そろそろ泊港ターミナルへ行かないと船にり遅れてしまいます。でも、島へ渡る前に昼飯を調達しておかねばなりません。小さな島では食堂もない場合があり、いままで何度も痛い目にあった経験があります。前島には幸運にもコンビニがあったのでおにぎりとサンドイッチを調達し、いざ渡名喜島へ。
渡名喜島経由久米島行きの船がゆっくりと那覇泊港を出ていきます。防波堤を過ぎると海は激しくうねり始めました。1時間ほど乗った頃、船内放送で「前方にクジラが居ます」。遠くで何度も吹き上げられた潮を確認できました。
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渡名喜島へ |
渡名喜
渡名喜島が近付いてきました。結構山のある島だなぁが第一印象。船は大きく南から廻り込んで、本島とは反対側(西側)にある港へ体をつけます。
渡名喜島は、古くは「戸無島」と称されていました。もともと南北2つの島でしたが、両島の間に砂が堆積し、南北に山地を持つ1つの島になったといわれています。中国と沖縄本島とを結ぶ航路上にあったことから、行き交う船の監視、通報のための施設である烽火台が配置されていた島でした。
民宿に荷物を置いて早速取材を始めます。集落内の道路は新しい分譲戸建住宅地のように整然と街区割がなされているので、一番端から一筆書きで行ったり来たりしながら歩きます。
歩き始めてまず驚いたのが道路が真白な砂地であること。集落はこの堆積した砂の上に形成されています。敷地は集落道路よりも低く掘り下げられていて、防風防火のためびっしりとフクギで囲われている。これは、島の特異な気候風土から生まれたものです。東の浜と西の浜との距離が僅か600m、南北に山を控えているので集落上が風道になります。台風時には集落上を猛烈な潮雨が吹き抜けていくのです。
道路は各敷地の南北面で接するのが基本。屋敷配置は掘り下げた狭い敷地を有効に利用するため、主屋と炊事部分を一棟にしており、そのほか納屋、井戸など沖縄の伝統的な民家配置が合理的に構成されています。主屋の平面は、表座を居住空間とし、裏座に食糧や種子の穀物類を収納する空間とした沖縄民家の古い形を残しています。小規模な家屋平面をできるだけ広く空間利用するために、南と東に縁側、雨端が設けられ、内部空間と外部空間の緩衝的な役割を果たしています。
ジグザグに40分ほど歩いて集落の中央にある郵便局まできました。島の重要な金融機関です。集落内を歩いている途中に何度も出会った郵便屋さんが郵便局の前で島の人としゃべりこんでいました。のどかだなぁ。
この島は規模の割には軽トラが多い。久米島への航路の立寄港でフェリーが着くからでしょう。狭い道を軽トラが最徐行して走っています。港近くには小さなガソリンスタンドがありましたが、どこに声かければガソリンを入れてもらえるか全然わかりません。
集落内では電気自動車も走っています。レンタカーで港の隣で借りられます。観光シーズンではなかったのでボランティア軍団が全て使用していました。音もなく表れるので怖い!ちなみに観光客は私と数名だけ・・・。
壊れたオリオンビールの自動販売機。
桃原商店。島の商店は看板がない場合が多いです。理由は簡単。どこにお店があるか誰もが知っているから。
渡名喜島には食堂がありました。港と集落内に2カ所。コンビニで買ってきたおにぎりとサンドイッチは早々とフェリーの中で食べてしまったし、その後ずいぶん歩いたのでお腹が減ってきた。この食堂でつなごうとのぞいたら準備中。観光シーズンじゃないと島では商売っけゼロです。
東の浜はサンゴ礁のビーチ。真冬だけどここは沖縄、全く寒くはありません。外人がシュノーケリングをしてました。時期的なものか、場所的なものか、水は青いけれど石垣島よりは汚れている。ハングル文字の空き缶が打ち上げられていました。
集落内には、古くから生活用水として使用してきた村共同井戸(むらがー)や祭祀の場である殿屋敷(とぅやしき)の拝所が複数あり、集落の歴史的景観の形成過程を今に伝えています。共同井戸はかつては貴重な島の水源でしたが、今は海水から上水を生成しているようです。村のご夫婦がお供え物をして拝んでいました。
日は沈み空は満天の星に。フットライトの仕込まれたセンター通りが綺麗だと聞いたので夕食後散歩に出かけました。フクギ林で住宅の光は漏れないので、フットライトに照らされた白い砂、白い壁だけが浮き立ちとても幻想的でした。
島二日目の早朝、集落を一望できる展望台へ上がりました。朝陽が上り、フクギの屋敷林や赤瓦屋根が輝き始めます。展望台から山道を下ったところに看板がありました。「危険!!ハブに注意!!」こわー!!
昨日歩いた集落の要所をもう一度歩きます。村の活動は始まっています。道路では朝起き会といって村の子供たちが一斉に掃除をしています。畑では島ニンジンが収穫されていました。
10:15本島へ戻る船が着きました。島のあちこちで見かけた人たちが集まり乗船していきます。この島の人と物資はすべてこの船で運ばれています。船の発着時間で島のスケジュールが決まっているのでしょう。
渡名喜島を後にし、本島の遊里探訪の仕上げにとりかかります。
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西の浜の渡名喜港 |
フクギの屋敷林で囲まれた民家 |
フクギの屋敷林しか見えない町並み |
渡名喜島の屋敷地は道路から下がっている |
島豆腐製造の店 |
石積塀とフクギ |
赤瓦の民家 |
島の美容室 |
島の初代村長を務めた上門家 |
屋根の上の魔よけシーサー |
東の浜 サンゴ礁のビーチ |
共同井戸 かつての島の水源は拝所 |
村道1号線(フットライト道路)の夜景 |
大和食品 |
島ニンジンの収穫 |
東の浜と集落俯瞰 |
LAST 遊里を歩く IN沖縄 へ
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わが国は全てを海に囲まれています。太平洋、日本海、オホーツク海、東シナ海、瀬戸内海、各水道・海峡に面する海岸線、あるいは有人島約450島、全てに海を臨み海とともに生活をしている人々の集落が存在しています。私は今までも全国の漁村や島を多く歩いてきましたが、気候風土や地形、利便性などにおいて過酷な場所に形成された集落を多く見てきました。何故そこに住まうようになったのか。それは、「生業に適した漁場があったから」というのも大きな要因でしょう。最初は僅かな平地から始まった集落が人口増加に従って平地が埋め尽くされやがて斜面に拡大していったり、さらに険しい場所につくられたり。こうしてできた密集漁村はその形態から車を各戸にアクセスさせられないため、集落空間がいまでも変わらない。また、自然とたたかうために特異な形態が生み出されたものもある。そして、離島にいたってはモータリゼーションへの対応の必要がないため、古くからの集落形態が変わることなく維持されているものも少なくありません。
「海界の村を歩く」。このテーマは、非常に超大であるため本格的に取り組むことに躊躇していましたが、そんな海界の村も急激にゴーストタウン化が進んでいます。そろそろ取りかからないと記録に残せなくなってしまう。軽く10年はかかるでしょうから、少々怖じ気づいておおりますが、この大きな旅にいよいよ足を踏み出してみようかと思います。 |
2010年1月9日 沖縄県渡名喜島にて |