上州まゆ玉紀行

私の娘の名は「まゆ」という。まだ子供が生まれていない頃、夫婦で北群馬の集落を巡ったときのことである。あの頃の家内は、集落めぐりにも文句を言わずに付いてきてくれていた。養蚕集落地帯を走るクルマの中で、女の子ができたら「まゆ」と名付けようと決めた。そのきっかけは養蚕の「繭」に由来している。実際、女の子が生まれて名付ける時にはさすがに漢字の中に「虫」の字が入っている「繭」という字には抵抗があり、結局当て字の「麻友」とした。
あれから十数年が経ち、麻友も小学校6年生である。2007年のGW、家内と娘を乗せたエルグランドは東京目黒を早朝4:00に発った。渋滞を避け5時には関越道に乗っていたいのと、集落探訪は午前中だけと娘から時間を切られているからである。自分の名前の由来になった北群馬の養蚕集落を巡るというのに、娘本人は集落など関係ないという態度である。
北牧(群馬県渋川市)
朝7:00前に渋川市北牧に到着してしまった。さすがに4:00am台の関越道はGWといえども混んではいなかった。
高崎で中山道から分岐し越後へ通じる旧三国街道沿いの集落町並みは、数年前に一通りやっているが、今回は落穂拾いである。旧三国街道は現在の国道17号線から離れたルートをとっている場所が多いが、北牧宿も川の反対側と離れている。
町並み紹介本にあったので期待して訪れたが、反してあまり残っていない。それでもでっかい出梁(出桁)せがい造りの民家があって、上州に来たんだなぁと実感することができた。
中山(群馬県高山村)
北牧宿から何も残っていない横堀宿を経て高山村中山の新田宿に向かう。このあたりは高原のように見晴らしが良く交通量も少ないのどかな風景だ。実は地下を上越新幹線がほぼ並行して貫いているのである。
中山には以前から町並みがありそうだと目を付けて気になっていた集落。残念ながら軒を連ねるよな町並みではないが、立派なせがい造りの民家も残っており、好印象の町並みだった。まだ、8:00amである。
箕輪(群馬県みなかみ町)
旧三国街道の宿場町を以前歩いたとき、旧新治村の行政中心だった布施宿も歩いている。しかし、役場の直ぐ裏側にこんな素晴らしい養蚕集落が残っていたとは驚きである。
群馬には有名な官営富岡製糸場があり、特に明治以降の養蚕は県内全域で盛んだった。箕輪集落は明治期から本格的に養蚕を行い、何と昭和60年頃まで続いていたという。極力、蚕室の面積を稼ごうとした結果、養蚕農家は2階では足りず3階を増築するようになる。床も極力広くするためなのか、出梁せがい造りといって1階より2階の壁面を外に出す形態となる。そんな多層の養蚕民家が純度高く群をなしているという点で、箕輪の集落景観は迫力がある。
しかしだ、集落内を巡ってみるといろんな空地にクルマがたくさん捨てられている。これは住人が古いマイカーを自分の土地の傍らに捨てたものであろうか。このことは、集落の素晴らしさとは裏腹に非常に嘆かわしいと思わざるを得ない。
永井(群馬県みなかみ町)
旧三国街道をどんどん北上する。猿ヶ京温泉を過ぎ、いよいよ峠越えとなるところに関東地方最後の宿場町永井宿がある。前回、旧三国街道の宿場町を歩いたとき日が暮れてしまって歩けなかった集落である。
朝の宿場町は気持ちよく、家族も一緒に歩いてくれた。集落の越後側の端部に3棟の旧旅籠建築が残っていて辛うじて町並みを形成していた。そのうち一軒の和泉屋の2階バルコニーの持ち送りや軒下の意匠のしつこいことしつこいこと。米問屋場として越後米の取引がされ賑わっていたというが、そのことが窺い知ることができる町並みだった。
須川宿まで戻って旧三国街道とは別れ、県道中之条湯河原線を中之条町へ向かう。沿道には養蚕民家がたくさん残っている。関西で養蚕の盛んだった但馬地方を走っている感覚とかぶるような景色である。
大道峠を越えて中之条町へ入ると重要文化財富沢家住宅の看板が現れた。保存民家はすっ飛ばす私だが、なぜかこの家だけは見ておこうと立ち寄ってみた。するとその民家、「日本の美術 民家と町並 関東・中部」の表紙を飾っていた民家ではないか!せがい造りの養蚕民家の原型となる建築で、意匠的にも素晴らしい民家である。家族全員、感動ものであった。
赤岩(群馬県六合村)
中之条町から日本ロマンチック街道と名付けられた県道を走り六合村へ移動する。草津温泉の冬住の集落小雨から国道292号線に入る。ここでカーナビのせいで赤岩集落を探す過程で迷ってしまった。
赤岩は、その存在を知らなかった状況で重伝建選定されたと知った集落で、今回のメインである。箕輪同様、3階建ての養蚕民家が多く残っている集落であるが、ビックリしたのは幕末に高野長英が隠れ住んだという湯本家住宅。座敷蔵のような形態でいままであまり見たことがない民家である。似ているといえば、兵庫県但馬地方に見られる三階建て養産民家であろう。
集落内ではミツバチが飛びまくっている。蜂を怖がる娘は蜂を見つけては逃げ回っている。集落内にはもう一つ迫力の養蚕民家が残っていた。それは蚕室確保のため、出梁せがい造りの2階建てを3階建てに改造したもので、飛び出した2階の上にさらに3階が飛び出している。下から見上げると迫力満点である。
大笹(群馬県嬬恋村)
ここで午前中の集落めぐりは打ち切られた。北軽井沢の別荘地帯の中にあるレストランで高いが旨くも無いカレーを食べ、約束のパターゴルフをやる。家内が具合が悪いというのでクルマの中に残し、娘と二人指しの勝負!。娘はディズニーランドを賭けて真剣だ。結果、ギリギリ私が勝ったのだが、娘に泣かれて結局ディスニーランドに連れて行く約束をさせられた。
その代わりにと娘を納得させ、これから嬬恋村の2つの宿場町を歩く。
鎌原(群馬県嬬恋村)
大笹、鎌原は群馬県高崎市から長野県須坂市に向かう北国街道の脇往還である信州街道の宿場町という。しかし、どう考えても鎌原宿の位置がルートから外れているように思えてならない。後から調べてみたら、信州街道は東吾妻町〜嬬恋村間の一部が現在の道路から外れていたのだった。
浅間山の裾野に立地する宿場町。どうしても宿場町と高原というのはイメージがつながらない。
大戸(群馬県東吾妻町)
さて、そろそろ帰宅しなければならない。今日はGWの中日である。一般的なルートで帰っては大渋滞に巻き込まれだけだ。というわけで、長野原から須賀尾峠を越えて、マイナーな国道406号線で高崎まで戻るルートを選択した。この道は大笹宿や鎌原宿を通る信州街道で、途中に本宿、大戸宿を通るため日が暮れなければ歩くことが出来る。ガラガラの国道を3桁のスピードで飛ばして何とか日没に間に合った。ここは、サイト「一路一会」で紹介されていた町並み。夕暮れの鈍い光に照らされた家並みとバックの山が印象に残る町並みだった。

日帰りで巡った北群馬の養蚕集落の旅。帰りも渋滞を交わしつつ抜け道を駆使し、家に着いたのは夜11時だった。家族は後部座席で熟睡していた。