川の中流域に面し、芸北から出雲・石見地方へと至る街道と大田川の水運の切り替え点として栄えた町である。
旧市街の町並みは南北に長く、中ほどに鍵の手曲がりが残っており間口の広い切妻平入りの町家が並んでいる。伝統的な町家の中には酒屋や醤油醸造所があって伝統的景観の柱になっているとともに、洋風銀行建築などが変化を与えている。表通りは町並みの出来栄えに逆らうように交通量が多く歩きづらいのが玉に瑕だが、裏小路は落ち着いて歩くことが出来る。特に鍵の手近くの味噌商の裏側は、地形に沿って曲がりながら蔵が並んでいて絵になる風景となっている。
 
この町で昼ごはんを食べることにしよう。せっかく広島に着たので広島風お好み焼きの店に入った。店のおにいさんが目の前で焼いてくれるのだが、手さばきがいい。Movieで全国配信すると言ったら張り切って卵2個入れてくれた。
志和堀(広島県東広島市)
志和堀は広島市の近郊でありながら、茅葺屋根の民家がたくさんの残っている農村である。ルナルナさんの愛する集落で、今回最も歩きたかった集落の一つである。
この集落を知り尽くしているルナルナさんが次々と見所を案内してくれる。一人で来ていたらこんな場所見つけられないといった場所も歩くことが出来るのはいい。しかし、よくもここまで茅葺屋根が残っているものだ。中でも、集落の中心に建つ千代乃春酒造の母屋は素晴らしい民家である。記念に小瓶を一本買った。
海田(広島県広島市)
海田も戦災都市広島近郊で残る古い町並みの一つである。海田は西国街道の宿場町で、江戸時代初期に本陣が置かれ宿場町となった。現在見られる古い町並みは断続的であるが長く平入と妻入の混在したもので、脇本陣を勤めた千葉家(県重文)がその中心的な役割を果たしている。
日の短い11月下旬の夕方、長い町を急いで歩かないと日が暮れてしまう。Yasukoさんと私は、東の端で車から下ろしてもらい西の端で拾ってもらった。ルナルナさんありがとう!
 
この日の晩は、大久野島でバードウォッチングを終えた西山さん、仕事帰りの孫右衛門さんと繁華街で合流して、牡蠣料理を食した。5人で町並み談義、民家談義、いくらでも話題は尽きない。
矢野(広島県広島市)
最終日、今朝はゆっくり朝食をとろう。広島プリンスの最上階のレストランからは360度の美しい広島湾の眺望が楽しめる。なるほど、自然豊かな場所にあるホテルだったんだ!
今日は地元孫右衛門さんの案内で呉周辺を歩く予定である。最初は孫右衛門さんの本拠地である矢野からスタート!。
 
矢野は古来より交通・軍事上の要地であり、街道を通じて地域の物資が集まる立地にあった。特産の「かもじ」(和かつら)は一時期全国需要の7割を占め、明治中期以降は輸出品ともなり、町は隆盛のピークを迎えた。第二次世界大戦後は「洋かつら」におされ以前ほどの活気は見られなくなった。
旧市街は氏神尾崎神社に通じる通りを中心にした商店街が形成されており、町家や銀行建築が並んでいた。また、かもじの染めた毛を洗っていたという矢野川に沿っても町家や近代洋風建築も見られ、両通り以外の路地にも栄えた頃の遺構がいろんな形で残っている。矢野は、いろんな発見をしながら歩ける、町全体が郷愁をそそる空間満載の通好みの町並みである。こう感じるのも町を知り尽くしている「郷愁小路」孫右衛門さんのエスコートがあったからであろう。
吉浦(広島県呉市)
駅前辺りから斜面を上る方向に一直線に商店街が伸びている。途中、吉浦小学校の北側を東に折れて進むと右手に大きな蔵が横たわっていている。蔵の横を通り過ぎると左手には誓光寺という寺の山門があるが、その山門前に「水龍」という地酒を醸す中野光次郎本店がある。この蔵元の建築群が誓光寺とあいまって、とても優れた町並みの一角を創っている。この蔵元は明治10年に創業したそうだ。
吉浦には明治20年に免許地となった遊廓があった。吉浦駅から南へ約一丁の西新地という場所にあったというから、JR線の市街地とは反対側にあったと思われる。そのエリアをYasukoさんに引張られながら隈なく探した。しかし、面影は残っていなかった。
両城(広島県呉市)
さて、今回の「広島町並み料理瀬戸内コース」のメインディッシュ「両城」である。以前、ルナルナさんから教えてもらって以来、ずっと出会うのを楽しみにしていた町である。「急斜面集落」が私の探訪の原点なのでとても興味を抱いていた。
 
1890年(明治23年)に海軍鎮守府が置かれて以来、第二次世界大戦が終わるまで、呉は軍港のある町として急速に発展した。この町の人口増加は急速なもので、昭和18年には人口40万人に達したといわれる。当時、平坦部は軍施設にあてられていたため、新たに移住してきた海軍関係者や職工らの新住民は、外周の急傾斜地に居住地を求めた。市の西部にある両城地区は、海軍士官の人々が多く居住していた。斜度45度近くの急傾斜地を切土盛土して8mにもなる石垣を積み上げて雛壇状に宅地化し、和洋折衷の住宅を並べた。また住宅地を巡る階段や塀には明治期に流行った煉瓦が用いられていて独特な景観が形成されている。両城は、わが国の中でもトップクラスの斜度を誇る密集集落といえる。
この両城を実際歩いて私はシビレまくった。「よくもここまでして開発したものだ」と、関心させられる。ここの斜度はクレージーである。何度も訪れたい町並みだ。
(広島県呉市)
自衛隊呉軍港の東側、潜水艦基地の前に赤煉瓦倉庫群がある。かつて軍施設だった弾薬庫などが、戦後民間に売られ倉庫となったもの。呉市街が戦災を受けているだけに、こういった歴史的建物の残る僅かな一角も貴重である。煉瓦倉庫群の目の前は潜水艦が浮かぶ軍港である。まるで何頭ものクジラが浮かんでいるかのようで気持ち悪い。
音戸(広島県呉市)
音戸瀬戸は呉市警固屋と倉橋島の間の水路で、平清盛が1日で開いたという伝説がある。水路は呉湾と安芸灘を結ぶ主要航路として最大500tの船舶が頻繁に航行している。そのため音戸大橋は桁下23.5mと高く持ち上げなければならず、倉橋島はらせん型高架橋、呉側はループ式道路となっている珍しい橋である。らせん型高架橋の下には港町として栄えた音戸町がある。
音戸は音戸漁港から音戸瀬戸にかけての海岸線に沿った長い町で、古い町並みとしては南隠渡1丁目から北隠渡、鰯浜、引地1に至る約1.5kmに見ることができる。
長い町並みなので普通に歩いたら往路を楽しんで復路は戻るだけになってしまう。そこを孫右衛門さんが町並みの演出を考えながらエスコートする。町並みは切妻平入で漆喰に虫籠窓を開けた町家が並ぶ商店街、蔵を並べる造酒屋、港近くで賑わった遊郭跡など、地形による変化もあって大変歩き応えのある町並みだった。
 
音戸を歩き終わったところで暗くなってきた。皆で楽しくワイワイやりながら歩くと、あっという間に日が暮れてしまう。最後に江田島に渡る早瀬大橋を眺める。3日間の広島瀬戸内紀行の旅が終わった。
 
これで残るは沖縄県だけとなった。自分を旅へと駆りたたせるために目標設定した「全国各県50%プロジェクト」も、もはや単なる数字の遊びでしかない。少なからず影響を受けている「時刻表2万キロ」を書いた旅行作家宮脇俊三氏が国鉄全線を完乗したときの感覚に少し近づいた気がする。
自分の部屋に貼ってある日本地図が全体的に真っ赤になった。沖縄県が唯一白く、私の来るのを待っている。