遊里を歩く
第3話 東京 城東編
 東京の城東地区というといわゆる下町。江戸時代から近代にかけて繁栄してきた一大商業集積エリアであり、職人や労働者の働き住まう場でもあった。人の集まるところに必ず遊び場ありとなれば、このエリアは当然ながら一大遊里集積エリアともいえよう。
 東京で一番古く大きな商業地である新橋〜銀座〜日本橋界隈は、旧東海道、旧日光街道を軸に町が形成されているが、その外側に花柳界が連続的に帯をなしていた。「東京城東編」では、東京の花街を代表する新橋から柳橋にかけて歩いた後、深川、本所界隈の遊里を徘徊しよう。東京の遊里の中でも一際ディープな街が目白押しだ。

 
新橋から柳橋へ 花柳界黄金エリアを歩く
烏森(新橋南地)
 
 新橋の烏森(からすもり)と言えば、ニュースの中で飲んだくれサラリーマンがインタビューを受ける名所。つまり、「リーマンの夜の聖地」である。私自身も丸の内に勤めているものの、丸の内で飲むのは好きではなく、どうしても新橋烏森に足が向いてしまう。

 明治5年(1872年)の大火で焼失した銀座を「文明開化の街として再建」することとなった「銀座煉瓦街計画」の建設工事に伴って、それまで銀座の新橋寄りにあった花街は、汐留川を越えて芝区(現港区)烏森神社付近に移転することになった。煉瓦街の工事が終了すると、再び京橋区(現中央区)銀座に戻る業者と烏森にとどまる業者に分かれた。その結果、新橋の花街は汐留川をはさんで、前者の<南地>と後者の<煉瓦地>から成り立つこととなる。その後、「新橋」の花街は大正11年に煉瓦地と南地に分裂、煉瓦地はやがて官民の接待所として発展する高級な花街「新橋」へ、対して南地は格下の花街となり現在の「リーマンの夜の聖地」へとつながっていく。

 新橋駅烏森口前のニュー新橋ビル(戦後の再開発ビルでこの建物そのものも大変興味深い集落)の西側、飲み屋街の中に完全に埋もれた形で烏森神社はある。鳥居をくぐった神社の境内、本殿への参道に面して小料理屋が建ち並んでいるのは興味深い。神社の裏手にも細い路地に飲食店がひしめいている。一方、ニュー新橋ビルの南側には風俗店も点在する飲み屋街となっている。この街にかつて花柳界があったといわれても、とてもそうは感じられない。




烏森神社の参道。参道に面して小料理屋が軒を連ねている。これらは鳥居の中なので、おそらく境内に建っているのであろう。神社に向かって左側にも建物があったと記憶しているが空き地となっており、最近取り壊されたようだ。

烏森神社裏側の細街路の町並み。このあたりは戦災に遭っているので古い建物は残っていないが、画像のような和風の建物が見られる。花街だった場所の記憶がそうさせるのか。
東銀座(新橋花街)
 
 東京メトロ日比谷線と都営浅草線がクロスする東銀座駅。駅前には晴海通に面して街の象徴「歌舞伎座」がドーンと座っている。歌舞伎座が建っている場所は現在銀座四丁目だが、かつては京橋区木挽町と呼ばれた。木挽町はその名の通り、江戸城造営の鋸匠を住まわせた町であり、万治元年に前面の海が埋め立てられて森田座が創設されるなど江戸時代は歓楽の地であった。木挽町は江戸開府間もないころから歌舞伎芝居のあった場所と言われている。歌舞伎座は、その歴史的な町に明治22年、1代目の建物が創建された。現在の歌舞伎座は大正13年に建てられた3代目の建物だが、戦災を受け戦後屋根や内部が改修されたため4代目と呼ばれている。近々この建物も老朽化のため建て替えられるという。街のシンボルでもあるだけに、是非現在の佇まいを存続してほしい。

 東銀座には歌舞伎座の他にも新橋演舞場があり、かつては万年橋の袂に東劇もあった(現東劇ビル)。つまり、東京の旧市街の歓楽街だった場所なのだ。新橋演舞場から新橋駅の方に歩いて行くと、戸建てやビルの1階に入居した料亭がたくさん現れてくる。吉兆、竹葉亭、金田中など、聞き覚えのある看板が目立つ。こここそが、新橋花街の名残を今に伝える街。背後には汐留シオサイトの高層ビル群が屏風のように建ち並んでいる。




4代目の歌舞伎座。大正13年に建設された3代目は建築家岡田信一郎(様式建築の魔術師?)の作で、中央に大屋根がかかっていた。空襲で火が入り前面を残して焼け落ちたが、戦後、建築家吉田五十八によって改修された。その際、大屋根が平になり内装は五十八のデザインによる。それが現在の4代目歌舞伎座である。

新橋花街界隈。現在の料亭街は新橋演舞場と汐留シオサイトの間にあるが、かつての花街は銀座から三十間堀の西側一帯と広範囲だったようだ。
新富町
 
 新富町は掘割を首都高が走っている旧築地川の東側で、南の築地、北の八丁堀とともに江戸時代に埋め立てられてできた土地である。したがって平坦で整然とした街区割となっている。

 ここは、明治初年の新島原遊郭以来の遊里で、「全国花街めぐり」では、芸妓置屋80軒、芸妓201人、料亭6軒、待合70軒とあり、「松しま」などは今でも名前が残っている。また、町には「新富座」という芝居小屋もあり、一時期は賑わった歓楽街であったのだろう。
 旧築地川の東側は戦災を免れた場所が多いが、新富町もそうで戦前の建物が点在して残っている。しかし、さすがの非戦災地区でも敷地がまとまれば大型ビルへの建て替えはどんどん進められており、歴史的景観は急速に失われつつある。
 私自身、東京に本拠を置き町並み探訪を趣味としていながら、いままでこの街を歩いたことがなかった。これほど戦前の建物が残っていたとは驚いた。




整然と区画された町に古い民家が残っているとなんとなく違和感がある。
芳町 人形町浜町

 日本橋人形町界隈は、戦災を免れた下町情緒が残る町として、東京観光の人気スポットになっている。人形町交差点から水天宮交差点にかけての人形町通りと平行した通りはたくさんの観光客でにぎわっている。そこを中心に周辺の町をめぐってみると関東大震災後に建てられ戦災を免れた建物がたくさん残っている。

 このエリアは、かつて「芳町」と呼ばれていた花街で、範囲は日本橋人形町、日本橋牡蠣町、日本橋浜町と広がっていた。「全国花街めぐり」によれば、芸妓置屋278軒、芸妓713人、料亭・待合あわせて313軒という。しかし、花街の雰囲気が残っていると感じられるのは、甘酒横丁から明治座を中心とした浜町界隈だけとなってしまった。

 一方、日本橋花街とは現在の八重洲一丁目のことで、東京駅八重洲北口と日本橋交差点の間のエリアである。現在でも飲食店の間に風俗店も見られるから、やっぱりそうだったのかと理解することができる。

 
 

 

すき焼きの今半 横の通り

甘酒横丁や浜町界隈には旧花街らしき風情がわずかに残る
柳橋
 
 神田川が隅田川に合流する河口に架かっている橋が柳橋。橋が架けられたのは、元録大火後の元録11年で、明治28年に鉄橋になった。現在の橋は昭和4年のもので、たくさん撃ち込まれたリベットが時代を感じさせてくれる可愛らしい橋である。

 橋の北側が「新柳二橋」とうたわれた東京を代表する柳橋花街。新橋花街が明治維新後であるのに対して、柳橋花街は江戸末期から存在していた。かつては柳橋の袂から隅田川畔にかけて料亭が並んでいたという。橋の上から神田川を見ると、たくさんの屋形船と船宿が並んでいる。江戸時代から船宿が並んでいて賑わっていたそうで、ここから隅田川を上り、山谷堀を使って日本堤の色街新吉原へ行く船が通っていた。
 現在の柳橋界隈を歩いて旧花街だと理解するのは難しい。それほど普通のオフィスビルに建て替わっている。それでもビルの間に不自然に和食の小料理屋があったりする。

 


 

神田川河口の船宿
かつてはここから山谷堀へ向かう船が出ていた。

柳橋の町並み
料亭街だったころを思わせる一角がなくもない。
深川・本所から東へ
門前仲町
 
 門前仲町は深川の中心商業地。江戸時代は永代寺門前仲町と呼ばれ17世紀半ばから町屋が形成され始めた。大正末期までは深川富岡門前町と呼ばれるようになった。

 商店街になっている永代通りの北側に深川不動尊・富岡八幡宮への参道がある。かつてはここが、羽織芸者、辰巳芸者で鳴らした花街だった。昭和初年には芸妓置屋54軒、芸者149人、料亭14軒、待合36軒あったという。遊里の痕跡はないものか探し歩いたら、料亭や旅館が数軒見られた程度。現在では大した町並みではない。これでは取り上げるに足らないので見捨てようとしたところ、「辰巳新道」なる小さな飲食店が密集する一角を見つけた。いわゆる青線っぽい臭いのするエリアだが、こういう空間は面白い。簡単に見捨てなくてよかった。




永代通りと参道との間の道に料亭が数軒ある。

辰巳新道と呼ばれる小料理屋が密集した横丁。
洲崎

 さて、いよいよ城東遊里巡りの肝となる洲崎を紹介しよう。洲崎とは江東区の中央部、木場の東側一帯の通称で、元禄年間(1688〜1704年)に埋め立てられた新地である。明治19年(1886年)埋立地が拡大され、明治21年に遊郭が根津から洲崎へ移転した。大正中期の全盛期で業者数が300軒を超えていたというから壮大な遊郭であったろう。
 
 永代通りから旧洲崎遊郭に入る。盛り上がった橋の跡を超えると広々とした大通りになる。何で交通量も少ないこんな場所に大通りがあるのかと不思議に思うが、都市計画で誕生した旧遊郭では珍しいことではない。洲崎遊郭の埋め立て地は当時は海に面していた。現在は周りすべてが地続きになっているものの、掘割の跡に囲まれていて周囲の町との連続性は薄い。洲崎遊郭は戦災でまる焼けになったので、戦前の面影はなく、戦後のカフェー街(赤線)時代の面影を残す。大通りと大通りの東側がカフェー街で、モルタル吹付けやモザイクタイルをベースにした色気あるデザインの建物が点在している。
 洲崎は今では静かな住宅地となっていて、かつてのカフェー建築も住宅として使われている。一方、空き地や「マンション建設反対」の看板が目立つ。木場は日本橋から10分の位置であり、江東区の他の場所と同様、高層マンションへの建て替えが進んでいておかしくない場所。にもかかわらず、マンションはほとんど建っていない。なぜであろうか。住民の反対運動が大きいからなのか。それとも場所の記憶がそうさせるのか。



カフェー街だった大通り東側の町並み
この民家、街の歴史を知らなかったら「変わったデザインだなぁ」と思うだろう。

円柱にモザイクタイルが貼られた建物
かつてはそれぞれに出入口があったのだろうか。
亀戸
 
 洲崎のあった木場からまっすぐ北上する。街の領域は深川(旧深川区)から本所(旧本所区)になる。亀戸は、東京江東区北東部にあり機械工業の中小工業が多い商工業地域である。JR総武線亀戸駅を中心にした商店街は、江東区一の繁華街で、隣の錦糸町とともに都内の副都心に位置づけられている。明治通りを北へ500m歩くと蔵前橋通りとの交差点があり、そこを西へ折れてさらに500mほど行くと亀戸天満宮(亀戸天神)がある。亀戸天満宮は九州福岡の太宰府天満宮と同じく菅原道真が祀られた学問の神様。江戸時代、明暦の大火による被害から復興を目指す江戸幕府は、復興事業として本所を街を整備し、四代将軍家綱は鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。寛文2年(1662年)には、社殿、楼門、回廊、池、太鼓橋など本家太宰府天満宮にならって造営された。
 
 その亀戸天神の背後一帯には花柳界が広がっていた。生まれたのは明治38年、昭和初期には芸妓置屋89軒、芸妓236人、料亭11軒、待合79軒だったという(「続赤線跡を歩く」より)。
 亀戸神社の北側の三業通りには、旧検番所をはじめ料亭や銭湯までもが残って並んでいる。やがてマンションなどに建て替わっていくのであろうが、戦後も続いていた花街は平成9年に検番所が閉じられるまで続いたというから、まだまだ現役の匂いが残っている。




三業通りの町並み
下町ながら一見閑静な住宅街を思わせる。それは近年まで花柳界として現役だったからで、大きな和風建築が建ち並んでいるからであろう。

現在も営業を続けている割烹料亭。

検番所だった建物。平成9年に閉じられたという。
平井

 亀戸駅から黄色い総武線に乗って千葉方面へ向かう。
 平井は江戸川区西部、荒川放水路と旧中川との間に挟まれた商工業地区である。中川沿いには第一製薬・ライオン油脂の工場があり、東京湾の平均海水面よりも低い場所がある。

 平井駅の南側には東京で最も東に位置する旧花街がある。昭和2年に設置され、芸妓置屋45軒、芸妓250名、待合30軒以上があったという。街は戦災に遭ったが、復興したあとも三業地として存続し、昭和50年代まで現役だった。現在でも大きな料亭が営業しており、街を歩くと色気のある和風建築が点在している。




花街としてのエリアは小さいが、今では場違い的に画像のような建物が残っている。
新小岩

 1926年(大正15年)に総武線平井〜小岩駅間に新小岩駅が開設され、駅周辺の市街地化が進んだ。駅南口を出るとルミエールアーケード街がまっすぐに伸びてたいそうにぎわっている。アーケードを抜けてすぐに右の路地に入るとネオン看板を掲げた店が現れる。もう少し進むとスナックや小料理屋が小さなエリアにごちゃごちゃっと集まっている一角がある。その場所からアーケードの西側を駅方向に戻るように歩けば、料亭風の建物が数軒見られる。
 
 そこはかつての新小岩カフェー街といって戦後亀戸の業者が移転してできたできたものだ。亀戸の業者は戦後、城東地区のいろんな町に進出しているが新小岩もその一つ。商店街の裏に沿うように形成されているのは遊里の典型的な配置形態である。



新小岩駅南口ルミエールアーケードを抜けた西側の一角に画像のスナック街がある。

アーケードに直交する商店街には出桁造りの町家があった。
墨東の色街ゴールデンエリア
亀有

 東京城東エリアの遊里巡りの中でも一際ディープなのが、隅田川東側の地域だ。その前に、常磐線に乗って亀有から歩こう。

 亀有は葛飾区、中川の西岸に位置し、大正初期以降は、水戸街道沿いの農村に製薬・製紙工場が立地し、発展の契機となった。また、戦後は東京近郊の住宅地として都市化が進んだ。
 亀有駅前のロータリーから眺めると四本の通りが放射状に広がっている。真中の二本のうち、左側が亀有銀座「ゆうろーど」、右側が中央商店街で物販店と飲食店が並ぶ。そして一番右の通りに面して、かつて楽天地と呼ばれた戦後の色街が存在していた。戦災に遭った玉ノ井の業者が郊外へ進出して開いたのだという。色街といっても一角だけだったようで、現在その場所を歩くとスナック店が数軒集まっているにすぎない。

 「ゆうろーど」を進み旧水戸街道に至る。旧水戸街道沿いは「亀有名画座」や昭和レトロの商店街があったようだが、道路の拡幅工事が行われて、沿道のビルの建て替えが完了していた。名画座も姿を消しており残念である。それでも名画座裏手には古い商店街が残っていた。

 


亀有駅の南側は駅前広場を中心に放射状に道路ができているため、街区が三角形になっている。画像のあたりが、かつて亀有楽天地があったあたり。

駅前商店街を抜けると旧水戸街道に出る。ここには以前「亀有名画座」という映画館もあったが、道路拡幅によって無くなっていた。しかし、名画座の裏手にある商店街は残っていた。
立石

 京成押上線は、東京の中でも最も下町くさいエリアを走っている。最近、曳舟の近くで第二東京タワーの建設が始まっており脚光を浴びつつあるが、街の匂いに合わないと思うのは私だけだろうか。

 京成押上線立石駅前の商店街の裏手に飲食店が所狭しと集まっている一角がある。戦時中、被災した亀戸の業者が移転して営業を始め、終戦直後はRAA(進駐軍慰安施設)に指定されたシマだったという。
 駅を出て右手一帯がカフェー街のあったところ。京成線に沿って歩き踏切を過ぎると左手に市場のように通路上に屋根がかかった街が現れる。スナック街「呑べえ横丁」は細い路地の迷路空間である。

 


名前とイメージぴったりの「呑べえ横丁」
向島

 墨田区向島は、隅田川・北十間川・曳舟川通り・鳩の街通りに囲まれた地域である。東は曳舟川通りを介して押上と、北は鳩の街通りを介して東向島と接している。地名の由来には諸説あるが、隅田川の西岸から見て「川向うの島」という意味で呼ばれていたというのがもっともらしい。向島の周りには、他にも「柳島」「牛島」「寺島」「京島」など「島」と呼ばれる地名が多い。
 
 隅田川と水戸街道の間、その名も「見番通り」が向島料亭街=花街の目抜き通りである。見番通りには、かつて見番(芸妓派遣事務所)が並び、店が軒を連ねていた。昭和4年時点で芸妓置屋120軒、芸妓240人、料亭23軒、待合130軒があったというが、現在では見番1軒、料亭17軒、芸妓120人。その数は減ってはいるが全国で残り少なくなった花街の中では多い方である。
 見番通りには大きな料亭が間隔をおいて並んでいて、かつての「軒を連ねる」景観は見られない。表通りだけではなく、路地を入っていっても中小の店が集まっている。いまや現役の花街の姿を見ることができる貴重な存在といえる。




見番通りの道標

表通り=見番通りに面する大きな料亭

表通りに面していないところにも料亭はある。バブル景気の時は相当潤ったらしい。
鳩の街

 向島花街から北東へ歩いて10分ほどの東向島1丁目に水戸街道から隅田川方向へ延びる一本の商店街がある。この商店街、特に駅に向かっているわけでもない。商店街の周りを歩いてみると、明らかに戦前のものと思われる木造住宅に不思議な意匠が施された建物が散見される。
 鳩の街は、戦時中被災した玉の井の業者が、焼け残った墨東の住宅地に目をつけて移転したのが始まりというカフェー街である。戦災を免れたているから細い路地や出桁造りの町家が見られる。整然としている色街の様相はない。ここで見られる不思議な建物というのは、2階は出桁造りあるいは下見板張りの見るからに戦前の住宅であるにもかかわらず、1階はモルタル吹付やモザイクタイル貼の戦後カフェー調の外装というもの。住宅地が改造されて生まれたカフェー街という珍しい町並みである。




戦前からの木造住宅が戦後カフェー建築に改造された。不思議な町並みである。
玉の井

 鳩の街から水戸街道を800m程下ると東武伊勢崎線と交差し東向島駅に至る。東向島駅は1987年まで玉ノ井駅という駅名であった。今でも「東向島」の下に「旧玉ノ井」と表示されている。地名は明暦年間(1655〜1658年)代官多賀藤十郎が住民からまきあげた金で囲った愛妾の名にちなむといわれている。近世は江戸近郊の行楽地で、近くに向島百花園がある。

 大正12年に発生した関東大震災で、浅草十二階下の銘酒街が被災し、移転先として亀戸天神裏と玉の井の空地が選ばれたのが始まり。大正13年で260軒、昭和20年で487軒となった。しかし、東京大空襲で全滅、1200人の娼妓が焼け出されたという。終戦後は、いろは通り北側のエリアがカフェー街として再開した。(「赤線跡を歩く」より)

 この街を歩く魅力は、何と言っても一時期のカフェー街に建築された特色ある建物をたくさん観察できる所にある。角地にあるある建物はその立地を意識して、高く構えたり曲面で構えたり、意匠もさまざまなものが見られる。関東大震災直後に造られたとき区画整理をしないまま農村の畦道の線形を変えずに都市化したため、複雑な街路となっているのも魅力を高めている一要因なのかもしれない。

 


いろは通り
震災の時に壊滅した浅草十二階下の銘酒屋街が亀戸天神と玉の井に移ったのが始まり。いろは通りの右側が銘酒屋街、左側一帯が指定地だった。


墨田3丁目を東西に横切る通りが戦後玉の井のメインストリート。そこに面して残る個性的なカフェー街建築。

 遊里探訪のバイブル本である「赤線跡を歩く」(木村聡)もついに完結編が発刊された。その中で木村氏は、玉の井を舞台にした永井荷風の小説「墨東綺譚」の中の描写と現地を重ね合わせながら歩いている。「赤線跡を歩く1」で東京の遊里を知って以来、私も遊里歩きにすっかりはまってしまったが、彼の赤線跡にかける情熱と愛情には遠く及ばない。そのことは、彼の後を追って街を歩くたびにひしひしと感じるのである。
 
 第4話 東京 城北編につづく