梅雨が開け、今年もまた猛暑の到来である。町並み探訪には最悪のシーズン。休日は家の中でエアコンを効かせてじっとしていたほうがどんなに楽なことか。それでも集落町並み探訪には出かけにゃならぬ。それなら涼しい北海道や東北へ行けばいいのだが、東北や北海道は十分行っている。手薄な場所は南に集まっている。今月も九州、熊本・長崎を歩く。
先月同様、朝一番の飛行機で福岡空港に降り立った。空港ビルを出ると「ドカッ」と蒸し暑い。それが生半可じゃない。まだ朝8:30だぞ!。炎天紀行の幕開けだ。 |
山鹿(熊本県山鹿市) |
山鹿は南北に走る旧小倉街道を主軸に古い町並みが残っていた。しかし、照りつける太陽に無風状態。半分歩いたところでもう我慢できない!。町の中心部に再開発して建てられた寂れたショッピングセンターがあって、そこで帽子と短パンを購入した。町並みの半分を歩く。河港と街道と温泉で賑わった町、山鹿は広範囲に渡って見るべき町並みがある。それらを全て歩いて一時間半。まだ、午前中、最初の町並みだというのに暑さでヘロヘロである。いや〜、これからが思いやられる。 |
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玉名(熊本県玉名市) |
山鹿からエアコンをビンビンに効かせ、菊池川に沿って走る。川幅の広い菊池川の下流域にある玉名は、古くから海外貿易の要港であり、近世は肥後藩の在町となり上流域の農林産物の集散地として発展した。河港には高瀬舟が停泊していたのであろうか、旧市街は「高瀬」という。高瀬の表通りは商店街になっていてあまり古い家並みを見ることは出来ないが、見所は裏手にあった。河港といっても直接菊池川に面するのではなく、堤防で守られ水が引き込まれた裏手川があって、そこに石垣や船着場、俵ころがし、川筋の反対側に渡るための石橋群が残っていた。しかし、かつての河港は親水公園として整備されており、公園としてはきれいなのだがそこから河港時代の景観を想像しがたいのはちょっと残念である。 |
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御船(熊本県御船町) |
もう暑くてダメだ。そうだ、傘を差してみよう。短パンに雨傘を差して歩いていては危ないオヤジだが、もう形振り構ってなんかいられない。ところがこれが効果抜群!。日傘がこんなに効果があったとは知らなかった。
御船町は石橋と川に面して並ぶ酒蔵が残る町と聞いていて一度行ってみたいと思っていた。下調べでは旧市街と新市街との間に流れる御船川を渡る橋が3つあって、その内の最も上流の橋が「眼鏡橋」という古い石橋のようだ。
旧市街を抜けそろそろ期待の石橋が現れる。と・・・・ない!?。川原を歩いても普通の川。酒蔵なんて並んでいない。写真で見たあれだけのものがあって何も痕跡が無いなどありえない。どうして根こそぎ無くなってしまったのだろうか? |
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川尻(熊本県熊本市) |
川尻は熊本市の南部、緑川支流加勢川の河港町である。旧薩摩街道が通っているので南北軸の旧街道沿いが町並みと思っていたら直交する川沿いの通りに町並みが形成されていた。川岸には旧藩時代の船着場の石積みが残っていて、その近くに米蔵の遺構もある。古い家並みという点ではあまり残ってはいなが、賑わった河港町の面影を残す場所もある。しかし何より、加勢川の美しい流れが印象に残る町並みであった。
ガンガン照っていた太陽は西にやや傾き、日差しは絶頂期を過ぎた。でも日傘は手放せない。 |
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松合(熊本県宇城市) |
宇土半島南岸を先端に向って走る。目の前の八代海は潮が引き始めていて干潟が一面に広がっていた。海岸線の国道から旧道に折れ不知火町松合集落を訪れる。車を降り旧街道に沿って連なる町並みから歩き始めた。町のちょうど真ん中あたりに山手の集落へ路地が延びていた。そこは海鼠壁の蔵に挟まれたいい感じの空間で思わず誘われ入っていった。すると「汐見坂」と案内板があり、「なるほど」と振り返ると坂は旧街道を横切って港の舟溜に続いていた。坂を下って港に出てみると視界が開けた。護岸は水位の変化に合わせた石段になっている。ちょうど干潮時で海水はほとんどなく、底の泥の表面でムツゴロウがあちこちで跳ねている。そのとき「ああ、熊本に来ているんだなぁ」と実感した。
松合から天草に渡りたいところだが、肥後紀行の一日目はここで終了。一旦、熊本へ戻る。 |
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熊本(熊本県熊本市) |
熊本市は城下町であるが広範囲にわたって戦災を受けている。現在、「新市街」と呼ばれる場所は戦災復興で商業中心地として整備された町で、そこにあるビジネスホテルに泊まった。早朝、戦災地図と航空写真で絞り込んでいた熊本城の南側の戦災を免れたエリアを歩いた。幸運にもかつての商業中心地がその中にあって、古町、新町に黒づくめの熊本城同様、黒壁の町並みが残っていた。中には洋風の立派な銀行や本屋さんも見られた。古町では大規模な煉瓦防火壁でサンドイッチされた町家があった。ということは明治以降の建物。熊本は明治期に西南の役で焦土と化していて、今見ることのできる古い町並みはその後につくられたものである。 |
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三角西港(熊本県宇城市) |
宇土半島の北岸、国道57号線を西に向う。三角と宇土を結ぶJR三角線はずっと国道のすぐ脇に寄り添っているので、踏み切りを渡った車は踏み切りの上で一旦停止し国道への右左折をしなければならない。見ていて冷や冷やする。本数が少ないローカル線ならではの光景だ。
半島先端の三角西港を訪れた。明治期にオランダ人水理技師によって設計された近代築港である三角浦は埠頭や水路の石積みがとにかく美しい。積み方一つに和洋の違いが現れるものだ。埠頭には築港時代の白壁のきれいな倉庫が残っていて石積みのグレーとのコントラストがいい。前に広がる三角ノ瀬戸を漁船が行き交い、遠方に天草諸島へ渡る天門橋を臨む。静かな内海の異国情緒ただよう港町。猛暑の真夏ながら、さわやかな朝の風景を満喫した。 |
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富岡(熊本県苓北町) |
三角から天門橋を渡り天草諸島へ足を踏み入れる。天草を訪れるのは18年ぶりである。大矢野島、上島、下島と渡り、今晩泊まる本渡市内を通過、下島を半時計周りに西海岸までやってきた。三角からは2時間ほどかかり、さっき味わったさわやかな朝はもう無い。今日も炎天下ででの町並み探訪である。
長崎県野母崎との間の天草灘に突き出した砂州上の町、富岡を歩く。まず最初に旧城址に上ったのだが、真夏の山城登りでびっしょり汗をかいた。しかし、頂上からの眺めは最高である。富岡の町は、規模は全然小さいがまるで函館山から見た函館のような形をしていた。 |
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大江(熊本県天草町) |
下島の入り口にあたる中心都市の本渡とは最も遠いところに、天主堂を持つ2つの集落がある。大江はそのひとつ、丘のてっぺんに天主堂が建つ農村集落。以前訪れた時は狭い国道が集落内を通過していたが、現在は大きく迂回したバイパスが整備されていた。バイパスは、遠目に天主堂を眺めながら丘を巻いていく。大江天主堂は明治期、日本にやってきた若干25歳のフランス人ガルニエ神父がこの地に根付いて布教活動を行い、晩年に自費を投じて建てたもの。なんとなくヨーロッパの農村を訪れているような気がした。 |
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崎津(熊本県河浦町) |
当サイトのタイトルバックになっている「崎津」を約20年ぶりに再訪した。崎津は熊本県の天草下島の羊角湾に面する入江にある漁村で、中心に見えるトンガリ屋根は崎津天主堂である。最初に訪れた時の印象が強かったのであろう、町を歩いてみると記憶どおりであった。静かな水面の入江と背景となる山の緑、和の漁村集落の中にそびえる洋の天主堂。普通の漁村なら寺の大きな屋根が座っているような場所に天主堂があるのが面白い。町中にはたいして古い民家は見られないが、対岸から眺める集落景観のなんと素晴らしいことか。九州の代表的な集落景観のひとつといっていい。 |
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牛深(熊本県牛深市) |
牛深は前回1988年の時には遠すぎて訪れることが出来なかった。今回、天草に来たのはこの牛深をどうしても歩きたかったからに他ならない。天草諸島の際奥だというのに町や村でなく「市」である。どんな都市があるのだろうか。
牛深は明治40年頃から水産業で急速に発展した都市。その町は巨大な漁村だが、リアス式海岸地形の谷間に丁寧に沿った密集集落が形成されていた。歩いていて殆どが迷路で面白い。しかし、こんなに密集しているのに山の上には町が伸びていない。この構造、どこかで見たことがある。そうだ、同じように入り組んだ入江状の漁村、茨城県平潟漁港に似ている。あっちも関東屈指の水産都市である。
船溜りの石積みの上に立っているとやっと涼しい風が吹いた。もう夕刻、炎天下の一日が終わる。 |
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肥前 炎天紀行 へつづく |