備中カルスト紀行 後編
 

カルスト台地の中のペンション。テレビの無い宿ではぐっすり眠れて朝5時に起床。これから朝飯の7:00前に吉備高原の集落、布賀台を往復する。
外に出ると遠くの山の上に集落が見える。そこが布賀台で、今佇んでいる中村台とは高原状に連なっていて15分ほどで行けそうである。しかし、実は途中に深い成羽川の谷が横切っていて、細くタイトな山道を下って上らなければならない。近いようで辿りつくには結構時間がかかりそうだ。
布賀台・中村台(岡山県高梁市)
中村台の木之村という集落からはますます目前に布賀台が見える。木之村はかつて「鬼之村」と書いたそうだ。そこから成羽川の谷底へ絶壁を下る。下ると川沿いに黒鳥という集落がある。何気にいい町並みだ。そしてまた絶壁を駆け上がる。するとまた平らな高原の上に出た。そこが布賀台だ。
カルスト地形らしくうねる等高線に従って石垣が積まれた耕地と点在する農家の屋敷地が続く。いい場所はないかと台地上を走り回っていると、郷という集落に目がとまった。
吉備高原はもともと高原上に人が住まい谷底には人は住んでいなかった。さっき通った谷底の町黒鳥ができる前は、この辺りが中心の陣屋町だったそうである。なるほど立派な石垣を積み上げ長屋門を構えた大きな屋敷があった。
その背後は斜面になっていて、最上部に茅葺屋根の民家が一軒残っている。これは行かざるを得まいと、いろんなルートを試みるがなかなかアクセスできない。カルスト地形は複雑で一軒一軒への接道が私道なので、迷路のようになっている。散々トライした末にようやくたどり着いた。しかし、道は崩れかけて民家は廃屋であった。その民家の庭から布賀台の集落を見下ろす。これぞ吉備高原の集落という景観。遠くにわが宿のある中村台を眺めていたらお腹がグーとなった。
黒鳥(岡山県高梁市)
ペンションに戻って囲炉裏の部屋で朝食をとった後、宿の女将さんと話し込んでしまった。1時間半遅れて出発。急いで早朝に通過した成羽川の谷底集落「黒鳥」へ再び下る。
黒鳥は成羽川の舟運を背景に、それまでの布賀に変わって地域の中心になった町。布賀台からの道が黒鳥の町に下ってきたところに旧川上村の新しく立派な旧役場だった建物がある。今では市町村合併で高梁市の支所になっている。合併することが分かっていたらおそらくこんなに立派な役場を建設しなかったであろうに。その役場の向かいには大きな屋敷がある。長屋門や洋館(医院建築)もあったりして由緒ある家柄なのであろう。
一方、中村台・成羽方面の町の端部には海鼠壁や白壁の輝かしい造り酒屋があった。早朝通りかかったときに印象に残った町並み景観である。黒鳥の町並みは赤瓦と海鼠壁の町並み。中には海鼠壁の模様になっているトタンを貼った家もあって、さすが海鼠壁の岡山だなぁと感心させられた。
成羽(岡山県高梁市)
成羽川に沿って谷を下っていく。両側が切れ立った深い谷はやがて広くなり成羽の町が現れる。
成羽の町は、成羽川が弓の様に湾曲している内側に形成されている。一方、水運の船を敷地に付けるために商家が川岸近くに付こうとしたのであろう、町が2ヵ所の鉤の手を挟んでシフトしている。そして、古い町並みは弓なりの最も出っ張ったエリアに残っていた。
東の端から町を歩いていくと、通りと直交する方向に何本かの道が延びている。片方は川へ、片方は山裾の寺町である。この構成、岡山県内では実に多く見かけるもので、高梁、津山、勝山などに共通している。
町並みは切妻平入の町家が基本である。中ほどまで来たところに昭和レトロの看板建築が現れた。この辺りが商業の中心地だったのか。そして町並みの最後には赤瓦の妻入の町家。この旧街道の先に有る、吹屋に繋がるスタイルである。
下谷(岡山県高梁市)
成羽からペンションのある長地をまた通って吹屋方面へ走る。備中高原の尾根づたいは至って緩やかであるが、次第に谷に沿った道になり狭いワインディングロードとなった。暗い谷をひた走っていると視界がパッと開け、赤瓦とオレンジ色の土壁の町並みが現れた。下谷である。
赤瓦+オレンジ色の漆喰壁といえば、重伝建吹屋の町並みだが、ここ下谷もその重伝建の範囲内である。
下谷は吹屋から500mほどの位置にある集落で、吹屋同様に銅山で繁栄した町である。現在は単なる農家であるが、かつての豪商である「西野家」という家が残っている。吹屋と下谷の両方の町から離れて一つポツンと建っている「広兼家」はご存知、吉備高原の山村を舞台とした「八つ墓村」に出てくる田嶋家であるが、映画の中では田嶋家を東屋、もう一つの豪農を西屋と呼んでいた。前ふりが長くなって申し訳ないが、西野家が広兼家に対する映画の中の西屋にかぶって見えたことを言いたかったのである。
下谷の町中を通う道路から石段の旧道が分かれていた。吹屋へ通じる旧街道であろう。その石段を登っていくと廃屋に化した民家が数軒建っていた。思わずまた「八つ墓村」の「32人殺しのシーン」が頭をよぎった。
新見(岡山県新見市)
下谷の後は吹屋の町を再訪する予定ではあったが、今朝宿を出る時間が遅かったのでカットせざるをえない。悔しいがわき目も振らずに吹屋の町を通り過ぎる。
吉備高原の中心都市が新見である。映画「八つ墓村」には吹屋という地名は出てこないが、新見という地名や備中神代駅は登場する。そんな訳で気にかかっていた町である。
高梁川に対して旧市街の川向こうに車を停めて橋を渡る。本町銀座のアーケード街を東へ抜けた場所から古い町並みが現れる。入母屋平入の海鼠壁が美しい商家が数棟残っている。そして瓦の色は赤い。この街から中国山地を越えると出雲の国であることを感じる。
アーケード街を西へ歩いていくとT字交差点のところに虫籠窓の連続する商家がある。アーケード街の裏にあたる城山の墓地を抜けて山頂に駆け上がる。振り返れば眼下に高梁川と新見の町を一望に見渡すことができた。
中津井(岡山県井原市)
新見を後にして、これから吉備高原北側の水田地帯を歩く。中津井ははかつてブリ市でとても賑わった街である。近在の人々が集まり、この街でブリが三千本も売り買いされたという。こんな山の中でブリ市とは面白い。
岡山の津山あたりでは、正月の雑煮が味噌仕立てで、なんとブリが入っている。私のカミサンの父親が津山の近くの院庄出身で、正月カミサンの実家に行くと必ずこのブリ入りの雑煮が出てくるから間違いない。中国山地の内陸部でブリを食べるというのは贅沢だったのだろう。

さて、中津井の町並みを端から端まで歩いてみた。残念ながら古い町並みは僅かであったが、この町の特徴といえば「静けさ」であろう。通過交通も少なく実に静かな街である。三千本ものブリを求めて人が集まった市の賑わいは、想像すら出来ない。
呰部(岡山県真庭市)
中津井から北へ上ると「呰部」という町がある。さて、この地名読めるだろうか。「とりでべ」と読みそうだが砦とは字が違う。じゃあ「しべ」かと思ったが、実は「アザレ」と読むのである。いやはや、どうしてアザレになるのであろうか。呰部は中津井とともに、三重県亀山藩の飛領として陣屋がおかれた町である。
呰部は中津井の静けさとは対照的に、通過交通が多い商店街である。家々も昭和レトロという感じの建物が多い。山陰へ至る旧街道が通っており、交通の要地として発達したからだろうか。町の端部には造り酒屋があり、手入れの行き届いた庭を持つ屋敷構えであった。
町並みの家々には赤瓦がちらほらある。そんなことからも、山陰地方とのつながりを感じる町である。
鹿田(岡山県真庭市)
一昨年の12月に旅した吉備路紀行では、落合から西のこの鹿田に行くか、月田に行くか悩み、結局月田にした。したがって、今回の旅では、そのとき行けなかった鹿田が最東端の町ということになる。この地名も簡単には読めないと思う。「シカダ」ではなく「カッタ」である。
まずは町を車で流してみるが、なんとなく変わっている。車を置いて北から歩く。入母屋・切妻で平入りの町並みは2階のタッパが高く、海鼠壁が施されているのだが、特徴的なのが2階の窓にバルコニーが多いことである。
中ほどに土壁の古そうな民家が一軒有り、隣の建物が修復工事中であった。あとで「いらかぐみ」七ちょめさんのサイトで確認したら、工事中の建物は立派な洋館であった。

水田(岡山県真庭市)
鹿田からまた西へ戻り有漢へ向かう。その途中、「おいっ!歩いてくれ!」って叫んでいるようにインパクトの強い町が現れた。「水田」という集落で、その名の通り水田地帯の中にある。
何に魅かれたのかというと、質の高い民家が揃っているところである。町は南北の通りに面する街村型で、一軒一軒の隣棟間隔が確保されている。民家の形態は入母屋あるいは切妻平入が多く、土壁・漆喰壁に海鼠壁、屋根の造形、格子などの意匠に手が込んだものが見られる。
特に、町の中央部に建っている一際高く大きな赤瓦の民家は、華美な意匠の一品であった。水田は、過去の繁栄の面影を今に残した吉備高原地域の興味深い町並みの一つといえる。
有漢(岡山県高梁市)
有漢(うかん)は、吉備高原の真っ只中、高梁川に注ぐ有漢川の緩やかな谷にある集落である。有漢市場は、高梁と落合を結ぶ街道・落合往来の要地で物資の中継地として商業が興ったという。
高梁方面から落合方面に向かって町並みを歩く。町は右手を流れる有漢川の河岸段丘上に細長く続いている。有漢市場というバス停の辺りが町の中心である下市地区で、切妻平入で随所に海鼠壁が施された町家が軒を連ねている。しばらく行くと右手に寄棟2階建ての洋館が現れ、向かい側に小川の上に建っている珍しい民家がある。その先で有漢川が屈曲し町並みが一旦途切れている。振り返ると川の際に石垣を積んだ下市地区の裏手の家並みが見渡せる。
ここからは上市地区で、視線の先に大きな民家が横たわっている。近づくにしたがってその迫力が増してくる。この家は芳烈酒造で、主屋は明治22年に建てられた。迫力はその高さで、明治の建物らしく2階の建ちが高い。虫籠窓の大きさも半端ではなく、軒の出も大きい。そして屋根は赤瓦である。山陰の赤瓦をふんだんに用いてるのはステイタスの表現なのであろうか。町並みは隣の芳烈酒造の酒蔵で終わっていた。
高梁本町(岡山県高梁市)
有漢で今回の旅の予定は終りだが、時間が余ったので高梁本町に立ち寄ることにした。
高梁は3回目の訪問だが、今ひとつ本町をちゃんと歩いていない。観光駐車場に車を置いて歩き出す。するとデジャブー現象のように過去歩いた記憶が、つい最近歩いたように蘇ってくる。しかし、それは6年前に家族で来た時のことである。なんだかタヌキにだまされているような気持ちになってきた。疲れているのだろうか。
本町を端まで歩いてみると全部記憶に残っている。ちゃんと歩いていなかったのではなく、歩いたことを忘れていたのだった。痴呆症の気があるのかもしれない。

本町の町並みを歩き終わったら暗くなってきた。もう今日の町歩きは本当におしまいとしよう。
高梁から岡山に向かう国道は渋滞しており、途中でUターンして高速道の高梁インターチェンジに向かった。高梁市街の背後はあまりにも急な高低差のため、道路はループ橋を描いて上っている。そして上りきると平らな高原となった。カルスト地形を最後の最後に再び味わうことが出来た。


岡山県のカルスト台地は、成羽・川上地域、上鴨地域、上房地域、新見・阿哲地域の大きく4エリアからなる。今回のカルスト紀行で訪れた台地上の農村は、高梁川西側の成羽・川上地域、上鴨地域だけだったので、東側の集落を最後に紹介して終わろう。
有名な鍾乳洞である「井倉洞」の上の台地草間台は、特異な窪地をなすドリーネやウバーレが見られ、畑の中や木立の間には羊の群れのような石灰岩の石塔が散在する、典型的なカルスト台地である。
もう一つは、草間台から東へ左伏川の谷を越えた豊永台である。中でも宇山本村は窪地がきれいなすり鉢状になっており、窪地の底まで耕地化され、内側斜面に農家が並ぶ特徴的な形態が見られる。

今回の旅は春先だったので、備中高原で有名な秋口の早朝雲海は見られなかった。次回はこの雲海とあわせて吉備高原の地底編、鍾乳洞を見てみたいと思う。そう、映画「八つ墓村」で主人公の辰也(萩原健一)が美弥子(小川真由美)に殺されかかるシーンが撮影された鍾乳洞である。