LAST 遊里を歩く IN沖縄

このサイトの最初の印象記が新宿歌舞伎町でした。そのころは、遊里テーマの探訪も始めたばかり。見方も歩き方もわかっていなかった。あれから7年、実にたくさんの遊里を歩きました。遊里探訪の面白さは、第一に苦労して見つけるところ、第二にその独特な町並みの形態に出会えるところです。知れば知るほど興味は尽きません。でも、当サイトは遊里探訪専門のサイトではない。まだまだ行っていない場所は山ほどありますが、このまま続けると遊里探訪だけで一生が終わってしまいます。つらいけど、ここで一旦ピリオドを打ちたいと思います。

遊里を歩くシリーズ最後の旅は沖縄です。そしてこれが次なるテーマ海界(うなさか)の村を歩く最初の旅でもあります。今回、まず遊里巡りを終えてから島に渡る予定でしたが、天候が後半崩れるというので、前日に急きょ予定を変更しました。島で雨に降られては台無しになる。先に渡名喜島を歩いてから本島の遊里を攻めることにしました。2010年1月8日金曜日夜、西へ旅立ちます。
 
金曜日18:30。会社の仕事を終わってから沖縄に行くことができるのですから東京というのはどこへ行くにも便利な場所です。偏西風の強い冬、東京→那覇は実に3時間かかり、23:30に那覇のホテルに着きました。
これから晩飯のために一人で街へ繰り出すのも面倒なので、ホテル1階のレストランで簡単に食事をとることにしました。沖縄といえば
オリオンビールグビッと飲んで豆腐チャンプルーをつまむ。明日に備えて今晩は早く寝よう。

 

那覇市内のビジネスホテルレストランにて
那覇 前島

那覇泊港の近くのホテルを選びました。それは島に渡る船に乗りやすいからではなく、泊港のそばにある遊里を朝一番で歩くためでした。なぜなら前島3丁目は現役の風俗街なので営業時間を避けなければならない。
朝一番が鉄則です。
ホテルの前の潮渡川を渡り、前島3丁目に入ります。スナックがポツポツと現れてきた。ほとんどが沖縄らしく鉄筋コンクリート造の町家。そんな中に木造の民家があって、そこから
キーキーとした鳥の大きな鳴き声がして街に響き渡っています。南国に居るんだなぁと実感。歩を進めていくとスナックやーバーの看板がズラッと並ぶ通りが現れました。こういう看板の町並みは沖縄だけではなく内地でも見られますが、実はここ沖縄では現役の風俗店。いわゆる戦後の青がそのまま続いている街のようでした。



中でも窓の無い壁にタイルで縁取られたアーチの入口をつけた「サロンチェリー」という建物がかわいい!。この街、
夜はどんなことになってるのでしょうか。
 


前島3丁目の木造家屋

前島3丁目の特殊飲食店街

前島3丁目の特殊飲食店街
さて、ここから渡名喜島へ渡るのですが、それは後篇BEGIN海界の村でレポするとして、島から戻ったところから沖縄の遊里探訪を続けましょう。
那覇泊港 渡名喜島・久米島航路のフェリー
前島の南、国道58号線の西側にあたる松山町界隈は那覇市内の社交街の一つ。そこを抜けて松山公園の丘を横切って旧辻遊郭を目指します。
那覇の高級住宅地といわれる久米町で一風変わったカレー店カフェ沖縄式を発見。靴を脱いで上がると黒い木で統一されたインテリアで、メニューには数種の個性的なカレーが。私は、アグーカレーという豚肉のカレーライスをいただきました。まろやかでおいしかった。
 

久米町 カフェ沖縄式のアグーカレー
那覇 旧辻遊郭

これは全国的に共通することですが、
高級住宅地の近くに遊郭のある場合がなぜか多い。旧辻遊郭も久米町のすぐ隣町です。
上之蔵通りに面した大きな料亭那覇のところから町に入っていきます。明治41年に開かれた辻遊郭は、市内3カ所あったものを統合する形で誕生しました。『全国遊郭案内』(昭和5年 日本遊覧社刊によれば、妓楼は13軒、120人の娼妓と記載されているものの、別の資料からは300軒あったとも言われています。昭和19年10月10日の大空襲で那覇市内は焼け野原になり、辻遊郭も姿を消しました。戦後はバーや料亭が密集する女性街として再建されたといいますが、
現在は泡国街の中に料亭が点在する街へと変貌しています。
街を歩いてみると、戦災により当然戦前の建物は無く、泡国にしても料亭にしてもほとんどが鉄筋コンクリート造陸屋根で、ところどころに赤瓦屋根も散見されました。



泡国街は営業時間帯に入っているので
、大っぴらには取材できません。もしお客さんが出てくるところを写真に撮ってしまって見つかったりしたら、業界のおっかない人に捕まってしまいます。泡国街ではたくさん声をかけられながら緊張して通過します。泡国が途切れると大きな赤瓦の建物が現れました。これは、「左馬」という料亭の建物で、現在営業はしていないようでした。
 


辻 上之蔵通りに面する料亭那覇

辻 赤瓦の木造家屋と視線の先に料亭ことぶき

辻 料亭左馬 閉鎖されていた
那覇 桜坂社交街

那覇一の繁華街国際通りの牧志界隈。終戦後ちいさな闇市からはじまって発展した牧志公設市場とその周囲に密集した小売店群は、通りから路地に至るまで半屋内化された那覇一の商業ゾーンとなっています。市場本通りを進み牧志公設市場を過ぎるとアーケードは二股で分かれます。



左を選択してやや進んだところでさらに左に曲がると桜坂。坂を上り桜坂劇場の前を下ると、
工事中の都市計画道路に面した怪しげな建物群が現れた。そこから奥の一帯が桜坂社交街です。かつては沖縄を代表する社交街でしたが、現在はかなり寂れているようです。赤瓦をのせた木造家屋をモルタル系の外装で包み、スナックなどのネオン看板が出ています。建物の間を入っていくと高低差があり曲がりくねった路地で、そこにも店が張り付いている



路地を抜けて振り返ると赤瓦が見えたりする。この街は、複雑な地形の上に次第に拡大していったのでしょう。それが結果的に迷路のような街の魅力になっています。完全に方向感覚を失いって適当に歩いているうちに、3年前に歩いた一角に出ました。
「そうかあの時、遊里ぽいなぁと感じたこの町は社交街だったんだ」
町は何度訪れても発見があるものです。坂を下ると焼き物の町壺屋に出ました。



桜坂トップにある桜坂劇場

桜坂社交街 ライブハウス桜坂セントラル

桜坂社交街 施工中の都市計画道路に面する町並み

桜坂社交街 複雑な路地に入り振り返ったら赤瓦が
那覇 神里原社交街

現在観光客が行き交う壺屋は、戦後米軍に接収されていた那覇市内で最初に解除された場所。壺屋やむちん通りの隣にあたる神里原通りには、かつて百貨店や映画館が建ち並んで戦後那覇の最初の商業中心街を形成したといわれています。1950年代後半に国際通りに商業中心が移り衰退していったようです。現在の神里通りは、これがかつての中心商業地?と思うような寂れた商店街の町並みでした。商店の建物は残っているものの空き地が多く建物が連続していないからでしょう。通りを南へ進んでいくと2階建ての長屋形式の商店が建ち並んでいます。この建物群はもう一皮あって裏路地がある。ここは、小さな飲食店が集まった歓楽街でした。



この建物群に対して神里原通りの反対側にも夜の飲食店は集まっていました。物販商業は廃れても夜の飲食店は存続しているといういい例です。

神里原通りの商店 赤瓦の木造家屋

神里原通りの長屋群 路地にはスナックが密集

神里原通り西側一帯の夜の飲食店街

最終日は沖縄本島中部の遊里を訪ねます。6:00amですが日の出の遅い沖縄ですので真っ暗です。沖縄市コザと金武町とどちらを先に片付けようか。金武町の方が那覇から遠いということで先にしました。
遠いといっても高速道路があるので那覇市内から1時間もかかりません。インターチェンジを下りて国道329号線を朝陽を浴びながら北上します。ところが、早朝なのに観光ルートでもないのに渋滞している。
何と渋滞は米軍基地キャンプハンセンへ向かう関係者の車によるものでした。

金武町の60%にあたるキャンプ・ハンセンは、県内最大規模の実弾射撃演習が実施されている米軍基地。門前の新開地には米兵を相手につくられた女性街があります。アメリカと日本の両国旗が掲げられたゲート前からまっすぐ伸びる「フレンドシップ通り」を歩いて行くと左手に壁を鮮やかなブルーに塗られた社交クラブハワイ、突き当たりにロック&ダンスホールのシャングリラがありました。この通りを中心軸にした全長約500mが社交街となっています。英語や派手な壁画で飾られた看板建築が並んだ独特の町並み景観です。



金武新開地は、沖縄のレストランで名物とされているタコライス発祥の地でもあります。タコライスは中米で生まれて米軍経由で沖縄に入ってきたタコスをアレンジした料理です。

金武新開地 キャンプハンセンと新開地のゲート

金武新開地 社交クラブハワイ

金武新開地 派手な壁画の町並み

金武新開地 東京という名のホテル
コザ 吉原

さあ、いよいよ沖縄県内最大!
嘉手納基地の門前町に形成された遊里を歩きます。たっぷり4時間半確保してるので迷っても取りこぼすことはないはずです!

コザという地名は、かつての越中村胡屋(こや)をアメリカ軍が誤ってよび、胡差の当て字を使用したことに由来しています。第二次世界大戦前は人口八千人の一寒村でしたが、戦後アメリカ軍基地が市域の大部分を占め人口が集中しました。コザは基地依存型の消費都市で、第三次産業が80%を占めます。巨大な嘉手納基地に場所的にも経済的にも寄り添って急速に形成された街は広く、国道330号線と基地ゲートから延びる空港通りとの交差点である
胡屋十字路、国道329号線との交差点であるコザ十字路という二ヶ所を街の座標軸原点として捉えることができます。

コザ十字路から国道329号線を下って一つ目の信号が吉原入口。吉原とは地名ではなく、美里1丁目の丘の上につくられた
白人兵を対象とした特飲街だったところの通称で、東京の吉原にあやかったといわれています。吉原はやがて対象を変え現在のような沖縄人相手の現役風俗街へと発展しました。



100円パークにレンタカーを置いて町を歩きます。ここでは鉄筋コンクリートの建物とともに沖縄らしい寄棟屋根の木造民家が多く、1階周りを風俗店に設えて軒を連ねています。しばらくすると街の様子が変わってきました。店先に女性が座るようになり、撮影がしづらくなってきたのです。ちょうど時計は午前10時を回っている。
「そうか、営業が始まったんだ。知っていたら金武ではなく吉原を先に取材するんだった。」
やむなし、これ以上歩いての写真撮影は危険です。クルマで走りながらの撮影。クルマの中からカメラを向けると店の前に座っている女性は皆顔をそむけます。

    

吉原(美里1丁目) 木造家屋の店が多い

吉原(美里1丁目) 木造家屋の店が多い

吉原(美里1丁目) 特殊飲食店が軒を連ねる

吉原(美里1丁目) 街は丘の上にある
コザ 旧照屋黒人街

コザ十字路の南西エリアは照屋という町。国道330号線から
「銀天街」という寂れたアーケード街が始まっています。また、アーケードから国道329号線に向かっても路地状の商店街が形成されていて、古い鉄筋コンクリート造の町家の並ぶ風景に萌えました



アーケードが無くなっても商店街は続いていて、遊里は奥の方にあったようです。戦後、米軍の白人と黒人との対立を背景に「照屋黒人街」と呼ばれる黒人だけのための特飲街が成立しました。照屋黒人街となった後、白人を相手にしていた照屋の業者は町を離れ、美里1丁目の丘に白人相手の新らしい特飲街を建設しました。それが吉原でした。

照屋黒人街の場所を突き止めるのにはやや苦労をしました。アーケード街のそばにはなかったからです。付近をしつこく歩いているとちょっと大きな鉄筋コンクリート造の建物が集まっている場所があった。そして、ホテルプリンスと書かれた建物が残っていた。また、アーケードから延びてきている商店街の終点付近にスナックが現れた。旧照屋黒人街はおそらくこの辺りであろうと確信しました


銀天街から国道329号線へ延びる商店街

照屋黒人街エリアの一部と思われる旧ホテル

商店街の終点には夜の飲食店があった
コザ 旧八重島特飲街

八重島は嘉手納基地には近いもののコザの商業地からは大きく離れた場所です。米兵による婦女暴行事件が多発した事件を背景に、1950年コザの住民から離れた場所につくられた新しい特飲街で、1053年にかけて130軒のバーやクラブが建設されたそうです。

真冬とは思えない沖縄の日差しの中、旧八重島特飲街を歩きます。往時の面影を残す建物は数軒ありましたが、中でも看板ごと残っている社交クラブの建物が目立っていました



その他の建物はサインが薄れていて読めません。それにしてもこんな離れた場所によくもつくったもんだと思います。現在は静かな住宅地です。
 

八重島 静かな住宅地に場違いな看板建築が

八重島 CLUB Waltyの看板が残る建物
コザ 諸見百軒通り

コザ交差点から国道330号線を西へ1.5km移動し、今度は胡屋交差点周辺の遊里を歩きます。今回の情報は「古今東西風俗散歩」さんのブログを参考にさせてもらいました。私のような印象だけを適当に書きつづっているものではなく、文献資料をもとにきめ細かく町を紹介しているブログです。
胡屋交差点近くに最近完成した「コザミュージックタウン」にクルマを止めて腹ごしらえをし、最後の町を攻めます。しかし、このブログで紹介されている、
「パラダイス通り」「諸見百軒通り」という旧特飲街がどうしても見つかりません。携帯電話で他のサイトをチェックしても絞りきれません。胡屋交差点や中の町社交街の辺りを隈なく歩いたのに・・・。こんな遠くまで来てやり過ごすわけにはいかない。
「諸見という地名の場所が西方にあるからそこかも知れない」
と胡屋交差点から離れ国道330号線をさらに西へ行ってみたら・・・あった!こんなところだったのか!国道330号線から分岐した
旧道のような道にスナックやバーがずらーっと並んでいるではありませんか。そして、諸見百軒通りの看板も発見、間違いない。ん〜でも、同ブログで紹介されていた「CLUB DAIYA」がない。諸見百軒通りの看板のあった分岐点辺りから脇の坂道を下りてみた。そうしたら・・・そこがパラダイス通りだった。すごい!遊里探しは苦労して見つかった時が一番感動がでかいのです。




苦労して見つけた諸見百軒通りへの分岐点

諸見百軒通りのスナック・バーの町並み

パラダイス通りはこんな場所だったのか
コザ 中の町社交街

吉原、照屋、八重島、諸見百軒通り、パラダイス通りと押さえて気を良くして最後の詰めにかかります。
ワイキキ通りは何処に?
ワイキキ通りは中央アベニューの近くにあるとか。中央アベニューは、胡屋交差点から国道330号線をコザ交差点方向に500mほど行ったところから基地へ向かっている白人町の商店街です。表通りが物販商店街であれば飲食店街は裏通りにありそうでだ。ということで、裏を一つずつつぶしていきます。
中央アベニューの突き当たりにある大型商業施設コリンザ前から中央アベニューに対して斜めに伸びる通りがある。その先にブログで紹介されていた白い瓦屋根の民家がありました。
おお、ここがワイキキ通りですか?肩すかしをくらったようだ。

気を取り直して、胡屋交差点に戻って、最後に中の町社交街のゲートを撮影して社交街のセンターロードを流しました。ここが遊里を歩く最終地、
名残惜しいけどもうそろそろ空港に向かわないと時間が危ない


ワイキキ通り 本当にここだったのかなぁ?

現役の中の町社交街が「遊里を歩く」LastTownに
16:50発東京行きの出発を待つ那覇空港ターミナルの待合室。

2年前に「全国各県50%」を達成したのも沖縄県コザでしたが
、「遊里を歩く」の最後もコザでした。何の因果でしょうか。シリーズが終わるときは達成感があるものですが、今回は途中でピリオドを打つ感じで寂しさだけが残ります。



沖縄から帰った2週間後。偶然にも仕事で那覇に行くことになりました。松山社交街の中にあるビジネスホテルに泊ったので、前島3丁目が営業時間帯にどうなっているか見に行ってみました。そうしたらコザ吉原で見たのと同様、各店の前に厚化粧のオバサンやオバアサンが座っていて、通りかかるとしつこく寄ってくる。いやはやおぞましかった〜。

「遊里を歩く」を楽しみにご覧いただいていた方々には残念だと思いますが、これにてピリオドです。 これからも「企業城下町を歩く」「戦災の無い町を歩く」などで都市探訪は続きます。栄えた都市には必ず遊里はあります。主題ではありませんが、遊里探訪は今後も続くでしょう。またどこかの遊里でお会いしましょう。


長い間、ありがとうございました。

那覇空港にて

那覇桜坂社交街を再訪 桜坂セントラル