筑前紀行
 

今月も半年が過ぎもう6月、梅雨である。4月の福岡〜大分に引き続き九州を攻めようと思うが心移りが激しくなかなか計画が定まらない。当サイトのタイトルバックにもなっている崎津集落を含む天草諸島の集落を歩こうか、五島列島の天主堂と漁村を巡礼しようか、長崎西彼杵半島の石積みの民家や軍艦島も見たい、マイナーながら福岡と門司の間の町並みを歩こうか、などなど散々悩んだ。結局、梅雨なので雨に降られることを覚悟して自然系の集落は見送ることにし、単独で行くのは金が勿体無い山口県の周防灘エリアと福岡小倉間のエリアを組み合わせるという超地味〜な旅にすることにした。
それにしても今年の梅雨は空梅雨である。出かける土曜日の早朝も晴天でのスタートとなった。6:30羽田発の全日空に乗り、8:30にはレンタカーのハンドルを握っていた。
青柳(福岡県古賀市)
福岡空港から国道3号線バイパスを東へ進み、最初の訪問地青柳を目指す。旧唐津街道の宿場町である青柳は事前の下調べでは旧宿場町の要所を確定できずに来てしまった。まず、「青柳」という地名の集落を歩くがなんだか物足りない。これは違うなと直感し、次に青柳郵便局をカーナビで検索した集落を歩く。古い家は少ないが規則正しく並んでいる。そこが旧青柳宿であった。古い紹介本には「様々な屋根形態が見られる」と書かれていたが、くど造りの複雑な屋根の民家があったものの様々な屋根はすいぶん少なくなっていた。
津屋崎(福岡県福津市)
今日は青柳から徐々に東へ進む計画である。玄界灘にちょっぴり突き出た岬にある津屋崎を訪れる。
津屋崎は紹介されている文献やサイトで興味を引かれていた町である。岬の先端方向に向って走っていくと玄界灘を臨む海岸線に平行する微高地の尾根道に古い町並みがあった。途中にでっかい蔵が続いていて、その敷地の表側に立派な商家が構えていた。港からやってくる通りはこの商家に突き当たって鈎型に折れる。津屋崎は「津屋崎千軒」とうたわれるほど繁栄した港町。その歴史の蓄積は期待を裏切らなかった。
畦町(福岡県福津市)
また旧唐津街道の戻る。旧唐津街道は木屋瀬で長崎街道から分岐し福岡を経由して唐津を目指す江戸時代に整備された街道である。最初に訪れた青柳宿の次が畦町宿。「あぜまち」とはいかにも農村集落っぽい響きだが宿場町で、町並みは家々が街道に並ぶ姿であった。しかし、建物の間隔は開いていてゆったりとした配置である。おそらく主要な宿場町ではなく農業も兼ねた集落だったのだろう。そんな中にも杉玉の痕跡のある酒屋らしき建物もあった。魅かれたのは右画像の草葺屋根(トタンカバー)が建ち並ぶ町並みである。
原町(福岡県赤間市)
旧唐津街道を東へ進む。畦町の次の宿駅は赤間で、そこを目指して旧街道を丹念に辿っていたら途中にいい感じの集落が現れた。宿場町ではないがそれらしき佇まいである。車を置いて歩いてみると道の傍らに「唐津街道原町」のサインがある。古そうな看板が掲げられた商店や古美術店があったりしてちょっとした町並み保存地区の様相である。手を加えて演出している感もあるが民家や屋敷林は本物。小さな集落だがデータベースに加えることにした。こういう「プチ町並み」が見出されて大切にされることは大変うれしいことだと思う。古美術商の仕業かな?
赤間(福岡県赤間市)
赤間宿は地域の交通結節点で徒歩時代は現在からは想像が出来ないほど、とんでもなく賑わっていたらしい。「赤間へ行けば花嫁道具が全部そろう」といわれるほど様々な商店が集まっていたようだ。確かに筑前筑後名物の「居蔵造り」と呼ばれる漆喰壁と瓦屋根の重厚かつ鮮やかな白の町家が並んでいる。
その町並みの途中に8角形(?)断面の煉瓦煙突を上げた大きな造り酒屋があった。造り酒屋は何処でも町並みの主役である。地方であることと伝統的であることがコマーシャルになるため、あえて現代的な建物に建替える必要が無い。全国の造り酒屋さんは後継者問題があるようだが、これからもなんとかがんばってもらいたい。

芦屋(福岡県芦屋町)
また海岸線を目指す。今日のルートは海岸線と内陸部を行ったりきたりであるが、最短距離を結んだ結果だからしょうがない。芦屋は響灘に面する古い港町。現在は航空自衛隊基地があることで有名だが、その昔は江戸や上方、遠く蝦夷まで往来していた廻船問屋が居たそうだ。また、筑豊炭田からの石炭積出港としても栄えたようである。しかし、繁栄を極めた町ほど次の時代の潮流に乗り遅れるもので、鉄道敷設に反対して石炭積出港の座を若松に譲ってしまったという。こういう保守性が町並みが残る重要な要因なのだ。問題はその後で、保守的だった町ほど「変わらなきゃ」に弱い。せっかく良いものを守ってきたいい面があるのに、町おこしを契機に「変わらなきゃ」で大切なものを失ってしまう危険性もある。
戸畑(福岡県北九州市)
さて、ここから今回の地味な旅のメインが始まる。町並み本では決して紹介されない歴史的工業地帯。工場地帯には多くの労働者がいた。であれば必ず歓楽街があるはずで、北九州市の工場地帯の色町跡は大変興味深い。
まずは八幡の町を探索する。八幡は戦災に遭っているので戦災地図により焼け残っていると思われるエリアを集中的に探ってみた。しかし、一、二棟は古い民家が見られるもののいい町並みは見出せなかった。八幡は大きな町なので、じっくり捜索すればなにか発見があるはず。いつかまた訪れたい。

八幡製鉄所跡地のスペースワールドを横目に戸畑の町へ向う。戸畑は明治中期以降、わが国の鉄鋼需要を請け負ってきた官営八幡製鉄所(後の新日本製鉄八幡工場)の周りに関連企業が集まったことによって形成された町である。無味乾燥とした戸畑駅の海側には戦後形成されたカフェー街がある。現在はただの住宅街だが、モザイクタイルに彩られた建物達が証人だ。こういうかつての色町は住人の方々へ気を使いながら歩かなければならないので疲れる。

さらに洞海湾の対岸に位置する若松も歩いてみた。日本一の石炭積出港で戦災に遭っていないためかなり期待して探し回ったが良い町並みは見つからなかった。元色町の辺りも面影は残っていなかった。ここも八幡同様、じっくり向わないと良さが伝わってこない町なのだろう。だが筑前紀行は今日一日しかないので先を急ごう。
門司錦町(福岡県北九州市)
今日最後の訪問地はやっとメジャーな場所、門司港である。門司港は「門司港レトロ」の町おこしで港がきれいに整備された。整備前と後にも訪れたことがある。今回の目的は港以外の門司の町を歩くことにある。
門司では、日清戦争の翌年に町の北辺筆立山の下に馬場遊郭が作られた。その場所を最初に訪れてみたが面影は殆ど残っていなかった。馬場遊郭跡から東本町を巡りながら南下していく。戦災で焼けた町には所々に近代建築や黒漆喰の町家が残されていた。
そして、南辺の三角山の下の錦町を歩く。錦町には戦後流行った新町遊郭と呼ばれる赤線跡があって木造3階建ての和風建築やモザイクタイルによるカフェー調の建物が並んでいる場所があった。門司の隠れた場所を楽しんで歩いていると観光客の女の子2人を乗せた人力車が新町遊郭へ入っていった。今や全国の歴史的な観光地に出現している人力車軍団。このような裏町まで観光ネタにしてしまうとは、恐るべし人力車軍団である。
門司港(福岡県北九州市)
門司港といえば数々の思い出がある。学生時代九州島内を旅行するときは決まって「九州ワイド周遊券」を利用し、乗り放題の夜行列車で寝泊りすることで宿代を節約していた。今日は北九州、明日は西九州、明後日はまた北九州、明々後日は南九州ってな調子で周遊券の有効期限ギリギリまで旅をしていた。そんな旅では夜行列車の席を確保するために始発駅から乗車する。結果として旅の中で何度も門司港駅に降りることになる。門司港駅では夜行列車が出発する時刻まで暇つぶしに町を歩いた。だから、記憶の中の門司の町は夜景ばかりが刻み込まれている。
しかし現在の門司港の町はあの頃の姿ではない。きれいに整備され訪れる人々が増えることは望ましいことだが、かつての「九州の玄関口 ここから九州がはじまっているんだ」という緊張感みたいなものがなくなってしまったような気がする。でもそれは町に内在されていたものではなく、町に対する自分の記憶の中に存在していたものなのであろう。こうして昔訪れた場所を再訪するのは新しい発見があって面白いのだが、当時の新鮮な印象が書き換えられていくようでちょっと寂しい。そんなことを考えながら回転寿司をたらふく食べているうちに筑前紀行の長い日が暮れた。

整備前の門司港駅前ロータリー
周防長門紀行へつづく