南九州U 甑島〜西部 (2003.04.21〜22) 

甑島は東シナ海に浮かぶ列島で、串木野市沖40kmに位置し、北から上甑、中甑、下甑の3島からなる。上甑・中甑は橋でつながっており、湖沼が多く女性的な景観の島、下甑は断崖が多く男性的な景観の島といわれる。
甑列島は南西諸島や五島列島、天草諸島などと比べてマイナーである。甑を「こしき」と読める人も少ない。しかし甑列島は釣りのメッカとしては有名である。映画「釣りバカ日誌9」でも下甑の美しい手打集落が舞台になり、それを見て大いにひかれていた。佐賀県をやめて南九州にしたのも甑島に行きたかったからである。

串木野
鹿児島県西部にある水産・鉱業都市で、市街は五反田川下流域の沖積地と旧砂丘上に形成されている。市北部に三井串木野鉱山があり金・銀が採掘された。漁港はマグロを中心とする遠洋漁業の基地で、造船、水産加工業で発展した。甑島への連絡港でもある。
例によって下調べせずに、市内に町並みは無いかとぐるぐる廻る。旧街道沿いは×、漁港近くは×、この手の地方都市にしては珍しく無い。その変わり、妙なロータリー(西欧の近代都市にある交差点)があったり、大きな屋根のかかった交差点があったりする。もしやと今調べて分かったが戦災都市であった。
しかし、中心市街を歩いてみると段差が多く、かつての海岸線が住宅地の中に入り組んでおり、町並みに変化を与えていて面白い。

かつての海岸線を示す石垣が残っていた。上部の住宅は空き地になっていた。
 

住宅地の町並み。戦災を受けているので戦前の建物が極端に少ない。逆に言うと純度の高い戦後の町並みといえる。

戦前の町並みは、旧海岸線の段差の下に残っていた。戦災地図を見ると丘の上が焼かれており、段差の直下が焼け残ったようだ。

妙なロータリーに並ぶ、妙な大屋根のかかった交差点。なかなか美しい構造物であった。
 

上甑 里
串木野から甑島へは高速艇が2往復、フェリーが2往復しており、便によって各港の立ち寄る順番が異なる。朝一便は高速艇で、50分で上甑里に直行する。里
集落は上甑島の北側にあり、島(上甑島)と島(遠見山)とが沿岸流によって出来た砂洲で結ばれた「トンボロ地形」といわれる砂洲部分とその砂洲の付根部分からなり、両方の中間に里港がある。砂洲の付根部分は武家屋敷跡と呼ばれるところで、麓集落の石垣の町並みがみられる。知覧のように古い住宅はあまり見られないが、車対応による改変が必要とされないという島特有の理由によって、原形を色濃く残している。

手前が上甑島側、向こうに見えるのが遠見山で砂洲でつながっているトンボロ地形(函館の小さい版のようなもの)。眼下の町並みは麓集落。

武家屋敷跡と呼ばれる麓集落のメインストリート。
 

上甑 西之浜
砂洲部分は両側が海の平坦な集落で、西側を西之浜地区と呼ぶ。「日本の町並み」には「甑島のシノゴヤ」と題して、浜辺に並ぶ独立柱麦藁葺の小屋を紹介している。このように小屋を居宅から離した場所に、みんなでまとめて建てる事例は、長崎県対馬などでも見られ、防火上の理由と言われている。
しかし、西之浜には1軒もシノゴヤは残っていなかった。「日本の町並み」では、西之浜の緑地公園計画の中で復原され活かされる予定と書かれていたが、緑地公園は整備されていたもののシノゴヤは無くなってしまったようだ。
西之浜の集落は海からの風が強いため、海岸線の防砂林と石垣に守られており、海岸へ通じる通りは風が吹き抜けるため、通りに面する住宅は塀を軒先まで上げて建物と一体化するような作りになっている。

海岸線に直行する通り(手前)側は塀を軒下まで上げて隙間を無くしている。海岸線に並行する通り(右手)側は通常の塀の高さ。

西之浜へ通じる通り。この日も風が強かった。里集落の背後の山の山頂には、発電用の風車が1基建っていた。

海岸線から一皮入ったところの民家。旧武家屋敷跡でなくても敷地の周りには塀か石垣をめぐらす。

砂洲部分の背骨にあたる南北の通り。S字に曲がっている場所。道路線形なりに建物が削られているのが面白い。
 

下甑 手打
里を出たフェリーは中甑港(上甑島)、鹿島(下甑島)に立ち寄って長浜港(下甑島)に着いた。フェリーは手打港には入れないため、長浜港からは陸路で向かう。その前に長浜の集落を歩くこととした。長浜は長浜湾に面する斜面に立地する小規模の集落だった。さて、ここからバスで手打に向かおうとバス停の時刻を確認したが、事前に調べておいたバスの時刻にバスが無い事が発覚。役場のHPに載せている村営バスの時間が間違っているとはけしからんというか、観光に力が入っていないというか、いずれにしてもまいった。しょうがないので、島に数台しかないタクシーを呼んで、1時間待ってようやく手打に向かうことが出来た。
手打は大きな弓形の湾に面して弧状に集落が形成されている。湾は遠浅で船が着けないため、円弧の東端の砂洲状になっている浜地区の湾と反対側に手打港がある。そこにかつて「津口番所」があり、番所から円弧の真中あたりまでの約700mが武家屋敷跡(麓集落)である。円弧の残りの部分も集落はあり、円弧状の集落と背後の山との間は田園となっている。
自然の作り上げた地形と人間の作り上げた町並みのハーモニーはすばらしいの一言である。遠浅の海岸には海亀が産卵に来るという神秘性もある。夜、海辺を散歩したが、波の音と満点の星空は一生忘れられない。

釣掛崎灯台へ上る道から手打湾と手打集落を見下ろす。集落は手前の山に隠れて約2/3が見えている。右端の砂洲状の部分が浜地区で、向こう側が手打港である。

武家屋敷は海岸線に並行した円弧状の通りに面して両側に一皮づつ並んでいた。通りの一端は港の番所、もう一端は八幡神社の参道である。

武家屋敷跡の石垣は玉石垣が基本形である。

武家屋敷通りから離れた山際にも武家屋敷が見られる。写真は江口家で、映画「釣りバカ日誌9」で結婚式のシーンのロケに使われた。

武家屋敷の背後は青い海。

円弧の西半部分(西地区)の海辺の集落。防風防砂のため、開口の無い壁が並ぶ。

西地区の民家と手打湾。

浜地区の商店。島の場合、どこが何の店かみんな知っているので、商いを示す目立つ看板やコマーシャルが無い。旅の者にとってはどこが店がわからないし入りづらい。

防水のためと瓦が吹き飛ばないようにするため、タールで塗り固めている屋根。すべてではないが、何軒かに見られた。
 

入来
入来は古代から、入来地方の政治的中心地として、薩摩・大隈両国府間の要衝として特に重要視された場所で、麓集落が置かれた。
入来麓の武家屋敷は、南北に貫通する中之馬場(旧国道)とこれと東西に並行する道路の計3本の通りと、直行する通りによって整然とした敷地割りとなっている。石垣は丸い河原石を積んだもので、その上に生垣を設け、入口を立派な武家門で構えている。何ヶ所か見た麓集落の中でも、観光化されていない状態の中で非常に良く原形が残されている集落であった。


石垣は河原石の玉石を積み上げ、出入口の部分のみ切石で整えているケースが多い。

草葺屋根の門が保存されていた。

何件かの家で石蔵を備えていた。

集落の最奥にある武家屋敷。なぜか、ひときわ大きく石垣積上げ系の民家はちょっと離れた場所にある。

光と緑と石のコントラストが美しかった3階蔵。
 

出水
肥後から薩摩に通じる街道上の国境に位置する出水は、薩摩藩にとって重要な場所であり、藩内最大級の外城を形成した。平良川に沿って野町(町人居住の町場)を、高台に麓(郷士の居住する行政庁所在地)が整備された。野町は出水の中心市街となって変貌しているが、高台上の麓集落は古い面影を残している。最大級の麓集落は、武家戸数約1000戸の大部分をまとめて住まわせ、農商民との混住は許されなかったという。
出水の麓集落の特徴はその範囲の広さにある。丘の上にごっそりと、縦横いく筋にも武家屋敷が続いている空間は見事であった。


丘の起伏をならし、縦横に道を掘り下げ、河原の玉石を積んだ石垣で敷地を囲み、生垣が植えられた。

入り口は道路を挟んで正対しないように配置されている。
 

佐敷
出水を出て、熊本県に入り水俣の町を抜ける。水俣はいわゆる企業城下町で、工場で潤った一方公害問題も抱えてしまった町である。ちょうど夕刻の退社ラッシュの渋滞に巻き込まれ、ノロノロと走りながら水俣の町並みを除いてみたが、昭和の町並みが見られそうであった。水俣の市街を抜けると斬新な形態の建築が現れた。平成16年春に開業する九州新幹線の新水俣駅である。次回は九州新幹線に乗って、企業城下町水俣を訪れたいと思う。
さらに鹿児島街道を北上し芦北町に至る。佐敷駅付近の商店街を走ったが古い町並みはない。おかしいと思いきや、佐敷で分岐する人吉街道沿いの方に駅から離れたところに佐敷の町並みはあった。佐敷は、南北朝時代に城下町として、以後は交通・軍事の要衝の位置から宿場町・在郷町として発展した。町並みは城跡のある丘陵と佐敷川との間に形成されており、街道と直交する通りからは、一方に山頂に構えた城跡の石垣、一方に川が見える。古い建物としては、土蔵造りや洋風の商店が数棟残っていた。


旧人吉街道(薩摩往還)の町並み。

土蔵造りの町家が残っている。

見上げると町並み背後の丘陵の頂きに、城跡の石垣が見える。


洋風の商店、看板建築も見られる。