南九州T 薩摩半島
(2003.04.20)
久々の長期休暇がとれることとなった。となれば、遠くにしかない!ということで南九州を探訪することとした。
江戸時代、防衛のため藩士を郷村に定住させ、普段は農業に従事させながら武道を訓練させておいて、戦時になれば兵士として働させる郷士制度があった。鹿児島藩の郷士の居住する「麓集落」は特に有名で、鹿児島県内の至るところにあり、歴史的な集落景観が見られる。また、半島や離島には魅力的な漁村集落の存在が期待できる。一方、九州山地には「天界の村」なる山岳集落があるが、そのひとつ米良荘も未探訪である。
今回は、いくつかの麓集落と甑島と半島の集落、山地米良荘を6日間で駆け巡る、南九州一周の超ハードな旅である。3/20の朝、鹿児島空港から集落町並みトライアスロンがスタートした。第1日目は薩摩半島を巡る。
知覧
空港から西九州自動車→指宿スカイラインを経て、最初のポイント知覧に到着した。薩摩半島の真中に位置する知覧は、麓集落ではもっと有名である。町の中ほどに麓川にかかる永久橋があり、橋の東側を上郡、西側を中郡といい、細長く武家屋敷町が続いていた。上郡地区の武家屋敷は当時の状態が良く残っており、国の重伝建に指定されている。中郡地区は現在商店街となっている。
知覧は20年程前に来たことがあるので、どこかに記憶の断片と一致する場所がありそうなものだが、そういった場所がまったく無い。情けない限りである。
町並みの特徴は塀の石垣と生垣、門、庭、住宅の順で重要である。居室と土間が分棟だが内部空間がしっかりつながっている「二つ家造り」の茅葺屋根民家も保存されている。
上郡の町並み。東方向を見る。各戸の敷地は通りより1mくらい上げており石垣で囲む。石積みは様々な形態あり。
生垣がうねっているのは、座敷から庭園を眺めたとき、となり向かいの住宅を隠しながら、周辺の緑や山を借景するという機能の現れ。
敷地が上がっている分、階段で踏み込み門が引っ込む。直接玄関が見えないよう石垣や生垣で目隠しを造っている例が多い。
武家屋敷の庭園。実際の奥行きは小さいが、うまく造りこみ借景を利用して奥行き感を出している。
小浦
上郡から川辺へ向かう。「民家巡礼」に、川辺近辺で二つ家造りの民家が見られると
あったが、茅葺民家はまったく無い。しかし、おそらく屋根を瓦葺にしたと思われる瓦屋根の多棟連結型の民家は多い。川辺市街、加世田市街にも特筆すべき町並みは無かった。加世田から薩摩半島の西に突き出した野間半島の外周を廻る。
野間半島笠沙町は、東シナ海望むリアス式海岸が連続し、入り江や崖上に集落が見られる。小浦は笠沙町の中心で、V字の入り江に面した斜面に集落が形成されている。農業は零細で、沿岸沖合漁業の町だった(現在は?)。
護岸に石垣が残っていた。
斜面下の通り。
民家は入母屋か切妻で下屋が有るものが多い。
石垣で宅地を造成。最初なのでものめずらしく石垣の写真を撮っているが、この後どこへいっても、うんざりするほど石垣三昧となる。
大当
孫右衛門さんのhp「郷愁小路」の掲示板で、岸本さんから紹介された大当集落。読み方は「おおあたり」ではなく「おおと」である。「石垣の集落」と看板が出ていたが、なるほど石垣が立派かつ純度の高い集落であった。沖縄の竹富島、愛媛の外泊、千葉の長崎あたりとダブる。が、よーく見るとちょっと違う。石垣は第一に宅地の造成のために用いられるが、その点に付いては共通だ。第二に、海からの卓越風を防ぐために立ち上げるのだが、その点については異なっているように思う。つまり、他の石垣集落のように軒先まで石垣を立ち上げていないのである。敷地より1m弱程度なのだ。これは、防風のためではなく境界を意味するもので、先の知覧の武家屋敷と同様の意味なのではないか。
宅地造成と敷地境界(塀)を示す役割で石垣を立て上げているようだ。
石垣は周辺の集落でも見られたが、大当たりはその純度において優れている。集落の様式として守ろうとする意識無くしては成り立たない。
姥
野間半島の南側は、野間岳が海に落ち込む地形のため、姥集落は山腹に位置する小集落である。畑では作物が作られていたが家には人が住んでいないようだ。道も車の通れない細い道しかなく、荒れていた。ゴーストタウンの探訪は昔はなんてことなく平気で廃屋の中まで入っていったが、最近ではいやなものである。
秋目
姥から坊津に向かう途中、美しい入り江に面した秋目(坊津町)という集落に立ち寄った。秋目は加世田方面からの道(恐らく旧道)が海岸に出たところで、坊津町の飛地のようになっていることから、坊津と関係の深い漁村集落であろう。坊津は遣唐使の出航地で知られるが、南島路を利用した遣唐使は坊津に寄航し、鑑真和上は秋目に上陸したといわれる(753年)。
比較的大きな民家や集落の最奥部に石垣を積み上げた大きな屋敷があることから、一時期栄えた場所と思われる。
海岸近くの比較的大きな民家。外周を家屋で囲い、中庭形式になっていた。
旧小学校の脇にあるアコウの古木。
最奥部の高い場所に石垣を積み上げた屋敷があった。
鹿児島の民家に茅葺は残っていない。瓦葺で破風に開口が無く白漆喰で塗り固められている様式が多い。
坊津
坊津は古い外国交易の港で、博多津(福岡県福岡)、安濃津(三重県津)とともに日本三津のひとつである。リアス式海岸の入り江に形成され、遣唐使の出航地、大陸文化の渡来地であった。室町時代は島津藩の中国・琉球貿易の根拠地であった。江戸時代は貿易港としての地位を長崎に奪われ、島津藩の密貿易港となった。享保の唐物崩れ(密貿易取り締まり)以降は漁港として存続したが、石畳や赤い石垣、倉などに繁栄の名残を感じる。ここも20年前に来たのに・・・、記憶無くほとんど初対面だ。
港は霧に包まれ、最果ての港といった風情であった。
石畳、赤い石垣、倉、門など、かつての繁栄ぶりが伺える。
坊津の民家。薩摩の民家は屋根を一発で葺かず、幾重にも葺くのが高い格式だったのか。
路地はもう漁村そのものであるが、石垣や入口が並の漁村とは違う。
集落北側の斜面づたいの道。左の家は2階部分。
比較的大きな屋敷を見下ろす。
道なりに建物はつくられる。
地形なりに建物はつくられる。
指宿
知覧、坊津の記憶との隔たりにすっかり自信を無くし、指宿も改めて見ておくこととした。
指宿は過去2回訪れており、2度とも宿泊した生駒旅館という古い民家の宿を
探したが見当たらなかった。温泉地にあって温泉をひいていない旅館だったため、当時姉妹のおばあさんが細々とやっていたので、現在お元気あったとしても旅館は閉めているはず。これまた記憶違いの場所を捜索したか・・・・、取り壊されていてみつからなっかと思いたい。
旧街道沿いの民家。2つのノッペラボウ妻面を通り面して建てられている。ノッペラボウの切妻妻面は土壁にしても板壁にしてもシンプルでいいものである。
旧街道に面する民家。
元湯近くの民家。この辺に、かつて泊まった写真の民家のような旅館があったのだが、見当たらなかった。
母屋と下屋を段葺きして、間を漆喰で塗り固めるのがこの辺りの様式。3段葺き町家があったというが見当たらなかった。