若桜但馬丹後 山水紀行
<いらかぐみ 第4回オフ会>

 


町並みWeb集団「いらかぐみ」の好例のオフ会が今年も開催される。今年は近畿地方ということで、丹後半島の水上集落「伊根」が集合地だ。
例年同様、各メンバーは集合地以外では一緒に行動することはしない。勝手気ままなルートで伊根に集まるのである。これは、仲が悪いのではなくそれぞれの町歩きに対するスタンスや好み、興味の所在に違いがあるからなのだ。はたから見れば同じ人種に見えるけれども、それぞれの探訪方法は違うのである。
 
金曜日の夜、仕事を終えて一度自宅に戻り旅支度をし、遅い時間の新幹線に乗った。京都駅に23:00着。駅前の24時間営業のニッポンレンタカーでダイハツブーンを借り、雨の中、一路ブーンと鳥取に向かう。中国自動車道山崎インターからは国道29号線(若桜街道)を北上する。兵庫鳥取国境の戸倉峠を越え、深夜3:00に八東町用呂付近に到着。ちょうど道の脇に路側帯があって、すでに長距離トラックが2台お休みになっていた。私も2台に挟まれ、狭い車内で仮眠をとることにする。うとうと状態から何やらうるさいと思ったら、後ろに低音で音楽を流しているカスタムワゴンが停まっている。しばらくしてワゴンは去り、辺りはまた静まり返った。
目が覚めると雨は止み夜が明けていた。車外に出て思い切り背伸びをする。なんと気持ちのよい朝であろうか。国道の向こうには八東川が流れ、この旅最初の訪問地である用呂集落が私が来るのを待ち構えている。土曜日の朝5:30から山水紀行がスタートする。
用呂(鳥取県八頭町)
時速100km以上出していると思われるほどかっ飛ばして来る車に注意して、早朝の国道29号線を横切り、用呂集落へ渡る八東川の細くきゃしゃな橋を渡る。この集落は、「日本の集落2」で空中写真で紹介されている程度のもので、何があるか見当もついていない。橋を渡ってまず左側の下用呂集落から歩く。
下用呂の最も下流側の端から集落に入っていくと、大きな茅吹屋根の民家が現れた。国指定重要文化財矢部家住宅との表示がある。主屋は江戸前期のこの地方の形態をよく表している民家で、大きな反り棟である。屋敷は八東川の氾濫に備え石垣で敷地がもち上げられており、赤瓦をのせた城郭のような門や付属屋て囲まれている。その矢部家の前の道を辿っていくと、1m程度の石垣が続いている。石垣の下にはきれいな水路が流れていて、流れの川上には因伯の名水「用呂の清水」と表示された湧水池があった。集落は主屋と土蔵が寄り添った家が多く、赤瓦と黒瓦は混在している。
上用呂との間は近接しているが家並みは途切れている。上用呂は小さい集落であるが、ここでも湧水がありきれいな水の流れに沿った心地よい町並みが見られた。
朝5時台の集落探訪であるが、村の人はもう農作業をしており「あいつ何してるんだ?」ってな感じで怪しまれているのが伝わってくる。全く無名な集落なだけにやりづらい。
若桜(鳥取県若桜町)
国道29号線を戻る。右には若桜鉄道、左は八東川というのどかな農村風景が広がっている。若桜市街へ入り、若桜鉄道の若桜駅前に車を停めた。若桜鉄道は、鳥取からの因美線郡家駅からの旧国鉄若桜線で若桜駅が終点となっている。可愛らしい駅にはディーゼル車が停車していて客を待っている。駅前には次々と車がやってきて学生が下ろされ改札へ走っていく。
駅前に立って眺めると、町の背後の山の上には中世の鬼ヶ城跡があり町を見下ろしている。駅前通りを300mほど歩くと旧若桜街道とクロスする。この旧若桜街道の商店街は「カリヤ通り」と呼ばれる。カリヤとは、平入町家の1階表側の下屋空間のことで、大火後の整備で明治18年(1885年)以降に発生したものという。道路幅を広げ水路を設け、奥行き4尺のカリヤをつけるようになった。若桜は西日本といえども日本海側の山沿いで、冬季は雪が多い。カリヤは新潟の雁木、青森のコミセと同じようなアーケード空間だったようである。
カリヤ通りと並行する裏通りには、各町家の土蔵が並んでおり、通称蔵通りと呼ばれている。表通りの町家の裏側にあたり、1軒あたり2つ持っているようでびっしり蔵が並んでいる。若桜は山陰の山沿いの2つの姿を見せてくれる町並みであった。
つく米(鳥取県若桜町)
兵庫県国境の山村は「日本の集落2」で紹介されている。今回はその内の一つ、氷ノ山(ひょうのせん)の麓にあるつく米川流域の2つの集落を訪ねることにした。氷ノ山は、兵庫県と鳥取県の国境山塊の総称で、須賀ノ山1510mを主峰に1000m〜1500mの山が連なる。中腹の高原はスキー場やキャンプ場が集まっている。
若桜の町から氷ノ山スキー場の看板に導かれつく米川を遡ってゆく。まず一番上のスキー場まで行ってみる。眺めの良い場所に立ちつく米の棚田を見下ろす。
つく米集落はつく米川流域の最上部の集落で、河岸段丘の高いところにある。つく米神社に参ってから集落に入ってゆく。切妻のシンプルな民家が方向性も無く集まっており、トタン屋根には雪止めが取り付けられ西日本ながら雪深い土地であることをうかがわせる。特徴としては土蔵が多いことがあげられる。その土蔵の土壁の上には雪除けの下見板が貼り付けられていのだが、その上部にガラス瓶を砕いて漆喰に貼り込んだボーダーが廻っていて、きれいに光っていて美しい。
つく米集落は真ん中をスキー場への新しい道路が橋のように横切っていて景観的には残念なのだが、橋の下にはたくさんのツバメの巣があった。そこで待つ子ツバメに餌を運ぶため、物凄い勢いでたくさんの親ツバメが飛び交っている。中国山地の山深い土地であることを実感させられる集落であった。
落折(鳥取県若桜町)
私が集落町並みに嵌まる前、秘境探訪ばっかりしていた時期がある。長野県の秋山郷や遠山郷、熊本県五家荘など、全て落人伝説のある山里だ。その頃、「落人伝説の里」という本を呼んで落折集落のことを知った。鳥取兵庫国境の峠近くの山里は、落人伝説があり、地名もかつては「落居」(落武者が落ち延びて居ついた)といい、村の全てが「平家姓」という。それを知って、ものすごく興味を抱いていた。今回、無理して鳥取に来たのも落折を訪れたかったからである。
現在の国道29号線は関西と鳥取を結ぶ主要幹線、道幅も広くトラックなど交通量も多い。戸倉峠を越えて鳥取に入ってすぐ右側に見える道路脇の集落、それが思い焦がれた落折集落であった。イメージとはずいぶん違っているので半信半疑で集落に入っていくが、直ぐ見つけた墓地の墓標が全て「平家」であったのを見てジーンときた。集落は旧若桜街道に沿った短いもので切妻平入の民家が寄り添って連なっている。半ばから家の谷川に沿って家並みが分岐しており農地へと延びている。人家が途切れその道を400mほど行くと、大きな岩がごろごろしている場所が有った。そこが平家の落武者が隠れたという洞窟である、いや、洞窟というより岩の狭間という感じだ。20人もの落武者が隠れるような大きさではない。
洞窟から集落に戻るとき、集落が山間にひっそりと抱かれているのが見えた。やっと現実の落折集落といままでイメージしてきた秘境の落折集落を重ね合わせることができた。
(兵庫県大屋町)
前に兵庫県生野町口銀谷を歩いたとき、「ぼくらはまちなみたんてい団」(なんたんまちなみたんてい団)という本を買った。この本は、但馬地方の町並みや集落をつぶさに紹介しているものだが、その中で木造3階建ての民家が集積している地域の集落がいくつも掲載されていて大変興味を抱いていた。鳥取県の落人伝説の里から県境戸倉トンネルをくぐり、兵庫県の木造3階建て民家の集積エリアを目指す。
若桜街道の国道29号線から県道大屋波賀線に入り若杉峠を越える。峠から木造3階建て民家の有る谷を見下ろす。
峠を下ると背の高い切妻の民家が現れ始めた。「まちなみたんてい団」で紹介されている筏地区を歩く。この集落は大屋川の上流域でも最も木造3階建ての民家が集積しているのではないだろうか。養蚕のために生まれた民家の形態はユニークなものが多く、場所場所で様々な形態が見られる。但馬地方のものもその例外ではない。但馬地方の町家は本卯建が特徴であるのは有名な話だが、そのスタイルが農家にまで影響している。建物が隣り合っていて延焼を防ぐための機能が卯建なのであるが、隣棟間隔が開いている農家では必要が無いはずである。それでもついているとうから面白い。機能性というよりはデザイン上ついているという典型である。
大杉(兵庫県大屋町)
筏から車で五分ほどの大杉は大屋川の北岸の集落。ここは比較的大型の木造3階養蚕民家が目白押しに残っている。ここは筏に比べて茶色い土壁色ものが多い。
養蚕農家は1階は居住空間なので階高が高く、2、3階は蚕室なので高さが低いものが多いが、大杉地区のものは2、3階の高さが高い。従って2、3階の窓は間に壁の部分がつくれるので、窓が同じ竪位置についてる。ところが一方で2階の窓に雨が吹き込む確率が高くなるのであろう、2階にも庇が付いている。このような養蚕農家の中には、2階の庇が3階の窓の下辺にかかるように浮かして付けられており、造形的に面白い。
大屋町の中心大屋市場から支流の明延川を上流方向に走る。右に左に曲がる川沿いは田園地帯。その一つ、和田という集落には集まってはいないが木造3階建養蚕民家の大きなお屋敷があった。集落を形成しているほどではなかったので、大杉集落のページに掲載することにした。
(兵庫県養父市)
大屋川を下って養父市(旧養父町)に入っても木造3階建養蚕農家の集落は続く。左近山という集落は今までの平地のものとは違って斜面に石垣を積んだ集落である。車を置いて膝を壊して痛いにもかかわらず、がんばって上ってみた。だがあまり見るべきものは無し。
次に大屋川の支流畑川を上って行く。狭い谷間の僅かな平地に水田が作られている。畑という集落はその谷間に家々が石を積んだ屋敷地に建ち集まっている。大杉地区同様、高さが高く窓が開口部が大きな養蚕農家が見られた。中には入母屋屋根のものもある。大屋川流域でも特に養蚕が盛んな集落だったのかも知れない。

養蚕による民家の形態の変化には地域ごとに独特な発展過程を持っている。但馬地方の養蚕地域の集落景観は、地形といい、大都市との位置関係といい、民家の形態といい、関東の群馬県のそれと重なるように思えた。
養父市場(兵庫県養父市)
「日本の集落」というバイブルとしている本に養父市場の俯瞰写真が掲載されている。円山川沿いの街村形態にかねてから行ってみたいと思っていた。「何で市場っていうんだ」という疑問もあった。市が立って地域の商業中心となった市場町は多いが、地名に「市場」がつくものは中国地方に多い。今では珍しくは思わないのだが、かつては不思議に思っていた。
養父市場の町並みは、想像していた軒の連なる町並みは少々違っていて、財を成した大きな民家が隣棟間隔を開けて並んでいた。但馬牛、鯉の養殖で栄えたのであろうか。現在でも但馬牛の店があり、鯉が飼われた池が見られる。
この町を端から歩いていると向こうのほうから町並みを盛んに撮影している怪しげな2人が歩いてきた。養父市場に町並みを目的に偶然3人もの人間が出会うことは珍しい。2人組は「いらかぐみ」の西山さんと孫右衛門さんであった。二人とも今晩の伊根集合の前に但馬地方を歩いていたのである。3人が偶然にここ養父市場で出くわしたというわけだ。普通の仲間ならせっかく会ったのだから伊根まで行動をともにするのだろうが、そこがマイペースな「いらかぐみ」。しばらく一緒に町を歩いてから「それじゃ後で」と別れ、それぞれがそれぞれの行程に戻ったのだった。よそから見たら不思議なオフ会だと思われるであろう。
八鹿(兵庫県養父市)
孫右衛門さんが養父市場に来る前に歩いた八鹿の町を、私は養父市場の後に歩く。大屋町筏集落でも孫右衛門さんの歩いた時間とは2時間の差しかなかったようだ。こういう会ったり離れたりの旅は、後で酒をあおりながら「今日は何処へ行った。あの町で会うとは思わなかった・」などと話題にするのがまた面白い。
八鹿は「日本一のうだつのまち」というフレーズで売り出している。確かに本うだつは多いことは多いが日本一とはやや言いすぎであろう。岐阜県の美濃に「おいおい」と怒られるであろう。美濃に比べて本うだつの印象が薄いのは、少ないからではなくて屋根が高く通りから見えにくいからである。和田山のほうがまだ本うだつの町並みとしては出来がいい。
しかし、なぜ但馬地方には本うだつが流行したのであろうか。町家でも農家でも見られるというから面白い。町並みの端っこにかつて製糸をしていた郡是の工場(グンゼ)の中に洋館の事務所が残っていた。関東群馬県で言えば富岡のような位置関係にある町である。
亀島平田(京都府伊根町)
「いらかぐみ」オフ会は第四回を数える。今回、初めて参加されるサイト「Yasukoの心象風景」のYasukoさんと宮津駅前で待ち合わせている。私は宮津でレンタカーを返却し、駅前からYasukoさんの車に乗せてもらって伊根へ向かう。
伊根ではみんな到着して待っていた。宿の民宿「おくや」は昔ながらの舟屋を客室にしているということで、厳選して予約した宿である。「いらかぐみ」オフ会となると、やはり細部にこだわった場所でなければならんのだ。母屋は道路を挟んだ山側で、お風呂と食事は母屋で済ます。舟屋の部屋に戻って伊根湾を眺めながらお酒を飲んで町並み談義である。
民宿のおばさんが外で「夜光虫が出てるよ、見てみなさい」と叫んでいる。バルコニーから見下ろすとおばさんが海に向かってホースで水をまいた。すると海が緑色にきらきらと光った。
宴会をお開きにし、明かりを消し布団にもぐる。枕元ではぴちゃぴちゃと波が音を立てている。まるで船の上で寝ているような感覚である。
翌朝、われわれは一艘の漁船をチャーターし、伊根湾を自由に周遊した。なんとも贅沢な遊覧船である。1時間半たっぷりで、伊根湾の入り口にある青島にも上陸できて、全員で3500円は安い!。伊根を思う存分堪能することができたオフ会であった。
宮津(京都府宮津市)
伊根の道の駅で解散し、七ちょめさん、西山さん、Yasukoさん、私の4人は宮津の町を歩くことにした。七ちょめさんは前に歩いているということで私どもを引率する。サイト「古い町並みを歩く」での詳しい解説のように町の見所と的確な解説を挟んで案内してくれた。
宮津には昭和初期の「全国遊廓案内」に掲載されている遊廓のあった町。となれば、「いらかぐみ」遊廓探訪班であるYasukoさんと私がおとなしくしていられない。七ちょめさんと西山さんを置いて路地を隈なく歩く。
宮津で七ちょめさん、Yasukosさんとはお別れ、西山さんの車に乗せてもらう。舞鶴にも見ていない遊廓があるということで期待して中舞鶴を訪れたが、これが完全なるスカ。
西山さが綾部のグンゼ工場を見たいということで、急いで綾部に向かった。
綾部(京都府綾部市)
綾部は養蚕地域の真っ只中、郡是の企業城下町として発展した町。関東で言えば群馬県桐生のような町である。郡是の工場には博物館があり近代洋風建築も残っていた。
工場の周りには社宅もある。一般の社宅の中に明らかに幹部住宅と思われるものもある。こういう工場施設が構内に閉じているのではなく、町の中にプラグインされているのが企業城下町であり面白いところである。
工場から山陰本線の線路を越えると旧市街である。郡是工場から旧市街へは一本の通りで繋がっており、その通り沿いが商業の中心地だ。つまり駅前が商業中心なのではなく工場との位置関係が重要になってできている。さらに面白いことに、その通りの終点に遊廓があった。綾部は、企業城下町の典型ともいえる都市構造を見出すことが出来る町であった。

西山さんに京都市内まで送ってもらった。今晩は京都市内のホテルに泊まって、明日は仕事で岐阜県多治見市に行かなければならない。
多治見(岐阜県多治見市)
新幹線で名古屋に出て中央線に乗り換える。今日は仕事で多治見の工場検査である。せっかく多治見に行くのであれば町を見ずにはいられない。鳥取県の若桜地方から始まったこの旅、但馬、丹後と繋がってきたのに、なぜか離れた岐阜で終わる。ちょっとへんてこだが、まあいいではないか。

多治見は日本でも屈指の焼き物の町である。織部焼の問屋街があって歴史の町並みを形成している。集合時間の1時間半前に多治見駅に到着。町並みは駅から遠いので、タクシーで一番遠い場所まで行ってから戻るように歩く。「オリベストリート」と名付けられた通りには商家が並んでいる。アーケード街の中にも立派な商家の建物が残っていた。産業町として見ごたえのある町であった。

仕事は町の外れにあるタイル工場で、現在東京丸の内で復元工事が始まっている三菱一号館の煉瓦の製品検査である。昼食は偶然にもさっき歩いたオリベストリートにある鰻屋さんだった。
「さっきこの通りを歩きましたよ」「えっ?何でこの道を歩いたんですか?」
またややこしい説明をしなければならない。