出雲石見橙紀行

長州橙紀行から2週間後の金曜日夜、仕事をなんとか定時で切り上げ東京駅18:13発の新幹線に間に合った。今日は岡山で伯備線の特急やくも号に乗り換え、島根県の松江までたどり着かなければならない。交通の発達は、かつては考えられなかったような厳しい旅程をも可能にしてくれる。そうなると会社を休んでまで旅に出る必要が無くなり、有給休暇は消化できなくなる。皮肉なものだ。とはいえ出来れば飛行機にしたかったのだが切符がとれなかった。今晩は西日本の天候が荒れており飛行機が欠航している。結果的に新幹線にして正解だったわけである。
東京から3時間半で岡山着。ここから松江までまだ2時間半かかる。伯備線は備中高梁までは快適だが、そこから右に左にと蛇行しながら中国山地を越えてゆく。松江に到着したのが日付が変わって0:16。お尻が痛い。
松江(島根県松江市)
僅かな睡眠をとり、松江駅近くのビジネスホテルを出ると、ホテルの前は松江の旧遊廓であった。ここは最後に歩くこととし大橋川を渡って東本町から歩く。整然と区画された町は城下町が基盤になっていると思われるが、大きな隅切りもあり近代以降に整備された痕跡がある。戦前だが昭和初期と思われる背の高い町家やモダンなデザインの洋風町家も見られた。
さらに西へ歩き、末次本町へゆく。この町にある料亭旅館の皆美館は10年前に泊まったことがある。料金は高かったが、宍道湖七珍の料理は素晴らしいもので、朝食の鯛茶も良かった。そんなことを思い出しながら町を巡り、再び大橋川を渡り旧遊廓である和多美町、伊勢宮町へ。現代の飲食店の間に古そうな建物も数軒見ることができた。
伯太(島根県安来市)
松江駅前で車を借りて東を目指す。旧伯太町母里は近世松平氏の陣屋が置かれていた町。今ではひっそりとした農村の中の町といった風情で、赤瓦の町並みである。
見所といえる古い民家が並んでいる通りに新しい公共施設が建っている。軒の高さをそろえた赤瓦の屋根で、デザインは全く伝統的なものではないのだが、既成の町並みとマッチしている。こういう新旧の調和というのは気持ちが良い。
表通りから裏に入ると道の傍らで水が勢いよく流れていた。
広瀬(島根県松江市)
広瀬町は戦国時代尼子氏の本拠であった冨田城があった場所であり、近世は松江支藩の城下町であった。町は幾度と無く災害にあっているが、一部に古い伝統的な町並みを見ることができた。中でも吉田酒蔵の廻りと南端付近の町並みが見所である。
簸川平野(島根県斐川町)
ちょうど10年前の1996年に簸川平野を訪れた。防風林としの役割を果たす築地松の風景は年々減っていると聞いているが、この10年ではさほど変わっていないようだ。しかし、中に建つ民家は草葺屋根の多くが姿を消したように思う。
散居村というのはどうも焦点が定まらない。平野全体を全て走るのは無理だし、たまたま走って見つけた風景を紹介するしかない。
平田(島根県平田市)
平田は1996年に訪れたときは、古い町並みがある場所が分からなかった。今回はリベンジ探訪である。
車を置いて案内に従って町に入っていくと別世界の空間。よくもここまで残っているものだと感心させられるほどだ。250m程度の短いL字形の通りなのだが、非常に濃い町並みである。今では観光客も訪れて賑わっているが、10年前に訪れていればもっと感動したであろう。
町を出て川を渡ると、さっき見た商家の裏面が川に接しており、ここも素晴らしい集落景観となっている。
小伊津(島根県平田市)
小伊津は中国地方を拠点に歩いている「いらかぐみ」孫右衛門さんが見つけた密集型漁村だ。
平田から田園地帯を走りトンネルを抜けると高い位置から日本海が見えた。その下には赤黒の屋根が混在し不規則に密集している小伊津集落がある。細い道を対向車を気にしながら港まで降り、車を停める。防波堤からまず集落全体を眺めてから中に入っていく。新しいテレビゲームをやる時の興奮に似たこの感覚は久しぶりである。小伊津集落は比較的新しいように思えた。それは擁壁がコンクリートで造られている場所が多く、地形に対しての無理やり度が激しいためである。結果的に非常に面白い集落空間になっているといえよう。一例だが、5階建ての集合住宅があり5階で丘の上の集落と接続している。
鵜峠(島根県出雲市)
このあたりの日本海の海岸線はリアス式で地形は険しい。漁村集落は所々の入江状の地形のところに形成されている。1996年に訪れたときには猪目集落を歩いた。今回はその隣の鵜峠と鷺浦集落を歩く。
鵜峠(うど)は十六島湾に臨む小さな漁村集落であるが、その割には比較的立派な民家の割合が高い。不思議に思いながらその内の一軒を撮影していたら2階に居たご老人から「中に入っておいで」と声がかかった。部屋に上がり小屋裏を眺めながらお話を伺った。この町はかつては北前船の寄港地であり、たたら製鉄も行っていたという。この家も北前船に関係した家柄だったようである。
鷺浦(島根県出雲市)
鵜峠集落から鵜峠を越えると鷺浦集落である。ここも北前船の寄港地だった。弓なりの海岸線に妻面を並べ、家と家の間に通りと港とを結ぶ路地を確保した規則正しい形態は、明らかにある時期に計画されたものであろう。
各家屋の海に面するファサードは板壁か木柵であり、冬期の風雪に備えている。いかにも日本海岸らしい漁村集落の景観である。集落内の通りを歩くと単なる漁村とは思えないような民家が残っていた。さすが北前船の港町である。
大社(島根県出雲市)
日御崎近くの集落をチェックしてから出雲大社前の町に向かう。日御崎近くには目ぼしい集落は見つからなかった。
出雲大社は伊勢神宮ともに日本を代表する神社である。しかし、出雲大社はいきなり拝殿となるため伊勢神宮のようなアプローチの厳かさが感じられない。それは門前町にもいえることで、伊勢神宮の門前町のように風情のある町並みが続いてはいない。それは鉄道が敷かれて旧道沿いの町並みが廃れたからだという。一畑電鉄出雲大社駅前の参道の町並み、旧JR大社線大社駅、出雲蕎麦の店が並ぶ町並みを取材した。
出雲大津(島根県出雲市)
大社町で町並みを捜索していたら予定以上に時間を食ってしまった。出雲市周辺の道路は混雑しておりなかなか市街にたどり着けない。大津町に着いた時はすでに日没後であった。
大津町は出雲市駅からかなり離れている。斐伊川を渡って西へ進む旧山陰道に沿って町並みが直線的に形成されている。
町の端部に車を停めて急いで取材開始。旧本陣など撮影しながら東端で折り返した時点で撮影続行不可能の暗さになった。この町並みの印象はとっても寂しいものになってしまった。
今日は島根県の東端から西進しながらの探訪であった。今晩は一気に島根県の西部の浜田まで走り、明日は浜田から東進しながらの探訪となる。浜田のホテルに着いたのは21:30。ホテル近くの居酒屋に入り、一人で地酒を飲む。地元の居酒屋で一人地酒をあおるという癖がついた記念すべき瞬間である。
有福温泉(島根県江津市)
2日目、早朝から有福の温泉街を歩く。有福温泉は温泉津のように県外の観光客がやって来るような温泉場ではない。土産物屋など無さそうな町は昭和30年代のレトロを感じる。そこから階段を上って旅館街に入っていく。朝だというのに地元の車が温泉の駐車場に集まってくる。共同浴場の開館にあわせてやってきたようだ。有福温泉には3軒の共同浴場がある。その内の一つ、御前湯が階段を上ったところに建っていた。昭和初期のモダンな建築で、入り口前で朝風呂の入浴客が開館を待っていた。
江津本町(島根県江津市)
江津は1996年にチャックしたのだが古い町並みを発見できていなかった。それもそのはずで、旧市街は現在とは全然離れた本町という場所にあったのである。ここもリベンジ探訪である。
江の川の河口の川幅は広く、その土手に立つと赤瓦の家並みを見下ろすことが出来る。海陸交通の結節点として繁栄した町並みは目抜き通りよりも一本入った通りの方が濃い。町家と軒を並べてバルコニーつきの近代洋風建築が建っている。旧江津郵便局の建物で、遠めには角石を積んだ煉瓦造・・・だが近くでよく見ると木造だ。角石に見えたのは木である。町中に残る旧江津町役場もユニークな建築であった。
温泉津(島根県大田市)
昨晩走った国道9号線を東へ戻る。温泉津は大森銀山と一緒に世界遺産を目指している町並みということで、今回一番目玉の探訪地である。
港の観光駐車場に車を置いて町に入っていく。町の入口にいきなりでっかいお屋敷が現れた。この町の庄屋を代々勤めていた家だ。脇の路地の海鼠壁が大変美しい。商店街を過ぎると温泉街となる。右側に薬師湯という半円形の展望室のようなものが出っ張った建物が現れた。いろんな方々の紹介ではこの建物がかなりくたびれて写っていたが、すっかり塗装されて綺麗になっている。町が重伝建となり整備がすすんでいるのであろうか。隣の明治建築「震湯」も面白いが、その建物の前の路地空間がまたいい。鄙びた温泉場の雰囲気満点だ。
宅野(島根県大田市)
温泉津から大森銀山に上る前に旧仁摩町宅野の町並みを訪ねる。宅野は北前船の寄港地でありたたら製鉄も行われていたようで、比較的大型の民家が見られる。さらに特徴的なのが、石州瓦(赤瓦)地域の真っ只中にありながら集落内の家々の屋根の殆どが黒いことである。この現象、山口県の萩にもいえることだが、明らかに赤瓦を使用しないという意図があるはずである。集落内で営業されているカフェの主に聞いてみたら、宅野は富裕だったようで他とは違うという意識で赤瓦を使わなかったそうだ。
大森銀山(島根県大田市)
大森銀山は島根県内の町並み観光のメッカである。今日は日曜日、昼過ぎということもあり観光客でごった返している。観光駐車場も満車で、離れた場所に停めて歩かなければならない状態だ。自分だってその観光客の一人なのだが、勝手なもので町並み探訪で最も嫌な状態である。
10年ぶりに訪れたが、この町の記憶はしっかり残っている。町並みの整備は進んでいてとても綺麗になった。ここまで観光客が多いと落ち着いて歩く気がしない。さっさと主要なカットを撮影して先を急ぎたい。
代官所前から町並みを抜け五百羅漢を往復。主だった町並みを人が途切れる瞬間を狙って撮影した。こうして急いだため、今回も一番奥にある石見銀山遺跡を見忘れてしまった。
菅谷(島根県雲南市)
大森銀山から山間部を東へ走る。途中、三瓶山という気持ちのよい高原地帯を通過した。地元のファミリーがたくさん遊びに来ている。そういえば、昔、山陰本線に急行「さんべ」という名前の列車が走っていた。変な名前だなぁと思っていたが、山の名前だったとは・・・。

中国地方は砂鉄から鉄をつくるたたら製鉄が行われていた地域であるが、その施設が唯一残っている場所がある。菅谷たたら山内である。製鉄炉のある高殿を初め施設全体が残されており、職人の集落にも面影が色濃く感じられた。
吉田(島根県雲南市)
吉田は菅谷を運営している田部家のある町で、和鉄産業で繁栄した。町の入り口にはその田部家の屋敷があり、何棟もの蔵を表に面して並べ威容を誇っている。その蔵の間を通って奥の奥に居宅を構えている屋敷構えは強烈だ。
並び蔵からは菅谷に通じる坂道に町が形成されていた。
横田(島根県奥出雲町)
吉田からさらに東へ山間を移動する。横田もたたら製鉄で栄えた町である。近くの大呂集落には国指定保存技術である「日刀保たたら」の工場がある。さらに奥に入ると鳥取県になるが阿毘縁というたたら職人の集落があり、かつて訪れその立派な佇まいに驚かされた。
横田の町を歩くが、吉田のように期待したほど古い建物が残っていない。町のランドマークともなっている赤いトンガリ屋根の古い教会があり、その付近にだけに古そうな町並みが見られた。教会の中に入ると若い男性(神父?)が待ち構えていたように説明を始めた。この町はかつて教会以南を大火で焼失したのだという。
宍道(島根県松江市)
横田を後にし、昨日歩いた広瀬を通過して再び松江に戻った。浜田を出発してかなり走った一日であった。

3日目は朝一番で宍道と出雲今市を歩いて京都に向かう。夜明けとともに松江のホテルを出て山陰本線で宍道へ向かう。宍道湖には靄が立ち込めていて幻想的だ。
宍道の町並みは「図説 日本の町並み9」に紹介さえれていたので期待して訪れたが、見るべきものは旧八雲本陣だけだった。ちょっと肩透かしにあった感を残して出雲市に向かう。
出雲今市(島根県出雲市)
一昨日の夕方は出雲市大津町を歩いたが、時間切れで今市町を残していた。岡山行きの特急やくも号は出雲市始発なので、今回の旅の最後として出雲市駅近くの今市町を歩く。
駅前は再開発で広い道路が整備されていたが、その途中、東側に歓楽街が顔を覗かせている。その歓楽街を抜けて一本北側の旧山陰道を東へ歩く。鉄筋コンクリートながら和風デザインの銀行建築や水運で栄えた高瀬川沿いの町並みなど大津町に負けない町並みが残っていた。
駅前の一畑電鉄が経営する新しいホテルのレストランで朝食バイキングを食べいっぷく。また長い道のりを経て京都へ向かわなければならない。。
京都では「いらかぐみ」のミニオフ会。殆どメンバーが集まった。京町家を見学した後、伏見の黄桜酒蔵のレストランで楽しいひと時を過ごした。これで苦労した山陰攻めはひとまず終り。2週間後から四国西巡礼にとりかかる。