広島プチ復活探訪

 2008年「日本建築学会大会」が広島大学で開催された。今年は、東京丸の内で復元工事中である「三菱一号館」の復元設計を発表するために会社の上司・同僚とともに参加した。せっかく行くのだから歩きたい集落町並みもある。しばらく休止していた探訪をプチ復活させることにした。

 羽田6:50発ANA広島行は、幸運にも台風の影響を受けず10分遅れで広島空港に降りた。路線バスで最寄りの白市駅まで行き、山陽本線に乗り替えて三原市糸崎へ向う。台風は四国の南海上を東進しており天候は不安定である。

 

糸崎(広島県三原市)
 糸崎は今まで何度も鉄道や車で通り過ぎていた街。工場地帯だし、糸崎発着の列車があるので操車場か何かあるだけだと思っていた。ところが糸崎は港町で、ここにはかつて遊郭があったという。

 駅を出たら雨が激しくなってきた。傘を斜めにさしながら、国道2号線と線路の間の通りを尾道方面へ歩いて行く。やがて国道2号線と合流し線路の向こうに古そうな家並みが見えてきた。細い陸橋で鉄道を跨いで町に入っていく。下調べでは、港の船溜まりを取り囲むようにある町のうち、東側が遊郭だったと思われる。駅から遠く列車の時間を気にしながらメインの町並みを歩きたくないので、先に旧遊郭を歩くことにした。路地路地と入っていくと現れました、1階格子戸、2欄干または全面ガラスの妓楼建築が。この2階全面ガラスのスタイル、ほかの遊里でも見かけるものの瀬戸内地方では特に印象深い。
 港に面する通りに出てみると、ずらっと妓楼が並んでいるではないか。久しぶりなのでやや興奮気味にシャッターを切る。向こうからおっさんが「何撮ってるんだろう」という顔をして私の方にやってくる。久しぶりの町並み探訪ゆえ、少々弱気になっている自分に気付く。隠れるようにでも自然に路地に戻り、国道2号線の立体交差壁脇に出て町の端っこから回り込むようにして、再び港に面する通りを歩きなおす。もうあのおっさんは居なかった。

 港に面する町並みは屋根と1階庇の軒線がそろった町並みで、途中に洋風看板建築もあり、町並みとして整っている。それは対岸の防波堤から水越しに眺めるとなおさら良い。港の西側の町並みは遊里ではなさそうで、住宅と商家が混ざっていた。出会ったおばさんと挨拶を交わす。ようやく調子が出てきた。
 広島駅から市内の十日市交差点へタクシーを飛ばす。「いらかぐみ」メンバーの一人、広島在住の孫右衛門さんと会う約束をしている。今日は平日、彼の昼休み12:00〜13:00の間に職場の近くで一緒に飯を食べようというもの。十日市交差点は「戦災復興都市広島+路面電車の街広島」の両面をすぐさまに理解できるほど広々とした交差点で、3方向から路面電車が行き来するジャンクションになっている。交差点の角にはポイント切り替えが手動時代に使われていたと思われる、変わった信号所の建物があった。それを眺めていたら向こうから孫右衛門さんが時間ピッタリにやってきた。
 食事処として連れて行ってもらったのは、今広島でにわかにブームとなっている「冷麺」。淡白な麺の上にキュウリ・キャベツ・ネギ・チャーシューをどっさりのせ、辛いツケダレで食す。最初はやや物足りない味だが、だんだん舌がヒリヒリしてくる。なるほどこれは病みつきになりそうだ。「冷めん家」ではメニューは一品だけで、客は辛さだけを注文している。孫右衛門さんの好みをマスターは覚えているようで、彼には激辛ダレが出されていた。

 冷麺のあとは孫さん行きつけのカフェ。彼は10月に群馬県だけを三日間かけて探訪する計画を立てている。往路はなんと京都から夜行バスで高崎に入るというマニアックな手法を用いている。そして県内十数か所を訪れるとってもヘビーな計画。あそこはいいぞ、ここは時間がかかるぞ、などなど群馬県の話で盛り上がったら、すぐに別れの時間が来てしまった。


広島(広島県広島市)
 孫右衛門さんから珍しい集合住宅が残っているので見に行ったらどうかと京橋会館を紹介してくれた。駅前大橋のすぐ近くである。

 京橋会館は、昭和29年に広島県住宅公社が設計した集合住宅。何が珍しいかって台形状のロの字型平面であること。西欧の市街地住宅としてはストリートウォールを形成し中庭を持つロの字型平面はありふれているが、我が国ではなかなか見られない。これだけ道路境界線ぎりぎりに建っていてバルコニーがないのは、日本人から見るとちょっと見慣れないであろう。また、日本人が北向き住宅を好まないこともロの字型が成立しにくい要因なのかもしれない。いずれにしても、珍しい=際立って見える建物なのである。 建物内に入ってみると共用部に椅子が置いてあったり洗濯物が干してあったり、長年使われた集合住宅らしく生活感が共用部に滲みだしている。

 広島駅は城下町の定石通りに中心市街地から離れている。戦後、駅前には闇市ができ、現在でも闇市から発展した愛友市場がある。電車道を渡った猿こう橋町は昭和の商店街だったが今ではゴーストタウン。再開発の時期を待っている。愛友市場も再開発の話が持ち上がっているそうだが、なかなか手がつけられないそうだ。東京でも有楽町駅前の闇市から発展した町がついに再開発された。そのことがいいか悪いかは別にして、県庁所在地の新幹線も止まる駅前にこのようなエリアが残っているのはいまや珍しい部類に入るのかもしれない。



 広島駅駅ビルのスタバで会社の上司と同僚と合流して厳島神社へ行く。建築を業とする者、世界遺産にもなっている厳島神社とその周りの宮島の町を知らないと潜りと言われてしまう。改めて厳島神社を見て、このような水上に建築を造った昔の人の発想には恐れ入る。本殿の隣にある能舞台までもが水上にある。見る者は回廊からになると思うがやや遠すぎないか。しかし秋晴れとはいえ、台風一過の晴天はとんでもなく暑い。汗びしょびしょになりながら宮島の町を巡った

 宮島からは原爆ドームのそばの船着場まで「世界遺産航路」という水上バスが運行している。これはいいぞと水上バスに乗ったものの、今朝早起きしたためかずっと居眠りしてしまい、船から広島の町の風景を楽しむことができなかった。
 原爆ドームは生まれて初めて見る。この建物を残すか、忌まわしい記憶なので壊すか議論されたこともあるそうだが、私は残してよかったと思う。被災したままの状態で存在し続けている原爆ドームを眺め、このドームの真上で原爆がさく裂したと思うと胸が苦しくなる。この遺構は間違いなく戦争の経験のない時代の私たちに、間違いなく戦争の恐ろしさを伝えてくれる。
 そしてもう一つ。爆心地に近い大手町に戦前の建物である日本銀行広島支店が残っている。これには驚いた。鉄筋コンクリート造だったとはいえ、よくぞ残ったものだ。

 

 翌日は早朝に広島大学へ直行、この出張の目的である日本建築学会大会での発表だ。発表といっても自分は何をするわけでもなく、同僚がすべてやってくれる。楽ちん楽ちん!

 早々に目的の仕事が終わってしまった。広島大学は広島市街から直通バスで一時間かかるとんでもない山の中にある。最寄駅が山陽本線西条駅だが、そこまでタクシーで行っても2000円弱かかるのだ。何でこんな所に大学を移したのだろうか。学生がかわいそうだ。聞いた話だが、何もない場所なので、やたら学生同士の同棲率が高いとか・・・。
 午後には別の同僚の発表があるが、とても大学内で時間はつぶせない。みんなで昼食がてら西条の町を歩くことにした。私は2003年に訪れたが、以来かなり町並み整備が進んだ気がする。しかし、旧山陽道の町並みが駅前エリアの道路拡幅によって分断されてしまったのは残念でしかたない。



広島基町(広島県広島市)
 広島大学へ戻り、午後の発表を聞いた後、帰りの便までは時間がある。広島市内に戻れば1時間半は歩ける。現代の集合住宅建築の代表的なもののひとつである「基町高層アパート」を同僚一人引き連れて見に行くことにした。
 
 戦後、基町一帯は「原爆スラム」と呼ばれた木造住宅が密集したスラム街が形成されていた。この原爆スラムの再整備と住宅不足を解消するため、4500戸を高層住宅として建設することとなった。エリア内には同時に、学校、集会所、ショッピングセンターを、太田川沿いやスラム街の跡地に公園緑地を整備するという大プロジェクトだった。こうして基町高層アパートは1972〜1976年に竣工した。設計は大高建築設計事務所(大高正人)。当時としては大変センセーショナルな建築で、今では建築計画学の教科書には必ず載っている集合住宅である。
 基町高層アパートは、建築を都市レベルで建設した早期事例として見学すべきであるが、私の場合どうしても集落町並みWalkerの目で見てしまう。建物は最近のマンションのようにセキュリティなどなく、誰でも上層階に上れる。10階でエレベーターを降りて共用通路を端から端まで歩いてみた。ところがどうして、これが大変面白いのである。板状の住棟は共用部の通路が二層毎のため天井高さが高い部分があり、集落内の路地のようである。各住戸へは通路に直接玄関があるタイプと、通路から階段をがって入るタイプがある。さらに通路は折れ曲がり、住棟を連結しており延々歩いていける。これらは、密集漁村を歩いている時のおもしろさに通じる。また、住棟に囲まれた中央部には人工地盤の緑の丘があり、丘の上には緑地と集会所、小学校への通路が計画されている。人工地盤の中はショッピングモールで、地下には駐車場が配置される。人工地盤部分の発想は、現代では古いものであるが、ここもまた集落町並み探訪の視点で見るといろんな現象が起きていて面白い。

 人工地盤下のシャッター街ショッピングモールの裏手にお好み焼きの暖簾を発見。この街のお好み焼屋で広島名物を食べて帰ろうということになった。店のおばちゃんに、ショッピングモールのことを聞いてみた。お店はみんあ木造密集地区にあったものが移ったという。当時の人々はいったいどんな気持ちで移ったのであろうか。慣れ親しんだ町を離れ街が壊されるさびしい気持ちか、それとも最新の高層住宅に住まうことに胸躍らせていたのか。いずれにしても、今の基町高層アパートは当初の役目を終え、活気のあまり感じられないさびれた集落と見えてしまう。しかし、そこには長い時間によって染み込んだ生活臭があり、立派な集落となっていた。


 私は現在、活動を休止している期間であるが、学会大会への参加に絡めて広島の町を歩くことができた。やっぱり集落町並み探訪は面白い。早速、活動を再開すればよいと言われるかもしれないが、身の上の状況は変わっていない。今は、眼の前の問題解決に全力を尽くし、いつか安心して旅ができる日が来ることを願う。