東奔西走 2005夏
 

古い大学のキャンパスもひとまとまりの建造物群としてみれば集落町並みとして捉えられる。一方、全国の大学では機能更新で建替えも進んでいる。2005年夏の小旅行を集めた印象記は、煉瓦の近代建築が多く残っている京都の同志社大学からスタートする。

同志社大(京都府京都市)
最近、東大へよく行くがキャンパス内は建設ラッシュである。古い校舎が部分保存されてはいるものの次々と建替えられている。わが母校の東工大などひどいもので、きれいな芝生だった斜面に新校舎を建てて台無しにしてしまった。理科大しかり、早大理工しかり、京都工芸繊維大しかり。どうしても理工系大学のキャンパスは風情が無い。その点、総合大学や文科系大学は趣がある。特に煉瓦造の校舎がトレードマークの歴史ある大学はいいものだ。東京の立教大や京都の京大は煉瓦造校舎の素晴らしいキャンパスであるが、同志社大学には負けるであろう。何せ重要文化財5棟、登録文化財2棟の赤煉瓦造校舎が残されているのだ。

伊丹(兵庫県伊丹市)
羽田発6:30伊丹行きの飛行機の中である。今日は朝、神戸市内の兵庫津近くを歩く予定にしていた。しかし、窓から伊丹空港近くの町を見下ろしていて気が変わった。
空港から路線バスに乗って滑走路の下をくぐり、JR伊丹駅前で下車した。伊丹の名は空港で有名だが、元々は灘に並ぶ酒造りの町で有名である。市内には古い町並みがあると聞いていた。駅近くに古い町家を発見、酒造りの町並みが見られるかと期待が膨らむ。ところが歩いてみるにあまり見られない。伊丹の中心部は戦災に遭っているので残っていないようだ。わずかに残っている町家は酒造業を営んでいた立派な家で博物館として公開されていた。
兵庫(兵庫県神戸市)
神戸の港町は時代を経るにつれて東へ東へ移動していった。現在は三ノ宮駅周辺が中心地だが、その前は神戸駅周辺、その前は兵庫駅周辺である。兵庫津は港町神戸の原点である。残念なことに、兵庫津の辺りは戦災と震災という2度の大きなダメージを受けているので、古い町並みなど残っていないことはわかっている。だが、神戸を語る上では歩かないわけにはいかない。
そんな理由で何度も歩く企画を立てるが他の町に心変わりされてしまっていた兵庫津を、今回は強い意志を持って歩こうと思う。といっても旧兵庫津は何も残っていないので、近くの戦災を逃れたエリアを歩いてみた。しかし・・・、震災でのダメージは本当に大きかったのであろう。古い町並みは無い。震災以降の空地が未だ目立っていた。
北条(兵庫県西脇市)
兵庫を歩いた翌日、新開地から神戸電鉄、粟生駅で北条鉄道に乗り換えてはるばる北条の町にやってきた。私鉄は小刻みに駅に停車するのでまことに時間がかかる。
風情のある北条鉄道の終点は反して新しい駅舎であった。近年駅周辺が再開発されたようで大きなスーパーが駅前に建っていた。そこを越して歩いていくと古い町並みが始まった。北条は四方八方から街道が集まっている交通の要衝。旧街道に沿っていろんな筋に古い町並みが延びている。航空写真による古い町並みの見極め手法が効果的に発揮された。全てをひたすら無休で歩いて1時間半、見ごたえ歩きごたえのある町であった。
加古川(兵庫県加古川市)
粟生駅で加古川線に乗り換え加古川へ向かう。加古川はニッケ工場の企業城下町で、赤煉瓦工場や懐かしい戦前の社宅が残っているという。「行きゃわかるだろう」と高をくくって何も下調べはしていない。加古川大橋を渡って川の西側のニッケ工場の周りを歩く。しかし、煉瓦工場はあれど例の社宅は見つからない。航空写真に写っている社宅らしき場所まで歩いていったが大規模なスポーツ施設に建替えられている。しょうがない最後の手段だ、「いらかぐみ」の孫右衛門さんに電話し教えてもらうことにした。
「加古川橋を渡った橋の袂に立てば見つけられる位置にありますよ」という。そうか橋の近くにあったんだ。ところが、橋の袂の町を歩き回っても見つからない。もう時間が無い!諦めて加古川の土手の上にあるバス停でバスを持ちながら対岸を眺めていた。
「あっ、対岸にもニッケの工場があるぞ。孫さんは広島の人、橋を渡った橋の袂とは東側のことだったんだ
」。走って橋を渡るとあったあった。砂利道に板塀、木造の長屋そこは映画のセットにでも使われそうなほど、時間の止まった昭和の工業隆盛時代の社宅町そのままだった。
バスで加古川駅に戻り、余裕無く山陽本線新快速、梅田から阪急と乗り継いで伊丹空港に着いたのは、予約していた羽田行きの便の搭乗手続きギリギリの時間だった。
宮川(京都府京都市)
「いらかぐみ」の西山遊野さんが京都寺町通りのギャラリーで個展を開いた。そこへお邪魔する目的で京都を訪れたのだが、その前の1時間でどこか歩こう。四条河原町でバスを降りて鴨川を渡り、祇園に近い鴨川沿いの遊郭宮川町を歩く。一直線の宮川筋はきれいに舗装されていて両側に京格子の美しいお茶屋が並んでいた。
朝早いので観光客などいないが、和服を着た女性が何人も歩いている。彼女たちはみんな町並みの中ほどに建っている歌舞練場に向かっている。朝から稽古なのであろうか。宮川町の歌舞練場は町並みと対照的な近代的な建物であった。
蔦木(長野県富士見町)
2005年の夏も終わる9月下旬の連休。久しぶりに信州に行きたくなった。信州は集落町並みを始めた地。時折訪れては自分の原点を確かめたい。
山梨県白州町は町村合併で南アルプス市となっていた。旧白州町の南アルプス天然水とウイスキーをつくっているサントリー工場を家族で見学。工場というよりは森林のような自然豊かな工場であった。
甲州街道を下って長野県に入る。JR中央線で言えば信濃境駅にあたる県境の町、旧蔦木宿を歩く。国道20号線はバイパス化せずそのまま旧宿場町の中を走っていた。高原の宿場町はトラックの往来が激しい。排気ガスに汚された漆喰壁や板壁が痛々しい集落であった。

茅野(長野県茅野市)
茅野という町は何十回通り過ぎているだろう。しかし、町を歩いたことはこのかた一度も無い。常に通過してきた町である。
今回はここが目的地である。昨年の冬、特急あずさ号で松本を訪れた際、車窓から石屋根の民家を確認しており、一度歩きたいと願っていた。まず車で町中を軽く流すが目ぼしい石屋根が確認できない。代わりに妙な4階建ての蔵があったのでその辺りを歩いてみた。すると他にも3階以上の蔵が点在している。諏訪湖周辺は養蚕が盛んであったところ。この蔵は養蚕の専用施設であったようだ。兵庫県北部の八鹿周辺も養蚕が盛んで多層の蔵が見られる。養蚕業は地域ごとに独特な民家形態を生み出している。
湯川(長野県茅野市)
茅野市に見られるとされる鉄平石屋根の民家が市街地に見当たらない。ならば、農村に残っていないのだろうか。八ヶ岳の裾野に広がる農村を車で走りながら捜索する。主屋には一つも見られなかったが付属屋には見られた。かつては瓦より安価な屋根葺材であったであろうが、今やトタン葺きの方がコストも性能も優れているのであろう。全国的にも珍しいものだけに見られなくなるのが残念だ。
茅野から中信高原の大門峠を越えて佐久へ抜ける大門街道にある湯川集落を訪れる。湯川は旧宿場町というが宿場町の形態はもう残っていない。しかし、集落を歩くといろんな蔵が見られる。鏝絵の描かれた漆喰の蔵、鉄平石で葺かれた蔵、そして木材を交互にかみ合わせて積んだセイロウ造りの蔵がある。セイロウ造りの板蔵はこの地域にしかないものではないが、八ヶ岳周辺でよく見られたものだ。そういえば、このような木組みの蔵はスイスアルプス地方にも見られる形態である。国が違えど、同じく山国に似たような様式の蔵が見られるとは面白いものである。