天界の村を歩く
第3話 四国山地西部
    四国山地西部 Movie
 
わが国最大の天界の村密集地域
四国山地

 
 四国山地を初めて訪れたのは大学院を卒業する時だったからかれこれ20年前(1988年)である。軽四駆のジムニーを転がして、徳島県の脇町から一宇村に入り山岳集落を探索した。そのとき、一宇村の中心である古見の背後の山一面を埋め尽くした巨大な集落に出会った。私は興奮しながら向かいの山に上った。目前にドーンと横たわる巨大な山岳集落に私は言葉を失った。それから9年後の1995年にも一宇村から剣山を越えた祖谷山を中心に徹底的に天界の村を歩いている。
 四国山地は、西日本外帯山地に分布する天界の村の中でも、数と規模において国内最大であろう。今回の旅は、まだ歩いていない四国山地西部から入り、3度目の四国山地東部にかけて天界の村だけを訪問する。
 
 

1988年に訪れた徳島県一宇村(現美馬市)
大宗赤松集落

四国山地西部に入る
 
 早朝、高松市内を出発した。西条や八幡浜の町を歩きたいが、今回の目的は「天界の村」一本である。わき目も振らずに四国山地に向かう。最初の集落は西条市千町。地名からすると山村っぽくないが、空中写真と地形図から広大な棚田が見られると予測している。谷底の国道から折れて集落に入っていくと視界が広がり、巨大な棚田集落が姿を現した。これほどの規模の棚田はいままで見たことが無い。山岳集落というのは一般に田圃が少なく畑が中心である。しかし、千町は違う。谷底から山の上まで棚田を造成している。
 天正13年(1585年)天正の陣の際、土佐の伊藤近江守祐晴が援軍60人を引き連れて高峠城(現西条市)にやってきた。その後、彼らは土佐に帰らず、この千町に定住したという。「千町といわれるまで耕して 谷の向こうに人家みゆ」という歌が地名の由来として残っている。彼らが何故土佐に帰らず千町にとどまったのだろうか。
 千町の棚田を眺めていると、開拓した先人のエネルギーをひしひしと感じる。これから歩く四国山地西部はどんな集落を見せてくれるのであろうか。
 

土佐街道国道33号線を走る
 
 一旦西条に戻り高速道路で松山へ行き、国道33号線土佐街道から再度四国山地に入る。分水嶺三坂峠を越えると土佐湾へ注ぐ仁淀川流域となる。事前の地形図による調査で、仁淀川の上流にあたる面河川に沿った南北の谷には比較的規模のまとまった天界の村が期待できることがわかっている。
 まず旧美川村(現久万高原町)の沢渡集落を訪れる。斜面に形成された集落の下端から上端までまずクルマで流して要所を確認し、次に頂上から下りながら要所を歩いていく。そして最後に谷の反対側の山に上って集落の全体像を撮影する。これが天界の村探訪のやり方なのだ。
 次に訪れた旧美川村黒藤川は棚田の美しい集落だった。四国山地の集落は、山の上でも苦にせず水田を耕作しているものが多いようである。棚田の中央には山の上から引いた農業用水が流れている。ここから両脇の水田に水を導かなくてはならないのだが、その仕組みが実に良く出来ている。用水と棚田の落差を利用して、竹を割った樋を組み合わせて上手に水を導いている。農家の屋敷地は棚田の中に点在しており、上から眺めると水田に屋根が埋もれているように見える。

 
 


西向きの斜面一面に棚田が埋め尽くす集落
愛媛県西条市千町

面河川谷の東側斜面山腹にある
旧美川村沢渡集落

黒藤川集落は棚田と屋敷地が
一体化した美しさがある
旧柳谷村の山岳集落を歩く
 
 1995年9月に四国を旅したとき、高知県柚原から伊予土佐国境の地芳峠を越えて愛媛県に入った。峠の上からは四国山地の山並みが重なるように眺められたが、その中に山の天辺にある集落を見つけた。地図と照らし合わせて場所を確認すると旧柳谷村中久保集落であった。峠を下り谷底の国道から再び集落への道を上った。中久保は南面する山腹の緩斜面にあり、等高線に従って綺麗に弧を描きながら民家の棟が並ぶ集落だった。

 その思い出があったので今回の旅では旧柳谷村を訪れないわけにはいかない。地形図を調べると旧柳谷村の山岳集落は、前回歩いた中久保集落以外にもそこそこある。比較的集落規模の大きいと思われるものの中から、面河川北岸の中津集落を訪れてみることにした。
 中津集落も黒藤川と同じように山の上でありながら棚田が作られている。ところが人家がまばらで集落景観としては期待していたほどではなかった。旧柳谷村の中を丹念に探れば中久保のような集落に出会えるかもしれない。

土佐伊予国境の地芳峠から眺めた
旧柳谷村中久保集落

等高線に沿って弧を描く中久保集落

旧柳谷村中津集落
木立の間から見える棚田集落
四国山地西部 最奥の山岳集落 
 
 面河川を下って行くと川の名前が仁淀川に変わった。愛媛県から高知県に入ったのである。旧吾川村大崎で仁淀川の支流池川川へ、旧池川村土居で土居川へ、さらに百河内から大野椿山川へ沿って遡る。支流へ支流へと遡るに従って川が刻んでいる谷は狭くなり、集落も少なくなっていく。大野集落を過ぎると、いよいよこの先にはもう人家はありえないと誰もが思うほどの道になる。谷底を行く道は木々に覆われて薄暗く、木立の間から時折両側の高い山が見える。大野から5kmほど走ると道は川に沿うのをやめ180度また180度と向きを変え急斜面を上りはじめる。すると視界が開け椿山集落が現れた。
 椿山(つばやま)は以前、NHKの番組で「四国山地の秘境」として取り上げられたことがある。一人の老人が農作物を干す木柵越しに深い谷を眺めている映像が記憶に残っている。
 山岳集落では日当たりの良い緩斜面に集落が形成されることが多い。椿山集落の立地は地形図で見ればその通りだけど、実際は決して緩斜面といえない。等高線方向に石垣を積んで帯状に狭い屋敷地を造成している。等高線に沿った道を歩くと、山側に1.5mほどの石垣があって前庭と平入の主屋があり、谷側の家は2階が道に接する。造成された雛壇状の集落形態は古いものだと思われるが、六甲や横浜あたりにある現代の集合住宅に相通じる空間である。
 その道を進むと農作物を干す木柵があった。NHKの番組で印象に残っていたあれである。椿山集落は、一村全て平家の末裔という伝説がある。昭和初期までは他部落との交際結婚をしなかった自給自足の別天地であった。近年まで焼畑農業も行われていた。

仁淀川の上流最奥の集落 椿山

斜面に石垣を積んで僅かな屋敷地を造成している

NHKの番組で印象に残っていた風景
 四国山地西部の山岳集落を巡る旅は、最奥の椿山で日が暮れた。旧池川町の中心部である土居から高知市内までは道路が整備されていて2時間かからなかった。今日は早朝からよく走りよく歩いた。高知市内のホテルのベッドに横たわると20年前のことが思い出された。小雪舞う四国山地東部の一宇村、祖谷山を歩いた私は風邪をこじらせていた。高知市内のビジネスホテルまで何とか辿りついたものの、それから三日間ホテルの部屋で高熱にうなされた。
 そんな思い出しかない高知の町なので町並みの記憶が無い。せっかく来たのだからコンビニ弁当はやめてカツオのたたきでもと繁華街に出かけた。ところが、下調べをしていなかったのでうっかり観光客目当ての高くてまずい店に入ってしまった。面白くないので、町並みの収穫が無いか街を歩いてみる。高知の市街地はほぼ全域が戦災に遭っているので町には歴史的な風情がない。かつての遊廓も探索したが面影は残っていなかった。しかたがないので早々にホテルへ戻り、明日の四国山地東部探訪に備えることにした。