国道41号線はガラガラで予定よりも早く高山に着いた。駅前のホテルに荷物を置いて、しばれる寒さの中、夜の街に繰り出した。駅周辺は飲食店があまりない。北の方に旧遊郭の花岡町があると聞いていたので飲屋街もその近辺だろう。ぶらりアーケード街を越すとネオンがポツリポツリと現れはじめた。これに引かれていくと出ましたスナックのネオンまたネオン。ここは末広町といって高山きっての飲み屋街である。一番街を入りさらに路地へ曲がったところにある居酒屋で閉店まで飲んだ。
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高山(岐阜県高山市) |
高山の三町はわが国の町並み観光地の中でも三本指に入るだろう。「観光客が旅館のチェックアウトを済ませて町に繰り出す前に歩くべし」という有名な町並みを歩く時の鉄則に従い、ホテルを7時前に出た。高山駅前の町は昭和9年の高山駅開業とともに開かれた町なので、昭和レトロの店が多く見られる。
本町通りを南下し、陣屋前で宮川を渡って三町重伝建地区を南端から攻める。上三之町の町並みはやっぱり素晴らしい。これが人が多いとそう思えない。上三之町→下三之町→下二之町→上二之町という具合にジグザグに歩く。
ここで高山の町家の奇妙な特徴に気がついた。1階2階は軒がそろっているが、実は3階がセットバックしながらも屋根の上に飛び出て増築されている家が結構多い。しかもトップライトがズクズクと立ち上がっているではないか。
大新町では日下部家に入ったが、ここの小屋組は本当に美しいと思う。飛騨匠のセンスと技術はすごいものだと、しばしうっとりしてしまった。
大新町から北へのびる越中街道沿いは新しい高山の町並みスポットとして整備が進められている。一軒の公開された保存民家に入ると高山の町並み写真が展示されていた。その中に興味をそそる銭湯建築が二軒あった。ボランティアのおばちゃんにどこにあるのか聞いてみたら、「この写真は昔のものですので、一軒の銭湯はなくなり、もう一軒は全く姿を変えてしまっていますよ」と親切に教えてくれた。この銭湯が残っていたらすごかったのにと残念に思った。
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高山駅前の昭和の町並み |
三町の町家は実は三階やトップライトがにぎやかに付いていた |
越中街道沿いの町家 |
高山花岡町(岐阜県高山市) |
八幡神社の参道をまっすぐに西へ進み宮前橋(宮川)を渡る。昨日飲んで歩いた高山一の飲み屋街「末広町」を探索。途中、煙突を上げている建物を見つけたので、「もしや?」と正面側に回ってみた。すると、なんということでしょう!さっきおばちゃんが「もうなくなっていますよ」といわれた銭湯ではあるまいか。それも写真どおり。何だあるじゃんか!ということで、もう一軒も必ずやあるものと確信する。
末広町から西へ、国分寺を越すと旧遊郭だった花岡町だ。私は町並みを探索する際、裏から入っていく習性がある。ここでもまっすぐ表通りから歩けばよいものを、裏路地を見つけてそっちから入っていった。かなり取り壊されたもののかつての面影は感じられる町だった。
さて、おばちゃんが嘘をこいたもう一軒の銭湯を探す。一軒が本町の北エリアだったので、もう一軒は南エリアと推測を立て車を運転しながら煙突を探す。そうしたら有楽町といういかにもかつての遊里のような名の町に残っていた。しかも何一つ手が加えられてない素のままの状態で。もう!おばや〜ん!!
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末広町に残ったいた古い銭湯「桃の湯」 |
花岡遊郭の裏路地の町並み |
古川(岐阜県飛騨市) |
古川は10年ほど前に訪れたことがあるが、その時は猛烈な雷雨に見舞われて泣く泣くパスした。今日は冬なのでそんなことはないだろうが、北の空が鉛色、いやな予感がする。
高山の三町を模したといわれる、大火後の大正期の町並みは飛騨匠の技による見ごたえのある町並みだった。高山の三町同様にジグザグに歩く。町の半ばに差し掛かったところで雪が舞いだし、最後のところでは本降りになってきた。これはまずいぞ、雪が積もり始めたらレンタカーで帰れなくなってしまう。東海北陸自動車道で帰れば早いのだが、雪によりチェーン規制。やむなく昨夜走ってきた国道41号で名古屋へ戻る。途中、下呂温泉でひと風呂浴びることにした。ここで同僚が「どうやら風邪ひいたようです」という。うつさないでくれよ。 |
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飛騨古川の土蔵の町並み |
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紀伊半島一周!
できず?の巻 |
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クリスマスは私には何事もなく通り過ぎていった。いろんなことが落ち着いてきたので、年末は娘と久しぶりに長旅に出ることにした。それは紀伊半島を時計回りに4泊5日で回ろうという計画である。
休暇を取った平日の早朝に出発。天気は快晴で東名高速富士川SAからは富士山がばっちり眺められた。三ケ日あたりで先が渋滞しているというので、高速を降りて渥美半島の伊良湖岬から伊勢湾フェリーで鳥羽港へ渡ることにした。数年前の年末に家族旅行で旅した時と同じルートである。今日は、伊勢神宮の門前町に行った後、かつて旅人達でにぎわった旧遊郭古市の麻吉旅館に泊まる予定である。麻吉旅館はいつか泊まってみたいと思っていた宿である。
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東名高速富士川SAから、富士川越しに眺める富士山 |
大湊(三重県伊勢市) |
鳥羽港に上陸し伊勢市へ。かつて伊勢参宮の海路の港だった伊勢大湊の町を歩く。伊勢地方独特の下見板張りと雨除け幕板のついた民家の町並みである。
しばらく歩いていると雪がパラついてきた。東海地方では快晴だったのに、日本海の雪雲が低い鈴鹿山脈を越えてくるからなのか。風も強く陽も陰り寒い!
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神社(三重県伊勢市) |
伊勢市神社町も大湊と同様、伊勢参宮の上陸港である。この町には現在でも古い旅館があり、かつては歓楽街として賑わったという。その証が「新玉湯」という銭湯に見られた。洒落たアイアンワークのゲートに前庭、木造ながら正面外壁をモルタルで構え足もとにモザイクタイルを貼っている。旧遊里に見られるユニークな銭湯だった。
娘はコンパクトデジカメを持って何やら面白いものを探しては撮影している。横断歩道に子供の絵が描かれた「とび出し注意」の看板や美容院の回転サイン。建築や町並みには一切興味を示してくれない。
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伊勢門前町(三重県伊勢市) |
しかし今日は寒い。寝不足と寒さで今日はさっさと宿に入りたい。でも伊勢まで来て伊勢神宮へ参らないわけにはいかないだろう。伊勢宇治の門前町の観光駐車場に車を停めて歩く。もう夕方なので伊勢神宮方向へ行く人は少ない。おかげ横丁も閑散としていた。
それでも赤福本店だけは多くの観光客で繁盛している。ちょっと前に問題となって生産を縮小したことがあったが、手に入らなくなるとプレミアがつき、逆に宣伝になったようだ。赤福本店では赤福餅を一個頼んでもお茶が出てあったかストーブを囲んでゆっくりすることができる。しばらく暖をとって外に出たが、寒さには勝てず結局、内宮にはお参りしなかった。
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古市(三重県伊勢市) |
古市は伊勢外宮から内宮へ向かう旧街道沿いにある丘の上の町で、かつてはおかげ参りの後の精神落しでにぎわった大きな遊里だった。しかし、今ではたった一軒残っている麻吉旅館以外には全く面影が感じられない。
麻吉旅館は見るのは3度目であるが、今回初めて宿泊する。高台の斜面の高低差を生かして段々に建てられた建物(登録有形文化財)の中を拝見できるのは楽しみである。通された部屋は一番上の建物の一階で、早速離れの小さな風呂に浸かって疲れを癒した。かつては大浴場があったのであろうが、少ない客のために大きなお風呂を沸かしていたのでは採算が合わないのだろう。古い建物は隙間だらけで室内とはいえ外部にいるかのように寒い。
翌朝、チェックアウト前に館内を見学させてもらった。斜面に建った多層構造は面白く、客室棟の一番下段の暗い廊下から別のお客さんがヌッと現れびっくりした。さらにその下は倉庫で、華やかだったころの写真や食器などが陳列されていた。
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紀伊長島(三重県紀北町) |
さて、これから熊野灘に面するリアス式海岸の漁村をめぐる。あらかじめ地形図にて今回のテーマである密集系漁村の所在にバッチリあたりをつけてきている。
紀伊長島は密集系漁村ではないけれど、このあたりでは比較的まとまった港町なので立ち寄った。あちらこちらにマンボウの絵が見られるのは、熊野灘で獲れるマンボウが町のシンボルになっているからだ。そういう意味では私=万訪と無縁ではない。
町並みは大したことなかったが、面白いものを発見。缶ジュースならぬ、缶おでん、缶ラーメン、缶カレースパの自動販売機。お腹も空いていたので、試しに缶カレースパを買ってみた。キャップには折り畳み式のフォークがついていた。ところがどうして・・・まずい。1/3食べたが残した。缶おでんの方が良かったかな?
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島勝浦(三重県紀北町) |
島勝浦はリアス式海岸の複雑な形をした半島にある集落で、10年ほど前の取材が不十分だったので再訪した。
あの時は紀伊半島東海岸の漁村を歩いた後、本宮から秘境十津川郷に入り天界の村々を巡った一人旅だった。そのあと、妻と紀伊半島の海岸線を一周したこともあった。紀伊半島は山がちで海沿いの道路は基本的に国道しかなく、高速道路もなかったので非常に時間を要した。今では高速道路が延進しているというものの東海岸の紀北町から西海岸の田辺市までは一般道しかない。
そんな道路整備が進んでいない地域だからであろうか、交差点という交差点に「とび出し注意」の絵看板を多く見かける。娘はこの看板の異なるバージョンをすべて撮りたいと燃えている。見つけては車を停めて撮影しながら進んだ。
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須賀利(三重県尾鷲市) |
紀北町の島勝浦からさらに奥へ尾根を越えると尾鷲市須賀利である。須賀利は「にほんの里100選」(朝日新聞主催)に選ばれた漁村集落で、四半世紀前まで陸路はなく尾鷲からの巡航船でしかアクセスできない陸の孤島だった。
集落は、岩手県の三陸海岸ほどではないが高い防波堤で守られている。リアス式海岸の漁村ならではの特徴である。平地の集落は海岸沿いの一本の通りにくっついていてずーっと奥まで続いている。平地を埋め尽くした家々は、次は背後の斜面に駆け上がらざるを得なかったのであろう。斜面を上がると集落の甍並みを一望できた。
坂を上り下りして息が乱れる。しばらく集落を歩いていなかったから身体が衰えてしまったのか。あるいは昨晩の麻吉旅館が寒く風邪をひいたのか。どうも調子が悪い。
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尾鷲(三重県尾鷲市) |
須賀利から尾鷲まで巡航船で行けば近いのであろうが、車なので半島の今来た道を戻って尾鷲市内に入る。小腹が空いたので尾鷲のガソリンスタンドに「この街にマックはありますか?」と尋ねたところ「は〜?」と通じない。そうか、三重県は関西圏だ。マクドナルドは「マック」ではなく「マクド」だった。マクドナルドは北は松坂市内、南は和歌山県の新宮市内まで無いという。当然、ファミレスも吉野屋もない。交通至便性が悪いため、都市近郊にある工場からの流通が割に合わないのであろう。やむなくコンビニ弁当を食べた。
尾鷲は自然の良港。何やらいい町並みがありそうだが情報はない。車で町中を探っていたらある通りに古い町家が数軒あった。林産資源が豊富だった土地だけに木質系のきれいな民家だった。
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古江(三重県尾鷲市) |
さてさて、念願の古江集落再訪である。この集落は10年ほど前に通りすがりに見つけた集落で、私が密集系漁村「海界の村」に興味を持つようになるきっかけになった集落である。はじめて出会った時は港から見上げて「何じゃこれは」と思うほど家々がくっついて見え、車を置いて歩かずにはいられなかった。
古江集落は規則正しい配列になっている。縦道は下から天辺まで何本も上がっていて、ところどころ横につなぐ道もある。しかし、ほとんどの横道は各家の前庭を伝っていけるというもの。集落のほぼ全域が南向きの斜面上に立地しているため、下の家の2階が上の家の1階の高さにあたる。したがって上下の家は隣棟間隔を最小にして建てることができる。
天辺の神社まで上って全体を見下ろした後、尾根状に突き出した墓地へ行って集落を横から眺めた。やっぱりここは密集度でいえば全国一☆☆☆☆☆といっていいだろう。
古江の「とび出し注意」だが、この町ではすべてが手作りのようだ。ひとつひとつ違っていて素朴でいい。娘が必死に撮影をしていた。
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九鬼(三重県尾鷲市) |
古江から北へ海岸線を戻ると九鬼(くき)という集落がある。中世は熊野海軍(九鬼水軍)が拠点にしていた場所。ここも平地から斜面へ拡大した漁村集落。特徴は共用通路である道にふんだんに無垢石(むくいし)が用いられていることである。石垣も切り石でしっかり積み上げられている。富を得た歴史があったのか、家も比較的大きなものが多いようだ
これから和歌山県に入り本宮町まで移動する。昼間高低差のある漁村集落をたくさん歩いたからであろうか、かなりくたびれた。熱っぽくもある。麻吉旅館で風邪ひいたかな?
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湯峯(和歌山県本宮町) |
本宮町に着いた時には日がとっぷり暮れていた。今晩の寝床は、本宮町の伏拝(ふせおがみ)という集落にある農家民宿である。一日一組しかとらないという小さな民宿で囲炉裏端での食事だった。山菜、鹿鍋、ヤマメはとても美味しかった。
翌朝は湯峯温泉からスタート。湯峯温泉は熊野詣の旅人で賑わった温泉地。町並み本でも紹介されているので期待していたがさほどでもない。川底に湯が引かれていて共同炊事場があるのが面白い程度。もちろん熊野大社は今すぐ行かなくてもなくならないので立ち寄らない。
新宮川に沿って下り、再び紀伊半島の東海岸にもどる。
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太地(和歌山県太地町) |
太地という名前は知っている人も多かろう。熊野灘に面する鷲巣崎と燈明崎の河岸段丘に囲まれた太地湾奥の町で、日本捕鯨発祥の地である。日本人は何千年も前から鯨類を獲ってきたが、組織的な産業として始めたのは太地の和田頼元であったといわれる。延宝3年(1675年)に和田頼治が網捕り法を考案したことによって太地の捕鯨は飛躍的に発展した。現在は国際的に商業捕鯨が禁止されており、捕鯨の町は急速に衰退してしまったが、クジラをテーマにした町おこしを図っている。
石垣の防波堤に守られた町は、平地に家屋が密集する形態で、古そうな民家も多く残っている。それらの建物は海に近いことから、対抗性の強いペンキで塗られた木造民家が多いのが特徴で、2階に欄干がついているものが多い。建て混んでいるものの家屋のグレードが高く、洋風の建物も見られるので、かつての隆盛ぶりを測り知ることができる。
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樫野(和歌山県串本町) |
串本町は紀伊半島の最南端の町。串本海中公園の海中展望台は実際の海の中に造られたもの。展望台の周りには水槽で見るような色とりどりの魚がたくさん集まってきている。餌付けしているのだろう。
潮岬も無くなるものじゃないので通り過ぎ、大橋で紀伊大島へ渡る。一番奥の樫野集落を目的に樫野港へ行くが、港しかなく集落がない。港だけあって集落がないパターンは珍しいが無いわけではなく、自然災害を嫌って集落だけが丘の上に形成されていることが多い。港を後に丘の上に戻り探ると高い石垣壁で覆われた集落が現れた。潮岬といえば台風の時は大きな風速を記録する場所。樫野集落は防風対策を施した丘の上の漁村集落だった。
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大島(和歌山県串本町) |
大島と本土との間には、あたかも橋を架けようとしたように見える「橋杭」と呼ばれる列をなした岩がある。観光地には立ち寄らない私でも、ここだけは必ず立ち寄るほど素晴らしい景勝地だ。
その対岸にあたる大島集落は、樫野とは違い港と集落がくっついた通常の形である。娘は集落など歩きたくないというので、一人で歩いた。
串本市内にも古い町並みはなくはないが、大したことなしと判断しカット。白浜までの道のりでも探せばあるだろうが、早く宿に行って休みたいとの気持ちでカット。早々と白浜に到着してしまう。
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白浜(和歌山県白浜町) |
白浜には二泊する予定である。ペンションはイタリア風でご主人夫婦が自ら手作りで仕上げたそうな。夕食が付いていないので、町の中華食堂に行く。ラーメンを食べて暑いはずなのに寒気がする。ヤバい!
白浜では集落は歩かず、一日娘のfree day。ゴルフのショートコースを二周した。ところが二周めの終わり3ホールを残したところでもうダメ、とても歩けなくなってしまった。まだまだ遊べる時間だがペンションに戻る。帰りがけに白浜温泉の歓楽街を車で流したら妓楼建築を発見!。いったん車を宿においてひと眠りし、温泉の外湯に入りに行くついでに白浜の遊郭跡を探索。ここですでに最後に残された力を振り絞っている状態である。
身体の節々が痛く熱を測るとなんと38度ではないか。明日は紀伊半島西海岸の密集系漁村と湯浅の再訪を予定しているが、もうこれ以上歩けそうにない。
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12/30朝、熱は38度を超えていた。このままペンションで休んでいてはここで寝込んで年越しになると思い、頑張って東京に帰ることにした。南部IC(和歌山県)〜調布IC(東京都)間を6時間で走ったのだから如何に集中して走ったかおわかりであろう。熱で意識がもうろうとしており、わざと緊張した運転をしなければならなかった。
東京調布の実家に転がり込んだ私は、それから10日間寝込むことになった。
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2009年年明けは最悪のスタートになった。熱は下がり出社はしたもののなかなか調子が上がらない。そうなると気持ちが滅入ってくる。妻を亡くしたことによるダメージが蓄積されていて、いよいよ現れてきたのであろうか。やることなすこと自信が持てないし、モチベーションが上がらない。
そして、集落町並みの旅など行きたいとも思わなくなってしまった。
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わが娘「マスオミッキー」がブログを立ち上げました。
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