にっぽん集落町並み縦走紀行 
  
第30日 仙台(宮城県)~花巻(岩手県)
     胆沢  気仙沼  陸前高田今泉


気仙沼(宮城県)

 縦走紀行第30日朝、仙台駅から東北新幹線で北上する。今日は3.11後初の三陸地方に足を踏み入れる。私は東日本大震災が起こった3.11以降、三陸大津波で被災した街を訪れることを躊躇していた。訪れるとすれば何のために被災した町を歩くのか。その意義がなければ容易く訪問すべきではないと思っていたからだ。いま、被災地はあれから1年半が過ぎ、復興へ向けてまちづくりを検討している。それらの町に対して集落町並み探訪家として何ができるだろうか。私は大津波にのまれる前の主要な町並みを歩き写真や動画を持っている。被災地を訪れて失ったものを見るのではなく、町並みを構成していた重要な建物や要素を確認しこのサイトを通して発信することで、復興のまちづくりの中での歴史を継ぐヒントを提供できないだろうか、そう思うようになった。日本全国の集落町並みと35年に渡る探訪のキャリアを俯瞰することが目的の縦走紀行の中で、やはり三陸の集落町並みの現在を見ない訳にはいかない。私は被災した町並みを歩く決心をした。


胆沢の散居集落(岩手県)

 一関駅前でクルマを調達し、胆沢平野へ行く。ここは一軒一軒が離れて配置される農村、いわゆる散居集落である。富山県の砺波平野、島根県の簸川平野と並ぶ日本三大散居集落のひとつとして有名だ。ところが散居集落というのは取材が難しい。一軒一軒の屋敷や民家を見てもその特徴は表現することができず、高いところから俯瞰してはじめて判るものだからだ。平野を見下ろせるところはないか、時間走り廻ってやっと見つけた。胆沢は、砺波、簸川に負けず劣らずの散居度であった。

 北上川を渡り三陸の気仙沼を目指す。途中、猿沢摺沢という蔵造りの町並みを通るので、すでに歩いているが要所を再確認した。震災のダメージはさほどではなく、町並みはほぼかつての様子のままで安心した。

摺沢の町並み(岩手県)
   


胆沢の散居集落(岩手県)

胆沢の民家(岩手県)

猿沢の町並み(岩手県)

摺沢の町並み(岩手県)
 北上川に架かる橋を渡ってから2時間走った。もうすぐ太平洋岸の気仙沼の町に入る。気仙沼はわが国でも屈指の漁港である。市街地は大正4年(1915年)と昭和4年(1929年)と二度の大火を経験しており、その後復興した街は昭和初期の時代性が現れた町並みであった。しかし、2011.3.11.そこを三陸大津波が襲った。車窓は農村から市街地へと風景を変え港へ近づいて行く。しばらく津波による変化は感じられなかったが、港まで500mというところで空き地が目立ちはじめ、100mのところで視界が開けて港が見渡せてしまった。かつては金融機関や商店が建ち並ぶ気仙沼の商業中心地。建物の跡には基礎だけが残り、港の桟橋は傾いたままになっている。残っている建物でも1階部分に津波の傷跡が残っている。その光景を目の当たりにし、私は言葉を失い涙がボロボロこぼれてきた。漁港の前にはプレハブの建物群あり「復興屋台村」と看板がでている。かなり人が集まっていて賑わっている。そこの店のひとつに入り食事をした。店内には復興を応援する色紙などが貼られていた。

気仙沼 港前の復興屋台村

 
さて、これから震災前の写真や画像と現在の町を見比べながら気仙沼の街をしっかり歩こうと思う。建物のなくなった宅地は道路より2050センチ近く下がっている。これは津波によって地盤が沈下したためである。鉄筋コンクリートの建物は比較的残っていて、商店街の交差点に建っていた角の円い建物は存在しており、それを見てほっとした。その向かいにあった料亭風の和館は失われていたものの、その交差点から内陸方面へ続く商店街は割と残っている。

震災前の商店街

震災後の商店街

中でも驚いたことに
斎藤茶舗という古い町家はほぼ完璧に残っている。両側の敷地は無くなっているのにだ。これはおそらく向かいの強固な鉄筋コンクリート造の建物によって大津波のエネルギーが減衰され守られたのであろう。1階はかなり浸水したはずであるが、構造や外壁のダメージは少なく存続できたものと思われる。店は以前と変わらぬ様子で営業されている。そして、そのさらに先へ歩みを進めていくと、右側にも土蔵造りの建物と看板建築が並んで残っていた。この商店街で、古い町並みを構成していた重要な3棟が残っているのは凄いことである。
震災前 この建物は失われた

 次に港に平行した通りを歩く。この辺りは港に近いだけあり免れた建物は少ないが、その中に木造の看板建築が残っているではないか。だが何かおかしい。もってきた過去の画像と見比べてわかった。なんと木造三階建て看板建築「男山本店」の
3階部分だけが残されているのである。さらに数棟間隔をおいて並んでいた2階建て塗籠造の造酒屋「角星」も2階部分だけが残され上部に保護のための屋根がかぶせられていた。さらに、銅板建築の「武山米店」も1階は壊れてしまっているが2階が残されている。これは明らかに残そうという意図が働いている。後で調べてわかったことだが、地元の建築家や学者らの働きかけによって、これらの建物の部分は撤去されずに残されたという。町中ではにぎやかに野外イベントも行われていた。気仙沼は大津波の悲劇を乗り越えて大正初期・昭和初期の大火後の復興にも負けず、再び三度、力強く立ち上がろうとしているように思えた。

震災前 両国角星 2階部分が残った
 

【回想】震災前 気仙沼 斎藤茶舗

震災後 気仙沼 斎藤茶舗 ほぼ完全に残った

震災前

震災後

震災前 武山米店

震災後 武山米店

震災前 男山本店

震災後 男山本店 3階部分が残った
 気仙沼を後にして岩手県陸前高田へ向かう。気仙沼港の北部は工場地域であったが、大津波で火災が発生し現在は荒野と化していた。津波で運ばれた大型船が道路脇にそのまま置かれていた。この遺構は、平成の三陸大津波の重要な語り部となるであろう。
 国道45号線のコーナーを曲がると陸前高田気仙町今泉の町が見えてくるはずである。しかし、目の前には気仙川と道路と電柱だけの荒野が広がっている。かつての町に入っていくとクランクした道路の線形だけが、そこに存在していた今泉という町並みを想起させるわずかな手がかりで、建物などの歴史を継ぐものはほとんどない。山際に建つ神社や寺と一軒の民家、気仙川にかかっていた橋脚ぐらいしかない。気仙川対岸の陸前高田の市街地も海と街との間に広がっていた松原はおろか街全体が完全に消滅してしまっている。駅前にあった商業施設の遺構だけが取り壊されずにそのまま置かれている。陸前高田の街の跡には人も仮設建築もなく、気仙沼とはあまりにも対象的である。


震災前 陸前高田今泉の町並み

 日が傾き、高田街道を内陸へ戻る。三陸大津波の大参事から1年半が経った。今でも被災地をただ見に行くだけに訪れるべきではないという意見はある。でも今回歩いてみて思うことは、日本人としてこの地を訪れるべきである。今回の天災は、三陸の人々だけの問題ではなく、日本人全てが心に刻み込むまなければならない問題だ。日本人は一人一人が常に三陸の人々のことを思い続けていなければならない。今すぐ何かができなくてもこれから何らかの形で協力できる場面が訪れかもしれないからだ。私は、これからもこの地域を見守り続けていきたいと思う。
 陸前高田から2時間、とっぷり日が暮れて花巻の街は暗い。縦走紀行第30日は、花巻駅前で静かに幕を下ろした。

花巻駅


気仙沼
津波よって運ばれ残された大型船の遺構
(宮城県)

震災前 陸前高田今泉の八木澤酒造(岩手県)

震災後 陸前高田今泉の八木澤酒造跡(岩手県)

震災後 陸前高田の市街地跡(岩手県)
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