リベンジ紀行

2009年1月、昨年暮れから10日間完全に寝込んでいた私は、やっと会社に出ることができるようになった。身体は復調したとは言えないが、仕事は遠慮なしに押し寄せてくるので以前のように深夜残業の日々だ。家には母が来て家事をやってくれるのはありがたいけれど、親から世話をやかれたり注意されたりしていると結婚前の独身時代の時の感覚が蘇ってくる。自立した一家の主になって久しい自分と、わがままを言っていた若年の頃の自分が共存する奇妙な感覚。そんなこともあって、私は精神状態が著しく不安定になっていた。このサイトを更新する気もしなければ旅に出る気もしない。何もやる気が起こらない。もしかしてこのまま「うつ病」にでもなってしまわないか。不安な日々が続いていた。

1月下旬、現在丸の内で進行中の三菱一号館復元工事で、シャンデリアの検査に新潟県三条市に行くことになった。平日は忙しく出張に充てることができないため土曜日にセットし、金曜日の晩、上越新幹線燕三条駅前のビジネスホテルに入った。三条と言えば金属加工業で栄えた町。遊里リストにも本寺小路という遊郭跡がある。冬の北陸だというのに雪が全然ないので、明日朝早く起きて町でも歩こうか。
 

三条(新潟県三条市)
am6:00にセットしておいた枕元のアラームがけたたましく鳴った。カーテンを開けると外は一面雪景色。「これじゃ無理だな」といとも簡単に断念。最近町歩きに対するモチベーションが下がっている証拠だ。午前中は三条郊外の金物加工工場の検査。検査後、昼飯にと連れていかれたのが三条市中心部の和食屋だった。「本寺小路というかつての遊郭はこの近くですか?」と社長に訪ねると、「かつて金属加工の全盛期の時にはかなり賑わっていましたよ」という。だとするといい町並みがあるかもしれない。私の探訪魂がちょっとだけうずいた。ここで仕事が終わりみんなまっすぐ帰るところだが・・・店をでると雪が弱まってきた。となれば朝一番で行けなかった旧遊郭の本寺小路を歩きたい。
「本寺小路の近くで私だけ車を降ろしてもらえませんか」 「昼間行っても遊べませんよ」 「いやいや、街で遊ぶのではなく旧遊郭の面影を探してちょっと歩きたいのです」
と毎度毎度の説明である。

本寺小路は、古い建物としてはかつての目抜き通りらしきところに木造三階建ての旧妓楼が一軒あった程度だが、細い路地に看板と独特な意匠の施されたスナックが連なっている。積もった雪とあいまって、きたぐにの歓楽街という雰囲気を堪能できた。歩きづらい雪の町を端から端まで歩いてそれなりの収穫があった。これからさらに新津遊郭をとも考えたが、そこは押さえて夕食までに帰ることにした。

帰りの上越新幹線。湯沢まで真っ白な景色だが、大清水トンネルを越えると雪がなくなる。毎度思うがこの違いは見事である。列車は熊谷駅に停車した。そうだ、この町は以前歩いた時に旧遊郭を見つけられ無かった町だ。 あの時のリベンジを果たさなければ!
 
 

燕三条駅前のアパホテルから
朝起きたら一面が雪景色だった


三条本寺小路の旧遊郭の目抜き通りに建つ木造三階建ての旧妓楼。

路地にはスナック店がひしめいている。抜けると商店街に出るという典型的な遊里と商店街との位置関係になっている。
荻窪(東京都杉並区)
仕事に集中するためには片方で趣味に熱中してストレスを解消しないとバランスがとれない。探訪の旅に出る気が起こらないとなると、もう一つの趣味であるクルマに求めるようになるのも今まで何度も繰り返してきた現象。もういい歳なんだから止めなさいとと言われても、永年それでやってきているのでいまさら変えられない。
現在乗っているエルグランドは、ラグジュアリー度満点の実にいいクルマだが走りを楽しむクルマとはいえない。以前のように走り屋系のクルマに無性に乗りたい。仕事の傍ら趣味でレースをやるのもいいかもしれない。ホンダのV-techエンジンをさらに磨いたタイプRが欲しい。ある土曜日、杉並区のディーラーに試乗に出かけた。

ディーラーに向う途中、荻窪天沼付近を通ったら妙な建築が視野に入った。「西郊ロッヂング」。そうだ荻窪には戦前に開発された古い住宅街がある。試乗の予約まで時間があるので歩いてみよう。

また走り屋の魂が!いい歳してシビックタイプRはない?

関東大震災後に開発された荻窪の住宅街
熊谷(埼玉県熊谷市)
1993年9月に探訪「街道を歩く」で中山道熊谷宿を歩いた。熊谷は戦災で市街地のほぼ全域が焼けていて中心市街地に古い町並みは残っていないけれど、町はずれの旧遊郭には戦前の妓楼が残っているという。「赤線跡を歩く」によれば旧市街のエッジとなっていた旧熊谷堤(下記地図の@とAを結んだライン)の西側にあったという。1993年の時は熊谷駅と旧熊谷堤との間(下記@)を探索したが見つけることができなかった。すでに建物は無くなってしまったとも思われたが、本の写真に見られたあれだけの妓楼が一軒もなくなるわけがない。おそらくJRの南側だったんだろう。そして今日、そのリベンジを果たす旅に出た。
 

1993年に熊谷の遊郭跡と思って取材した上熊谷駅北側の町並み。ところが違っていた・・・

リベンジ
リベンジの日、関越自動車道を飛ばし気合十分、朝8時台に市内に入った。前回は鉄道だったので十分に探すことができなかったが、今回はクルマなので簡単に見つけることが出来るだろう。
まずはここしかないと思っていたAを探索。スナックが一軒程度あっただけで妓楼は残っていない。何度もクルマを流したが・・・違う。Bは現在の遊里であるが、もしかして同じ場所かもしれない。でもほとんど戦後の建物で戦災に遭っているからここでもない。ならばCしかないとここもぐるぐる回るが見当たらない。もしかして現在の荒川の土手に近いエリアかとAの下の方も探すが、完全に戦後の町だ。最初は余裕をかましていた私もかなり焦ってきた。「赤線跡を歩く」を持って来ていれば、横浜新天地の時のように写真のわずかな情報から場所を絞り込むことができたのに、タカをくくって持って来なかったのが失敗した。ここまで探して無いとなるとやっぱり前回歩いた@だったのかもしれない。私はクルマを置き@をじっくり歩きなおした。そういう目で見ると妓楼らしき戦前の建物も残っているではないか。私は半信半疑で@を取材して帰ってきた。
家で「赤線跡を歩く」をもう一度読み返した。写真の後ろに映っている上越新幹線の高架だけが頼りである。ちょっと待て、地図から外れているけれど上越新幹線高架の直下の町を探っていなかったではないか! その場所を航空写真で確かめた。不自然に道路が広がっている。妓楼が並んでいた写真は大通りに面していたから、ここだったのか?
私の集落町並み魂に完全に火がついた!
 

熊谷は戦災に遭っているため戦災復興計画で旧中山道(現国道17号線)が拡幅されていてバイパス化されていない。旧宿場町の面影はない。

@の町をじっくり再訪したらこういう料亭が残っていた。やっぱり@だったのか。しかし・・・
再リベンジ
翌週末の早朝、湘南新宿ラインの高崎行きグリーン車に乗っている。今まで2回訪れても見つからなかった集落町並みはない。カンが鈍ったとはいえ屈辱である。今日は絶対、熊谷遊郭をやっつけてやる。
熊谷駅前の吉野家で朝食の腹ごしらえ。あわてて戦いに挑むと前回のようにろくなことにならない。タクシーで上熊谷駅まで行き、上越新幹線の高架下を西へ歩く。1週間前に探った町をぬけた。絶対現れるはずだ。
住宅街の通りが不自然に広がる。場違いな古く大きな木造建築が見えてきた。あった、ここが旧遊郭だったんだ。昭和50年代の写真で並んでいた妓楼は1棟しか残っていなかった。ところがたいした感動もない。何でこんな離れた場所に遊郭を造ったのか、不思議に思うが別に珍しいことでもない。その他にも戦前らしき建物が見られはした。本の写真にあった旅館はなくなっていたけど裏側の塀は残っていた。町を一周するのに20分とかからなかった。

9:00前にあっけなく再リベンジは終わってしまった。どうしようか。そうだ、秩父鉄道に乗ったことがないので、上熊谷駅から乗って秩父へ行き、秩父の2か所の遊里を再訪した後、西武池袋線のレッドアロー号で東京に戻ることにしよう。
秩父鉄道は、秩父で採れる石灰を運ぶ鉄道で、熊谷のセメント工場を結んでいる。石灰を積んだ貨物列車に何回もすれ違った。

旧遊郭のセンター大通り。住宅街の細い通りがいきなり幅広になるから間違いない。遊郭を過ぎるとまた細くなる。
左手には昭和50年代まで妓楼3棟が軒を連ねていたそうだが1棟しか残っていなかった。

秩父鉄道上熊谷駅。秩父鉄道には国鉄時代の旧国電車両が国電カラーで走っている。
寄居(埼玉県寄居町)
秩父鉄道は今まで荒川沿いの平野部を走ってきたが、いよいよ秩父山地が迫ってきた。荒川の谷口集落として発展した寄居町である。寄居駅は秩父鉄道、JR八高線、東武東上線が結接する交通の要衝。かつては市場町・宿場町として栄えた。列車が長時間停車している間に寄居の町を歩きたくなったので降りることにした。

駅前通りをまっすぐ荒川の方に歩いて行くと秩父往還沿いの旧市街である。交差点に古い旅館と近代洋風建築が並んでいたのでこれは期待できそうだ。しかし、あまり収穫はなかった。

 

旧秩父往還沿いの町並み。駅からの通りの交差点近くに古い旅館が残っていたが、他にはあまりなし。
秩父番場町(埼玉県秩父市)
秩父鉄道は寄居から谷間に入る。荒川の流れに沿って段々と平地が狭まってくる。寄居で乗車率が高まり高齢のハイカーが多いが、長瀞でほとんどが下車し、車内は1,2人になった。秩父駅の次の御花畑駅で降りる。

秩父神社の門前町はここから北の番場通りとなる。番場通りと本町からの昭和通りの交差点近くには昭和元年の小池煙草店と大正12年の大月旅館が向い合い、一歩引いて昭和2年のパリーが建っている。昭和レトロ町並み博物館のような一角である。その交差点の北東側は特飲街だったと思われ現在でもスナックが集まっている。その中に大きな寄棟屋根の建物を発見。和風なので映画館ではないと思うが、いったい何に使われた建物だったのだろうか。
番場通りと本町通りの間にも大正から昭和初期にかけて建てられた民家が点在していた。秩父は歴史的な町並みとしては結構見るべきものが多いと再認識させられた。

番場町昭和通りに残る大正12年築のパリー。

番場町の大きな建物。何に使用されていたのか?
秩父本町(埼玉県秩父市)
秩父往還の本町通りを横切って坂下の下平通りへ移動する。前回、遊里っぽいなと思って歩いていたが、後で調べたらやっぱりそうだった。意識して歩かないと町並みは簡単に見落としてしまうものである。なるほど、建物の欄干装飾や丸窓に花街の面影を残していた。

西武秩父駅で出発を待つ池袋行き特急列車の中。窓の外には削られた荒々しい武甲山が見えている。発車して間もなく私は眠ってしまった。気づくともう練馬あたりを走っていた。そして目黒の自宅には午後3時に戻った。早朝から3つの町を歩いて心地よく疲れている。こうやって徐々に旅のペースを上げていくことができでば良いのだが。