琉球美ら集落紀行

琉球美ら集落紀行 Movie

1994年5月、47都道府県の中で最後に足を踏み入れたのが沖縄県だった。あれから12年間、全国の集落町並みを一通り歩いてきたが、その最後になるのがふたたび沖縄県である。やっぱり、こういうトリを勤める場所としては東京から遠い地がいい。しかし、何か一途に取り組んだ時の結びというのは、達成感が味わえるのと同時にむなしさや寂しさというのもやってくるものだ。「最果て」という言葉の似合う北海道は何かの始まりにもってくるのはいいが、おしまいの地としては選びたくない。冬なのに暖かい沖縄だったら達成感だけを味わって終われる気がする。今回の旅は、今までの思い出をかみ締めながら、時間に追われることなくのんびりと歩く旅にしたい。
今週末はクリスマスに当たっている。本来、クリスマスイブというのは家族で過ごすべきであるが、バテレンの祭りに何も日本人が一緒になって祝う必要はない。金曜日に休暇をとり、さらに木曜日の最終便で那覇空港に着いた。沖縄のタクシーは安いので気にせず空港から市内のホテルまで利用する。冬だというのに暖房無しで窓を開けても寒くはない。沖縄に来たのだという実感が湧いてくる。日が変わる前にホテルの部屋に入ることができた。「全国各県50%プロジェクト」最後の旅、明日からどんな「美ら集落」が私を待ち受けているのだろうか。
壺屋(沖縄県那覇市)
今回の旅のスケジュールはゆったりしている。ホテルで朝食をとってから出発できる。近くに崇元門があったので立ち寄ってみた。12年前の記憶が蘇ってくる。「そうだそうだ、来た来た。」

壺屋の手前でタクシーを降りて、アプローチを楽しみながら町に近づくことにしよう。道は複雑に曲がり所々に赤瓦をのせた古民家が残っている。那覇は都市と言えどもその成り立ちは集落の集合体であると言われるが、ちょっと歩くだけでフムフムとうなづく事ができる。
少々迷って壺屋通りに着いた。通りから一本入ったところに由緒正しき古民家が現れた。石垣が高く積み上げられ窯場と思われる付属屋が通りに面して建っている。「いらかぐみ」Kさんが描いた場所だ。壺屋は歴史ある焼き物の町。しかし、近年住宅が増えて登り窯の使用が出来なくなった。現在はガス釜で焼かれているが、かつて使われていた登り窯が残されていた。古民家の見られるいい場所は無いものかと、裏手の路地を探索する。路地は複雑で表通りに戻るのに苦労した。
牧志(沖縄県那覇市)
壺屋通りを東へ抜けるとアーケード街が始まる。このあたりは牧志公設市場を中心に一帯が大アーケード街になっている。壺屋で迷ったような複雑な表通りや路地に屋根が張り巡らされている商店街である。牧志公設市場を目指して歩いたつもりが全く関係ない所に出てしまったため出発地点まで引き返す。方向感覚に相当長けていると自負する私でも詳しい地図がないと惑わされる。1/25000の地形図では全く役に立たない。
アーケード街の路地を探るように歩いていたらやっと牧志公設市場にたどり着くことができた。ここは戦後の闇市がそのまま都市化した商店街。そういう場所は本州にも多いが、薄暗く寂れているところが目立つように思う。しかし、牧志のアーケード街は、活気溢れるとても賑やかな商店街だ。建物は戦後のもので、高さをそろえた2階建ての長屋がアーケード屋根を支える。屋根は細いトラスアーチで光を通す膜が張られている。その架構部材が細く繊細なため、覆われているという圧迫感が無い。
商店街は食料品・衣料品など品種ごとにゾーニングされている。下着ばっかり売っている通りもあって通過するだけでも恥ずかしい。衣料品街の表通りから路地に入ってみると不思議な建物の中に導かれた。、広い土間の中に島状に上げ床が張られ、一つ一つに売子のおばさんが座っている。この空間はおそらく戦後そのままに時間が止まっているのではなかろうか。
金城(沖縄県那覇市)
牧志のアーケード街の表玄関である国際通りむつみ橋からタクシーで首里金城町の坂下へ向かう。道のりは3kmほどあるが、以前わざわざここを歩いたことがある。女房と二人で訪れた12年前の沖縄旅行で、私は苦い経験をした。旅半ば、本島南部東海岸にある人っ気のない百名ビーチというところでレンタカーを停め、手ぶらで海岸を散歩した。気分良く車に戻ったらなんと車上あらしにやられていて、お金、カード、帰りの航空券までの一切合財を盗まれていた。車の中に財布を置いていく方も悪いのだが、われわれは一文無しになってしまったのである。ところが親切な方はいるもので最低限のお金を借り旅は続行できたものの、そこからは超貧乏旅行を強いられた。ホテルの朝食でお腹を膨らませ、昼飯は抜き、晩飯はコンビニのおにぎりで過ごした。だから那覇中心部から金城町へはバスにも乗らず、テクテク歩かなければならなかったのである。
12年前と同じく坂下から石畳を上っていく。貧乏旅行ではフィルムも買えなかったので、節約して金城町の写真は数枚しか撮っていなかった。今回はデジカメだし金も持っているので遠慮なくバシバシ撮影できる。
坂道を登りきると丘の上の首里城である。城の中には入らず、城を中心に金城町とは反対側の当蔵町を歩く。ここには残念ながら歴史を感じる町並みはあまり残ってなかった。タクシーに乗って再度金城町の坂下交差点に戻り、首里城の山を遠望できる丘に上ってもらった。首里金城町の全景写真をカメラにおさめた。12年前の貧乏旅行でやれなかった宿題を今やっと果たすことができた。
(沖縄県国頭村)
牧志の大衆食堂で沖縄そばとゴウヤチャンプルーで腹ごしらえ。ここからレンタカーで沖縄本島の最北端まで移動する。途中、名護市内を車で探索したが集落町並みとして取り上げるべきものは無かった。

沖縄本島の西海岸を北上し、最北端の辺戸岬を回って直ぐの東海岸にある国頭村奥集落を歩く。ここは地名のごとく、ヤンバル地方の最奥の集落である。まず、神社へ上る階段から集落の全景を見渡す。寄棟屋根の平屋建てが並んでいて、漆喰で固めた赤瓦屋根、グレーのセメント瓦屋根、セメント瓦の上から真っ白に塗られた屋根など、色や材料は違えど各家の屋根形状や大きさ、向きは同じで全体としての統一感がある。ぐるっと集落内を歩く。一軒一軒は互いに離れていて、それぞれの屋敷構えや付属屋の配置も似通っている。こういう造りは沖縄典型の集落形態だが、通りに沿って軒を並べる町並みや密集した漁村集落のような景観を好む人にとってはやや退屈かもしれない。集落の外れには沖縄ならではの大きな墓が並ぶ墓地があった。
安波(沖縄県国頭村)
国頭村の東海岸を南下する。東海岸はヤンバル地域でもとくに人家が少ないが、安波川の河口に安波(あは)という集落がある。ここは沖縄県内でも残り少ない茅葺民家が集まって残っているといわれていた集落である。12年前に歩いたときにはすでに茅葺屋根はなくなっていた。今回は写真を撮り直す意味で再訪した。車を降りて斜面に建つ民家を眺めたとき、12年間の時が経っているのを感じられないほど、ついこの間この場所に来たような気がした。
階段や路地を歩くと石垣や塀のいたるところに「石敢當」という表札がある。この集落は皆「石敢當」さんなのか?。これは石敢當さんちの表札ではなく、一種の魔除けである。
今晩は「やんばるホテル&ファーム」という宿を予約している。観光ルートでもなく、ビーチも無いところにあるホテルということで期待できそうに無いが、ヤンバル東海岸にはここくらいしかホテルが無い。安波のやや北の県道沿いに趣味の悪い建物がポツンと建っていた。リゾートホテルといっても泊まって食べる以外になんにも無い。農園があるというがオープンしたばかりでまだ整備されていない。これははずしたと思った。
やることが無いので夕食をいただくことにする。客は私と一組のアベックしかいない。料理はスローフードが売りのイタリアンフレンチのコース。ところが、これがすべからく旨いのである。地の食材を生かした繊細な料理で、泡盛との相性も抜群である。最後に私より若いシェフが挨拶にみえた。聞くと東京麻布十番のイタリアンレストランで修行をし、その時から沖縄の食材を扱っていたという。このホテルでの料理長の話があり、地の食材にこだわった料理を地元で出せると思い引き受けたのだそうだ。美味しい料理を嗜みながら何杯泡盛のロックをいただいたろうか。
津波(沖縄県大宜味村)
ヤンバルの山塊を横断して西海岸に出る。昨日通りすがりに良さそうだとチェックを入れておいた大宜味村の津波集落を歩く。海岸に沿った小さな集落で、面する海は沖縄のいわゆる珊瑚礁の海岸ではなく、珍しくテトラポットが沈められている。かつて本当の津波が来たことがあるのだろうか。棟の長さが短い、寄棟の平屋民家が並んでいる。赤瓦屋根も見られるがセメント瓦の方が多いようだ。石垣のほか防風林めぐらした屋敷も見られた。津波は無名の集落だが沖縄本島のありのままの農村集落として紹介したい。
田名(沖縄県伊平屋村)
今帰仁村の運天港から伊平屋島、伊是名島への村営フェリーが出ている。両島ともリゾートとは全く無縁の島であるが、昔ながらの集落が残っている。これからまず午前便で伊平屋島へ渡り島内の4つの集落をレンタバイクで巡る。夕方、チャーターした漁船で伊是名島へ渡る。翌日、伊是名島を歩いて午後の便で運天港へ戻る。

伊平屋島の前泊港に到着し、隣の我喜屋まで歩きバイクを借りる。田名集落への道は平原の中の一直線。バイクのアクセルは全開、最高の気分である。田名集落はセメント瓦とコンクリートブロックが印象的な集落だった。
我喜屋(沖縄県伊平屋村)
沖縄本島の北西、沖縄県最北の伊平屋島は、標高200m級の山々が連なる細長い島。主な産業は明治23年に始まったサトウキビ栽培と古い歴史がある米作りである。琉球王朝の第一尚王朝、尚巴志の祖先・屋倉大王の出身地と伝えられ、屋蔵墓や天岩戸などの史跡や伝説の地も残る。

我喜屋集落はフェリーが発着する前泊港に近い島最大の集落である。山脈と海岸の間に形成された平野に碁盤目状に規則正しく屋敷割りされた集落だ。集落景観として印象的なのは、通りが真っ直ぐ通っていることと珊瑚礁の石塀、そして赤瓦である。石塀が切れる屋敷の出入口にはヒンプンは見られず、代わりに板を並べた目隠しが置かれているものが多かった。
島尻(沖縄県伊平屋村)
細長い伊平屋島の南端、賀陽岳と阿波岳に挟まれた平地に島尻集落はある。同じ伊平屋島の3つの集落は、我喜屋が珊瑚礁の石塀と赤瓦、田名がブロック塀とセメント瓦が印象的だが、ここ島尻は屋敷が狭く各民家の主屋が通りから近くに見られるため板壁が印象に残る。茶の板壁+赤瓦、ブルーの板壁+グレーのセメント瓦の組み合わせが美しい集落だった。
野甫(沖縄県伊平屋村)
伊平屋島の南西にあり、全長1.2kmの野甫大橋で結ばれている島。野甫は伊平屋で2番目に発祥した集落と伝えられ、テルチャマ嶽(アフリ森)には本土系住民が移住していたといわれる。
野甫集落を歩くと切石が隙間無くきっちりと積み上げられた石垣が見られる。使われている石は、この島で採取される野甫石というグレーの砂質石灰岩で、やわらかく加工がしやすいために野甫島や伊平屋島で盛んに使われた。その模様は幾何学的で非常に綺麗だった。

さて、野甫島から伊是名島に渡らなければならない。野甫港は小さな港で、釣り船が一艘つながれていた。おそらくこの船で渡るのであろう。やがて一台の車がやってきて、私の前で止まった。釣り船の船頭さんだった。野甫港から伊是名島内花港までは5km程度。船頭さんから「伊是名島まで15分で着きます。民宿の方に内花港まで迎に来てもらうようあらかじめ電話しておいたほうがいいですよ。」といわれ、携帯電話で民宿のおばちゃんに出迎えを依頼した。こんな島でも携帯電話が使えるのだから便利な時代になったものだ。内花港で野甫に帰る船を見送ると、何も無い港に一人残された。本当にここに迎えに来てくれるのだろうか。不安になってもう一度民宿に電話をしたら、おばちゃんはもう出たという。やがて一台の軽自動車がやってきた。島人の運転はのんびりしている。
伊是名(沖縄県伊是名村)
民宿は伊是名島の中心集落である伊是名にあった。平屋の民家で戦前の建物という。客は私のほか二組三人。一人は、本島の沖縄市から自転車を担いで遊びに来たという娘さん。一組は神奈川県藤沢市に住む夫婦で、那覇の大学に通うお子さんの所を定期的に訪れながら沖縄の各地を巡っているという。「初めて沖縄に来ました」なんて人はこの島を選ばないのであろう。居間の一つのちゃぶ台を囲んで食事をしたり団欒したり。「おばちゃん、車貸して」「ああいいよ」村の若い衆が民宿の車を借りにきた。この民宿に三日も滞在したらすっかり島の人になった気分だろう。

翌朝、まずは伊是名集落の角隅を丁寧に歩く。こういうゆとりある集落探訪は久しぶりだ。伊是名集落は伊平屋我喜屋集落と同様に整然と屋敷割りがなされているが、伊是名の場合は石垣に加えてフクギの屋敷林が発達している。集落には銘苅殿内(国重文)という総地頭職を務めた家柄の家があり文化財として公開されていた。伊是名は歴史深い由緒正しき集落だった。
民宿に戻ったらおばちゃんが昼ごはんを出してくれた。すると沖縄市の娘さんと藤沢市の夫婦も戻ってきた。これから隣の勢理客集落までのんびり歩いていくと言って民宿の皆さんと別れた。
勢理客(沖縄県伊是名村)
やや遠回りになるが、海岸線に沿って歩く。さすが島である、車の交通量は少ないから道路をノビノビ歩くことが出来る。やがて、前方に墓地が見えてきた。沖縄ならではの大きなお墓が並んでいる。墓の前には広い空間になっていて低い塀で囲まれている。法事のときはこの前庭で酒盛りをするそうだ。
伊是名から30分ほど歩いただろうか、勢理客集落が見えてきた。集落内には空地が多く、伊是名ほどではないが古い民家も散見できる。カメラで撮影をしていると村の子供たちが後をつけてくる。親しみをもってくれているのならいいが、怪しまれているとするといい気持ちはしない。まぁ、この島に不審者は来ないだろうから、おそらく親しんでくれているのだろう。

勢理客集落からアーガ山の麓を越えて仲田港まで歩く。途中、前方から見覚えのある車がやってきた。民宿のおばさんと沖縄市の娘さんである。これから今晩のお客を飛行場まで迎えに行くのだという。
港で土産を買って船に乗り込んだら、藤沢市の夫婦が広間で寝転んでいた。こうやって何度もいろんな場所で出会うのが島旅の面白いところである。
コザ(広島県広島市)
運天港に置いてきぼりにしていたレンタカーに乗って那覇市に向かう。途中、沖縄市のコザ地区を歩こうと思う。コザは米軍嘉手納基地の門前に形成された町で、米兵相手に発展した商業地区である。空港通りと呼ばれる大通りに物販店や飲食店、ライブハウスなどが並んでいる。今では、沖縄文化の一つの発信拠点になっている。空港通りの店は横文字の看板で飾られ、アメリカンミュージックが大きな音で店頭に流されている。町を歩いている人は半分が外人だろう。日本人の若者も多い。
コザ地区は、戦前は単なる農村だった。戦後、米軍基地が出来てにわかに門前町が形成された。したがって、裏を歩くと農村時代の面影が垣間見られて面白い。一番ビックリしたのは、住宅街の中に突如としてあの大きなお墓が現れることである。元々は農村の端っこにあった墓地だったのであろうが、都市化する過程で飲み込まれてしまったようだ。右の画像を見てほしい。マンションの前の駐車場に墓がある。この墓に眠る先祖を供養する子孫は、よその家の駐車場で法事をしなくてはならない。

日本全国の集落町並みを一通り歩こうという「全国各県50%プロジェクト」は、ちょっとパッとしないが、ここゴザ地区で終わった。
帰りの飛行機は晩い便を予約している。その理由は那覇市内で沖縄料理を食べながら一人祝杯をあげるためである。モノレールで牧志駅で降り、気の利いた飲食店を探すが見つからない。コンビニで沖縄のガイドブックを立ち読み、旭橋近くの郷土料理店に的を絞った。モノレールで旭橋駅へ移動し店を探す。ところが目当ての店は閉まっていた。そうか、今日は日曜日、飲食店はみんな定休日なのである。なんとしてでも那覇市内の沖縄料理の店で祝杯を挙げたい。付近で別の店を探すが皆営業していない。だんだん時間がなくなり焦ってくる。私はとうとう諦め空港に向かった。結局、空港内の旨くもない郷土料理の店で飲んだ。盛大に祝うはずだったが・・・、寂しい一人酒になってしまった。