東奔西走 2005秋冬
 

2005年は北は秋田県湯沢市から南は熊本県天草諸島に至るまで、実に多くの集落町並みを訪れた。大きな旅としては10月の北陸3県が最後となり、年末になるに従って仕事が忙しくなってきたため、その合間を見ては小刻みな旅を重ねてきた。中でも数日に分けて刻むように訪れた岡山県は何れまとめて綴ることとし、今年最後の小さな旅たちの印象記をまとめて紹介しよう。

有松(愛知県名古屋市)
「越紀行」で新潟から京都へ向かう途中に名古屋に立ち寄った。愛知県はひたすらきざみ納豆方式による探訪を続けている。名鉄に乗って新しくなった有松駅で降りる。有松は旧東海道の合の宿で「絞り」で繁栄した産業町である。前にここを訪れたのは1980年代だからあれから20年近く経っている。町並みはやや整備が進んだものの、記憶のままの古い町並みが見られて素晴らしい。ただ、丁度真ん中あたりに横切る大通りが整備されて町並みが分断されてしまっていた。これだけ時代が進んでいるのだから多少の変化はやむをえない。この程度でこの町並みの良さが大きく損なわれているわけではない。有松は周辺市街地の中で異次元空間のように見事に時間が止まっている。
中村(愛知県名古屋市)
三重県桑名に行く途中、名古屋駅で新幹線から関西本線へ乗り換える。そのタイミングを利用して名古屋駅に程近い中村遊廓を歩く。地下鉄東山線に乗って3駅、中村日赤駅で下車する。日赤病院の裏手を歩いていくと街区形状が変わり旧遊廓建築が点在し始めた。碁盤目状の街区は明らかに計画されたもので大阪の飛田新地によく似ている。それもそのはず、飛田新地に遅れること一年後に中村遊廓は完成したのだ。名古屋といえば戦災復興後のダイナミックな都市計画が特徴だが、堀川の西側にあたる名古屋駅西のエリアは戦災に遭っていない。中心市街地から離れた遊廓の常で、中村遊廓も見事に古い建築が残っているのである。目抜き通りの果てにそびえる名古屋駅ビルの2本のスカイクレーパーに負けじと戦前の妓楼がどしんどしんと居座っている。
桑名(三重県桑名市)
旧東海道は宮宿(名古屋市熱田区)から名古屋城下をカットして海を渡り三重県の桑名に至っていた。その海路は「七里の渡し」と呼ばれていた。また桑名は伊勢神宮へ至る伊勢路の起点でもあり、交通の要衝として繁栄した。ならば古い町の遺構が見られないかと期待して訪れたのだが、桑名の旧市街は見事に戦災で焼失しており、さらに伊勢湾台風で被害を受けていて、七里の渡しの乗船場も宿場町も残念ながらかつての面影は殆ど感じられない。唯一の見所は、米穀業で巨額の財を成した諸戸家の屋敷や建物で、わが国の建築教育の祖であるジョサイヤコンドル設計の洋館も残っている。これらの点在する遺構をつなぎ合せてかつての桑名の町並みを想像するしかない。
新潟古町(新潟県新潟市)
2005年の冬は、12月に記録的な大雪を記録した。年末、その大雪の新潟へ向かった。関東平野は全然雪がないというのに大清水トンネルを越えたとたんに雪国の風景に変わる。日本という国はつくづく気候の地域差の激しい国だなぁと思う。それでも大雪は長岡あたりまでで、新潟平野で山から遠ざかるに従って積雪量は減っていく。新潟市内はたいして積もってはいなかった。
前回歩いたときに古い町並みが見られる一角を歩き損なったので今回再訪である。新潟は戦災に遭っていないのでもっと残っていてもいいようなものだが、ちょろちょろと独特の町家が残っている程度である。古町界隈を1時間半ほど歩いたであろうか、青空が広がったと思えば次の瞬間には吹雪くという気まぐれな天候の中、滑らないように変に足に力を入れて歩いていたら膝を痛めてしまった。
大磯(神奈川県大磯町)
年末は国内の出張が続いたが、さらに中国上海の出張も加わり、痛めた左膝をさらに悪化させてしまった。年が開けて熱海に行く用ができたので、早朝出発で湘南の町並みをビッコを引きながら歩く。
大磯は最近訪れたばっかりだが、有名な吉田茂別邸などの別荘地帯がそのときわからなかったので再訪である。吉田邸は大磯駅から小田原方面にかなり離れているのでタクシーで行き、そこから戻るように歩く。吉田茂別邸は常時公開されているわけではなく閉鎖されていて門を写すのみだった。途中の旧東海道には松並木が残っていて旧街道の風情を楽しむことができる。収穫はなかったが膝はかなり悪化した。
国府津(神奈川県小田原市)
大磯駅から2駅西の国府津駅で降りる。熱海から三島へ抜ける丹那トンネルが出来るまで、東海道本線は御殿場を経由(現御殿場線)していて、熱海線(現東海道線)を分岐するのが国府津駅であった。だから、主要な特急列車はこの駅に停車していたのだが、現在はただの一駅に過ぎない。町並みは国道1号線の両脇にあり看板建築や出桁町家が目立つ。しかし、どうして国道がバイパス化せずこうも道幅が広いのか。そのくせ古い建物が建っている。その答えは看板建築たちの存在に隠されていた。つまり、国府津の町は関東大震災で大きく被災していたのだ。震災復興で用いられた建築スタイルこそ東京で見られる看板建築なのである。震災復興の計画によって道幅は広げられて町が再建されたのであった。国府津は、こういう町の歴史を頭に入れて歩くと面白い町並みである。
2005年の集落町並み探訪(大磯・国府津は2006年ゆえ除く)は何箇所であったのだろうか?。数えたらなんと205箇所を歩いていた。我ながらまことに呆れる結果だが、仕事をサボっていたわけではなく、忙しくてもちゃんと仕事はこなしての数である。だが、身体に対する負担は大きかったようで、年明け国府津を歩いた後熱海の日向邸を見学している最中に熱が出てきた。熱海の干物の美味しい「釜つる」の経営する料理屋で一杯やって帰るつもりがそれどこどれはなくなり、そそくさと新幹線で帰宅した。翌朝、クリニックへ行ったらインフルエンザと判定され5日間寝込む始末。さらに膝をこわし歩くこともできず、2006年は新年早々ひどいスタートとなってしまった。