東京近郊 灯台下暗し紀行

 仕事が忙しいと一般にやせると思われるだろうが、実はストレス解消のためたくさん飲み食いして太ってしまう。昨年、歯の手術で入院し、病院食で2週間に7キロやせたのだが、ここんところ本業が超多忙で、体重がリバウンドの一途をたどっている。するととたんに体重増に負けて、左足の膝痛が再発しはじめた。休日は疲れていて動く気がしないし膝は痛いしで、長らく遠出のできない日々が続いている。
 それでも何かにかこつけては近場の町並みでもいいから歩きたい。2007年夏から冬にかけての<東奔西走>はいままで見過ごしていたところばかりを歩く旅<灯台下暗し紀行>である。

 
渋谷百軒店(東京都港区)
2007年8月

 8月の日曜日朝、娘の模試の送り迎えで渋谷に出かけた。キャッツストリート(旧渋谷川)の入口に会場があり、3時間半後またここへ迎えに来なければならない。一度自宅に戻ってもいいが、この時間を利用して渋谷を歩くことにした。
 渋谷はその名の通り、渋谷駅を中心に周辺の地形はすべて高くなっている。古川に流れる支流が細かい谷をいくつも刻み込んでいる。そんな複雑な地形の上に住宅地ができ、さらに商業地が侵食する形で都市化したのが渋谷の街で、その特異な地形が界隈性を生み、街の魅力となっている。
 渋谷の商業地といえば、駅周辺から公園通りにかけてのエリアがすぐに頭に浮かぶだろう。しかし、私にとってずっと謎だったのが、「東急本店がなぜあんなに辺鄙な場所にあるのだろうか」ということである。東急本店は1967年に東横店に変る本店として、小学校跡地を買収して建てられたという。必ずしも渋谷駅から近い場所ではないが、後背の住宅地松濤の存在や商業が集積していたためであろうか。 東急本店の前は道玄坂との間の丘になっていてラブホテルが密集している。ラブホテル街を抜けると「百軒店」。コクドの前身である箱根土地が、関東大震災の直後、中川伯爵邸を再開発し被災した下町の店舗を集めた百貨店の街を造ろうとした場所である。
 今では、店舗がちょぼちょぼだしオフィスやマンションもある、どういう性格の町なのかよくわからない場所になってしまっているが、「しぶや百軒店」と表示された看板ゲートと戦前の姿で戦最後再建されたという独特な建築「名曲喫茶ライオン」から往時の面影を偲ぶことができる。 
渋谷円山町(東京都渋谷区)
2007年8月

 百軒店と東急本店の間のラブホテル街は、さらに井の頭線神泉駅方面に向かって丘の上を埋め尽くしている。ラブホテル街をすべて歩いたわけではないが、規模は東京一かもしれない。このエリアは円山町といって、旧大山街道の宿場町にあたる道玄坂の裏手にあたっている。かつて円山町は、明治以降花街(三業地)として栄えた。昭和40年に料亭84軒、芸者170人が居たというからかなり大きな遊里であった。それらの敷地はラブホテルなどの建物に建て替わっているが、その間に花街時代の建物がわずかながらに残っていた。
 円山町に接する谷底の街神泉町もまた遊里(二業地)であった。 井の頭線神泉駅はトンネルの中にあり、駅横の踏切だけがトンネルの間で地上に顔を出している。すぐ近くを歩いていてもそこに電車が走っていることにまったく気付かない。
松濤(東京都渋谷区)
2007年9月

 旧花街=現ラブホテル街の円山町の丘を下り、神泉駅を通り過ぎてまた丘に上ると、そこは高級住宅街=松濤である。こうした2つのまったく性格を異にする丘の町が、谷をはさんで向かい合っているところが渋谷の魅力である。
 
江戸時代、このあたりには紀州徳川家の下屋敷があった。明治9年(1876年)にその土地を賜った佐賀鍋島家が狭山茶を栽培する「松濤園」という茶園を開いた。「松濤」の地名はその名に因んでいる。その後、東海道線の開通により東京に入ってきた静岡茶によって押され茶園は廃止となり、いったん果樹園になった後、住宅地として200坪単位で分割借地された。その結果、富裕層が住まうことになり、現在の町の基礎が造られた。町の中にあって湧水池をもつ鍋島松濤公園は、屋敷跡の緑を残している。
 町を歩くと邸宅が多い閑静な高級住宅街で、Bunkamuraや戸栗美術館、渋谷区立松濤美術館、観世能楽堂などの芸術関係の施設が多い。
一部には近代和風、洋風住宅も残っていた。渋谷方向に下る坂道からは、谷越しに渋谷のビル群が眺められる。
青梅(東京都青梅市)
2007年11月

秋は足早に通り過ぎていく。晩秋の11月末、「天界の村 関東山地編」の取材の際に東京で一番奥の都市、青梅を訪れた。今まで何十回も通過していながら歩いていない町である。
 青梅街道の宿場町から発展した青梅市は、古くから綿織物業地で青梅じま、青梅綿で知られた夜具地の産地であった。旧青梅街道沿いが旧市街であるが、青梅駅から西の上町〜森下町界隈に古い土蔵造りや塗籠造りの町家が残っている。カメラに目覚めた娘を引き連れて町並みを往復する。いままで夜に通過するケースが多かったためか、案外古い建物が残っているのには驚いた。関東ならではの出桁造りと蔵造りの町家が点在している。しかし、休日の夕方ともあって、青梅街道の交通量が多く車の途切れる間に撮影するのに苦労した。 反対側の歩道を中学生が列をなして歩いてくる。そうか、わが娘も来年から中学生か・・・。吾輩も齢をとったなぁ。
木更津(千葉県木更津市)
2008年1月

 2007年暮れから2008年正月にかけての休みは夢の9連休。どこへも行かずに寝正月を過ごしていたが、終盤になって我慢できなくなった。さてどこへ行こうか。昨年日が暮れて通り過ぎてしまった千葉の木更津に行ってみようか。
 早朝7時、品川駅東口。再開発が進んで景色が一変した街からバスに乗る。アクアラインで東京湾を横断することわずか50分で木更津に着いてしまった。すご〜い!
 木更津は、房総半島西海岸、小櫃川の三角州に立地する港町から発達した商業都市。市街は中世より発達していたが、近世は江戸との間に木更津船が通い、港を控えた海陸交通の要衝として栄えた。木更津駅の西側一帯が旧市街で、港から内陸に向かう通りを軸にいくつもの商店街がある。
 駅前大通りの一本南側の「みまち通り」を港に向かって歩いて行くと、最初は物販系の店が多いが、八剱八幡神社を過ぎると飲食店街に変わる。港へ向かう通りの両側にはややさびれながらもバーやスナックのネオン看板が目についてくる。その町中に「木更津会館」という検番所の建物があるからこのあたりは花街である。木更津に船の往来を通じて江戸から流入した芸者文化は、大正期には「木更津甚句」を全国に知らしめ、戦後の高度経済成長期、芸者は200人を超えたという。
 駅前大通りから北側の町に目を転じるとかつての海岸線に並行した旧街道には魚屋さんの古い民家が軒を連ねている。その通りのある交差点に洋風の店舗が建っていて目立っているが、この交差点から東へ延びる通りも旧街道のようで、戦前・戦後の昭和レトロな店舗や映画館が町並みを形成している。このあたりが木更津の商業の中心だったのであろう。「全国遊郭案内」(昭和4年)によれば木更津新地廓は木更津駅の西北8丁と記載されているので、先に紹介した富士見町ではなく、このあたりにあったものと思われる。

蘇我(千葉県千葉市)
2008年1月
 
 蘇我はいわゆる企業城下町の典型。戦後開発されたJFEスチール(旧川崎製鉄)千葉工場の街である。
 川崎製鉄は戦後,昭和25年8月に川崎重工叶サ鉄部門が独立して設立された。大規模な新製鉄所建設用地として千葉県千葉市が選ばれ、工場建設とともに労働者が暮らす街の建設も開始された。そもそも、蘇我のあたりは東京湾に面して浅瀬が広がる潮干狩りの場所だった。埋め立て前の海岸線は現在の国道16号線で、海岸線に沿って街村が形成されていた。旧国鉄外房線はその集落の東側を走っていて、さらにその東側は集落のない田園地帯だったと思われる。新市街は駅東の何もない場所に建設された。つまり、旧集落をはさんで工場と新市街が造られた。
 駅と工場との間には、よくある工場正門前に見られる門前町(商店街など)が形成されていない。工場が大きすぎてバスなどで移動しており、間の町は単に通過されていたためなのだろうか。
 一方、駅東は都市計画された整然とした町で、企業城下町らしくJFE(旧川鉄)の社宅、運動施設、病院、厚生施設が町の中に点在している。中でも、倶楽部施設、研修所、独身寮が町の背後の丘の上にあって、町・工場・東京湾が一望できる。商店街や娯楽施設についてはこれらの計画された施設の間の要所に自然に形成されたものと考えられる。
 2000年ころまでは旧川鉄の施設がもっと町中にあったが、工場縮小とともに現在は別の用途に転換されている。工場跡地には大規模ショッピングセンターやスタジアムなどが建設されており、さらに再開発が進められている。
常盤平(千葉県松戸市)
2008年1月
 
 さてさて、この日の最後は初めての経験団地探訪である。高度成長期時代に建設が進められた団地も、古いものでは築50年近く経っている。これはもう充分に集落町並みとして観察する対象である。常盤平団地は日本住宅公団が手がけた大規模団地の中では特に古いもので、昭和35年4月に入居が開始された。戸数は4835戸もあり、賃貸型である。
 新京成電鉄常盤平駅を降りると南へまっすぐ象徴的なけやき並木が続いている。駅前ロータリーから駅を振り返って見ると、駅そのものも高層集合住宅になっていることに驚かされた。けやき通りは、さくら通りとの交差点を過ぎると東側にショッピングセンター、西側に標準的なフラット型の白い住棟をドミノ倒しのように規則正しく並べている。住棟の敷地は現代のマンションの感覚からすると無防備と思われるほどパブリックで、自由に通り抜けることが可能である。フラットの住棟の間を抜けると、ポイントハウスと呼ばれる星型の住棟が現れた。このスターハウスが円弧を描くように配置されているが、庭の広がりと豊かな緑と調和した環境はとても素晴らしい。
 50年前には新しい住まい方として憧れの的であったが、一方で人工的であるが故に「人の住むところではない」などと嫌った人もいたであろう。しかし、今ではこれほどまでに豊かな住環境をもった都市住宅は珍しいと思われる。常盤平団地は建て替えがなされていないため、初期ながら当初の状態が守られている貴重な大規模団地の一つと言えるのではないだろうか。
越谷(埼玉県越谷市)
2008年1月
 
 わが娘が中学入試の練習で埼玉県の学校を受けることになった。東京の学校は2月頭が試験日だが、埼玉千葉の学校は1月から始まるため、東京の受験生は練習で受ける場合が多い。そんなわけで、娘を学校まで送り届けた。試験が終わるまでの4時間、おとなしく控室で待機していることなど私が我慢できるわけがなく、当然集落町並み探訪となる。
 本日は越谷の町並みから始める。日光街道の宿場町として賑わった町だ。この町には私の叔父が住んでいて、子供のころよく遊びに訪れた。しかし、それから30年以上来ていなかった。記憶のかなたに残っている町並みと現実の町並みは全くと言っていいほど一致しない。始めて歩くのと同じである。
 奥州街道、日光街道の江戸から3番目の宿場町である越谷宿は、ここからいくつかの脇街道が分かれている陸上交通の要衝であった。また、町の中央やや北で町を分断する元荒川には瓦曾根河岸があり、100万積の高瀬舟が常備されていたという。このような立地から、越谷は周辺農村部の物資が集まる市場町としても栄えた。現在は東武伊勢崎線で東京の至近にある住宅地として、また化学、皮革、鉄鋼、機械、電気器具の工場が立地する都市として発達している。
越谷の町を歩くと黒漆喰の蔵造りや塗籠造り、漆喰は塗られていない出桁造りの町家が何軒も見られる。その印象は、「旧江戸五街道のうち日光街道に古い町並みが一番残っているのでは?」と思われるほどである。特に元荒川を渡る大沢橋のあたりが見どころである。また、分岐した脇街道に沿っても町並みが伸びていた。
杉戸(埼玉県杉戸町)
2008年1月
 
 杉戸も初めて歩く町。「町並みWeb集団 いらかぐみ」の西日本拠点のメンバーでさえ歩いている杉戸。なかなか良かったぞという情報もあり、なんとしてでも今回訪れたかった場所の一つである。灯台下暗しもいささか甚だしい。杉戸は、中世以来、利根川の渡しのあった場所で、近世以降も河港町として物資が集散し賑わっていた。江戸五街道のひとつ日光街道(奥州街道)が杉戸を通ることになると、千住、草加、越谷、粕壁に続く五番目の宿場となった。
 子供のころ、北越谷の叔父の家へ日比谷線直通の鈍行で行くと、複々線を東武伊勢崎線の準急「杉戸行き」が追い抜いて行った。「杉戸ってどこだろう?」って思ってた。東武伊勢崎線杉戸駅はいつの日か東武動物公園駅に名を変えていた。駅は市街地とは古利根川で隔てられていて距離がある。歴史ある町にはよくあることで、旧市街から離れた新地に駅ができ、繁華街もそこに造られた。旧日光街道に沿った町は南東の清地から始まる。清地には造酒屋の関口酒造がある。ここからしばらくは道幅が広いが、これは道に沿って農業用水が流れていたものを地中化して歩道にしたためである。東武動物公園駅からの道と交差する「本陣跡地前交差点」あたりは商業が集積する町の中心地、さらに北西へ進むと町の賑わいとしてはだんだんさびしくなってくる。反面、古い民家が現れてくるわけで、杉戸一丁目で旧街道が大きく曲がるあたりは景観的にも素晴らしい。そして最後に巨大なお屋敷が締めくくってくれる。
粕壁(埼玉県春日部市)
2008年1月
 
 春日部と言えば東武伊勢崎線沿線では特急以外のすべての列車が停車するこの地域の商業中心。1969年に建設された大規模団地である武里団地も近くにあり、東京の北のベッドタウンとして戦後発展した町である。春日部の町はデパート建設、マンション建設、道路の拡幅や電線の地中化が盛んに進められている。しかし、駅に近いその目抜き通りがかつての日光街道春日部宿であった。かつては街道沿いには商家が軒を連ね、短冊状の奥行きの深い敷地には蔵が並び古利根川の土手まで達していた。旧日光街道の道路拡幅は歴史を重んじなが行われたようで、川側の商家を残し、道は反対側へ広げられている。
 旧日光街道は西の端の交差点で北に向かって折れ、古利根川を渡って幸手へ向かっている。一方、この交差点で岩槻へ通じる脇街道を分けている。この交差点に赤い立派な民家が残っていたのだが、2006年についに取り壊されてしまった。粕壁の古い街並みはここから岩槻に向かう街道沿いに最も面影を残している。出桁造りの民家、2階建ての石蔵、洋風の町家である。
 近くにありながら今まで見過ごしてきた東京近郊の町並みを歩いた。さすがにたんまりとした町並みは無かったが、「この時代に東京近郊でもまだこんなに古い町並みが残っているんだ」と新鮮に驚いた。また、企業城下町や団地探訪など新たな「食材」にも出会えた。「集落町並み探訪は本当に面白いなぁ」と改めて感じながら、次はわが里<東京再発見の探訪>を開始する予定である。