西新宿(東京都)
|
日本縦断の旅は、第21日でわが本拠地東京に到達した。ここで改めて集落町並み探訪家<万訪>の原点についてお話ししよう。私が集落町並み探訪に目覚めたのには、二つの旅がきっかけとなっている。一つは「まちを歩く」という魅力と出会った1977年(昭和52年)夏の「東京めぐりの旅」、もう一つは「集落を歩く」という興味に魅かれる契機となった1985年(昭和60年)の「天界の村~長野県上村下栗~」である。
右と下の画像は、私が中学校1年生の時につくった「東京めぐりの旅」の計画書だ。万訪少年は、小学生の頃から友達と東京近郊の各所を旅していたが、この時「地方ばかりを旅していて地元東京を良く知らないのはおかしい」「地元を旅してみよう」と思い立ち2日間の計画を立てた。この旅まではいわゆる観光名所を見て歩くという内容なのでこの計画書もそうなっている。ところが、東京を歩けば自然と町も歩くことになる。私はこの旅の中で町を歩く楽しみを知った。今回の縦走紀行では私の町歩きの原点となっている1977年夏の「東京めぐり」をトレースしてみようと思う。今日2012年8月13日・明日14日は35年前に歩いた1977年8月13日・14日からちょうど35年目にあたる。町はかなり変貌しているであろう。そこを歩いて何を感じることになるだろうか。記憶を書き換えてしまうことにならないか。いつになく緊張して前夜は眠れなかった。
|
1975年「東京めぐりの旅」の計画書 |
↑1975年「東京めぐりの旅」の計画書 トレースの旅は新宿から始める |
縦走紀行第22日9:00am、始点は新宿駅西口地下広場。35年前は東京都調布市に住んでいたので、旅に出るときは大抵新宿駅からだった。新宿からJR中央線で四谷へ移動する。
当時、四谷駅から迎賓館と紀尾井町を経由して国会議事堂まで35分で計画していた。「そりゃいくらなんでも無理だ」と思いながら外堀通りを南へ歩く。迎賓館(旧赤坂離宮)は、最近修復工事が完了したので建物が綺麗だ。ここからの当時歩いたコースははっきり覚えている。迎賓館の東側の塀に沿って赤坂見附方面に向かい、途中の江戸城外郭門のひとつ喰違見附で外堀を渡りホテルニューオータニへ向かった。
私と同年のニューオータニ
ホテルニューオータニの建物は東京オリンピックの際の外国人客の受け入れをきっかけに誕生した。頂部の円形回転レストランが特徴だった。私は子供の頃この円形が固まりごと回っているもんだと思っていたが、実は内部の床だけだと知った時は落胆した。この手の建物は当時結構流行ったようで、全国各地で見ることができる。四谷寄りのザ・メイン(旧館)から入ってガーデンタワー、ガーデンコートと続くショッピングモールを赤坂見附方面へ突き抜ける。長い廊下とアーチ形状のショップファサードは記憶に残っている。廊下の途中の窓から赤坂プリンスホテルを眺められた。1983年(昭和58年)にオープンした巨匠建築家丹下健三の代表作のひとつ。築30年に満たないので35年前の旅では見ていなかった建物だが、もう取り壊されている。
赤坂見附から永田町へと坂を上がる。照りつける日差しの中、国会図書館の前を通って国会議事堂に向かう。国会図書館は大学時代に研究でよく通ったものだ。国会議事堂の正門前は35年前の旅の写真が唯一残っている場所。あの時は雨でひっそりしていたが、今日は公開見学の時間で多くの人が門の内側で写真を撮っている。門番の警備員に入れるのかと尋ねたら、裏口に回って手続きに並ばないと入れないといわれ諦めた。35年前と同じ場所で写真を撮った。
国会議事堂の前で(35年前の旅)
議事堂を一周して溜池に下る。総理大臣官邸の前はいつも物々しい警備である。溜池は江戸時代外堀の一部で大きな池になっていた。35年前の旅での町の記憶は無いが、埋め立てられた後の建物も世代交代を繰り返し、現在は超高層ビルが建ち並んでいる。その間を抜け外堀通りを越えると赤坂のごちゃごちゃとした繁華街となる。
赤坂は、江戸時代の町人町で明治以降も商業地として発展した。かつては遊郭だったエリアもあり、その後は花街(花柳界)となって国会議員御用達の料亭街を形成している。35年前の旅ではまだ遊里なんぞ知らずなぜかガイドブックに紹介されていた一ツ木通りを目指して歩いた。ネオン街は記憶と変わらない。ところが街灯が妙な形をしている。ゲゲゲの鬼太郎にでも出てきそうな、、、そうか「一ツ木」か。35年前、小さな建物がひしめき合う赤坂の繁華街を抜けていくと大きな構えのビルがあった。TBSテレビである。そして、赤坂の名のごとく周りには坂が多く、つまりは丘になっていてお屋敷街であった。現在のTBS敷地には赤坂サカスという超高層ビルの放送局を主体とした再開発複合施設に置き換わっていて、たくさんの人が集まるスポットになっている。そして、背後の邸宅街も土地利用が変わりビルになっている。その現象は、1980年代のバブル期ごろから始まったと記憶している。
赤坂サカス
|
新宿駅西口駅前広場 |
赤坂迎賓館(旧赤坂離宮) |
ニューオータニの3棟をつなぐアーケード |
国会議事堂 |
外堀通り山王下交差点から赤坂へ |
赤坂一ツ木通り |
【回想】赤坂 丘の上の洋館(現存せず) |
地下鉄千代田線で表参道へ移動し、35年前同様に表参道を明治神宮まで歩く。表参道は1919年(大正8年)明治神宮の参道として整備された大通りで、その西洋的な景観から銀座と並ぶ高級ブランドの旗艦店が集積する町となっている。しかし、かつては住宅街(今でも大通りから外れると住宅街)で、表参道沿いには集合住宅が建ち並んだ。その代表が同潤会青山アパートであった。1926年(大正15年)に建築され2003年に解体されるまで、住宅街時代の表参道のシンボルであった。35年前の旅では当然この前を通っているが、その時は全く意識になく、大学で建築を勉強するようになって始めてその存在を知った。現在は建築家安藤忠雄氏が設計した表参道ヒルズに建て替わっていて一部に旧アパートの建物が再現されている。その再現アパートと表参道ヒルズの中を通ってから大通りに戻り、旧渋谷川との交差部あたりから大通りを外れて裏の街を抜ける。まだ、戸建て住宅がすこし残っていた。
復元された同潤会青山アパート
ここからが縦走紀行のターゲットである初探訪の町となる。まずは竹下通り。竹下通りは、明治通りに竹下口に開業した複合ビル「パレフランセ」を契機に1976年(昭和51年)より商店街化がはじまり、1979年(昭和54年)の竹の子族、1987年(昭和62年)以降のタレントショップ林立、その後の個性的ファッション店など、常に若者文化のトレンドと共に歩んできた。35年前の旅は昭和52年(1977年)だから竹下通りはまだ無名だったらしく歩いていない。その後も流行に背を向ける万訪青年が歩くはずもなく(ちらっと通り過ぎたことはあったが)、この歳になってやっと取材する気になったというわけだ。
竹下通り
しかし、いざ歩いてみると人通りが多く店に入るわけでもなく、町並みとして面白いわけでもなく、住宅地時代の建物が改造されていそうな古い建物を撮影してさっさと原宿駅前まで抜けてしまった。
原宿駅
35年前の旅では、表参道を歩いた後渋谷のNHK放送センターを見学し、明治神宮に参拝した後原宿駅から新宿へ向かっている。今回は、渋谷へ出たいのでコースを入れ替えて先に明治神宮を参拝する。35年前の東京めぐりをトレースする旅を原宿駅まで終えたところであるがどうもいつもの調子が出てこない。当時のコースが町歩きというより観光地めぐりだからかもしれない。ところが明治神宮の森の中の参道を歩いている時に、この何だか面白くないなぁというモヤモヤしていた気分がスーッと晴れた。当時のことを思い出して自己陶酔するような歩き方をしても意味がない。今の目で今の町の中に35年前のものがどう息づいているのかを観察しながら歩くべきだと。
明治神宮参道
|
【回想】表参道 |
【回想】表参道 旧同潤会青山アパート |
復元された同潤会青山アパート |
表参道の集合住宅 コープオリンピア |
竹下通り 古い家屋を改造したショップ |
竹下通り 古い家屋を改造したショップ |
明治神宮
|
代々木公園の国立代々木競技場体育館、岸記念体育会館、いずれも1964年の東京オリンピックの施設。外壁を化粧直しされまだまだ頑張っている。この時代の建築というのは真面目にデザインされているというか、しっかり造られているいるというか、力強くて飽きがこない。
NHK放送センターは平べったい建物の一部がタワーになっていて、飛行場とか新幹線の駅舎みたいで当時から不思議に思っていた。35年前の旅では放送局を見学しているが、今日はパスする。
国立代々木競技場第一体育館
今回初探訪となる渋谷公園通りを歩く。もちろん何回も歩いている通りであるが町並みとしての取材を怠けていた。公園通りは、1973年のパルコ進出を契機に西武セゾングループが中心となり開発した新しいタイプの街路空間である。バイブルのひとつ「総覧日本の建築3 東京」に取り上げられているので取材しないわけにはいかない。ここが残っていたおかげで縦走紀行に東京都内が組み込めた。公園通りが整備されて人を集めるようになって渋谷は脚光を浴び始めたといっていいが、35年前の旅で歩こうとしていなかったのもまだガイドブックに取り上げられていなかったからだと思う。私が大学で建築を勉強している頃、渋谷は東京の中でもっとも注目されていた町のひとつになっていた。今見る公園通りの町並みは、脚光を浴び始めたころから変化しているが、渋谷公会堂、渋谷区役所、渋谷ホームズマンション、東武ホテルの町並みは変わっていない。
公園通りからスペイン坂を下る。ここらは、1980年代のアメーバ状に商空間が張り巡らされるようになった町の代表例であろう。渋谷センター街を通って渋谷駅へ。JR山手線で新宿へ移動する。
スペイン坂 |
NHK放送センター |
渋谷区役所 |
公園通りと東武ホテル |
公園通りの都営神南1丁目アパート |
公園通り |
再び新宿駅西口地下広場にやってきた。1966年に完成した西口地下広場は、その後何度も改修されていて床壁天井は当初の姿をとどめていない、、、と思ったが床の一部が残ってるのを発見。タイルを円形に貼ったパターンは記憶に鮮明に残っているけど、小田急デパートの下の部分にだけ残っていた。ロータリーの真ん中に富士山の形をした噴水が沢山あったが今は無い。そして鮮明な記憶のもう一つが、スバルビル地下外壁に取り付けられているアート。「新宿の目」というガラスのアートは、子供心に恐かった。今も変わらず新宿を見つめている。
「新宿の目」
西新宿の超高層ビル街。高い場所に対する人間の憧れは今も昔も変わらない。今年オープンした東京スカイツリーは多くの見物客を集めているが、西新宿の三井ビルができた時もすごかった。淀橋浄水場跡地の超高層ビル開発は、1971年(昭和46年)の京王プラザホテル(47階178m)からスタートした。新宿住友ビル(通称住友三角ビル52階210m)、KDDIビル(旧KDD本社ビル32階164m)、新宿三井ビル(55階225m)、損保ジャパン本社ビル(旧安田火災海上ビル40階200m)、ここまでが35年前の旅で見た超高層ビル達である。築30年以上の歴史を重ねた彼らも、現在は最初の外装改修が終わって綺麗になっていた。うーむ、縦走紀行第22日のヤマ場はここ西新宿だろう。当時ピッカピッカだった街を35年後に観察する面白さがある。新宿住友ビルを例にとれば、ズドンと200m越の壁面が立ち上がった足元には無味乾燥した広場、建物の真ん中に三角形の吹き抜けがある。昨今の開発では、足元はヒューマンスケールの界隈性のある空間とし、細い高層ビルの真ん中に穴は作らない。西新宿の超高層ビル開発で学んだ教訓は、その後の開発に生かされていると思う。
【回想】できたばかりの西新宿超高層ビル街
|
新宿駅西口地下広場 |
新宿駅西口地下広場 |
西新宿超高層ビル街 |
西新宿超高層ビル街 |
今晩は生まれ故郷の調布に泊まる。実家はもうないので駅前のパルコの上にあるホテルだ。調布は甲州街道の宿場町で、かつては大映、日活と二つの撮影所がある町として賑わった。もはやその面影も風前の灯火(もう無いかも)、最近では「ゲゲゲの女房」の舞台として知られている。
夜、調布の歓楽街「百店街」をぶらついてみた。100mに満たない通りであるが何となく歴史を感じる。調布駅も念願の地下化工事がもうすぐ完成する。そうなると南北の町はつながり、新しい町並みが生まれるかもしれない。 |
調布百店街 |
|