南九州V 九州山地〜東部 (2003.04.23〜24) 

薩摩半島から東シナ海沿いに北上してきたが、ここから九州山地を横切って太平洋岸へと進路を変える。内陸部では、九州山地の山岳集落が興味深いが、8年前に五家荘、椎葉村を巡っており、今回は西米良村を探訪することとした。太平洋岸では重伝建地区である美々津から南下する。

人吉
熊本県人吉盆地の中心都市で、日本三大急流のひとつ球磨川を挟んだ城下町である。球磨川の南側に城址と武家屋敷町、北側が商業地となっている。鎌倉時代から約700年間にわたって相良氏の城下町として発展、近代は製材、竹木材加工、和紙製造業で栄えた。商業地は温泉場でもあり、駅付近から3kmにわたって林・相良・昭和・極楽・地獄などの温泉がある。
川の南側地区は、城址の石垣と大手門、武家屋敷が1棟保存されてる程度で、古い町並みには至っていない。川の北側は、所々に古い町家が残っており、寂れてはいるが温泉客や地域の中心地らしく夜はネオンの賑わいを見せていた。

人吉は日本三大急流のひとつ、球磨川下りの出発地。(写真は20年前に撮影したもの)

淵田酒造

国道445線に並行する1本北側の通りに古い町家+昭和戦後の町並みが見られる。

公衆浴場「新温泉」。建物、脱衣所、浴室、体重計など、どれをとっても時間が止まっている。ノスタルジーマニアは必見の銭湯。この先の路地を入っていくと2階バルコニーの古い建物があったので、この辺りはかつての遊郭であったのかもしれない。

球磨川の大橋を北側に渡ったあたりが商業中心で、夜のネオン街は昭和の地方歓楽街の雰囲気を残す。
「銀の露ビル」という名称といい、角にタバコ売店がついている形状といい「昭和」である。

国道445号と川の間に一皮、3階建が並ぶ一角がある。香港の町角かと錯覚するような町並み。
 

米良村所 米良狭上
米良荘は九州山地南東部、一ツ瀬川の上流域一帯を指す地方称で、現在の宮崎県西米良村、西都市東米良地区・寒川地区
辺りをいう。谷が深く平地が無いため、集落は尾根の緩斜面を見つけるように形成されている。
米良荘は現在宮崎県だが、かつて人吉藩(熊本県)に属し、菊池(米良)氏がまかされて支配していたから、昭和18年に米良街道が高鍋へ開通するまでは熊本県との関係が密接であった。いまでも村内で済まない買い物は熊本県湯前へ出るようである。
村所は西米良村の中心で一ツ瀬川の谷と支流板谷川の谷が合流する地点にあり、米良街道に沿って町並みが形成されてる。米良荘は集落が山の上にある「天界の村」なので、谷底の米良街道からは余り集落が見えないが、村所にくると突然人家が現れたという印象である。村所の町並みには古い建物は僅かながら残っていた。また、1500年頃から幕末に至るまで米良荘を領していた菊池氏の子孫が住んでいた住宅が、記念館として村所に保存されていた。
米良荘では伝統芸能の夜神楽が毎年12月に催される。九州山地では高千穂の夜神楽が有名であるが、米良神楽はあまり知られておらず素朴で、村の各所で順番に行われる。狭上稲荷大祭は最初に行われる場所で、村所から細い山道でひと山越えてようやく辿りつく場所にある。1軒の社務所をかねた民家があり、人が住んで稲荷を守っていた。

村所の米良街道の町並み。

菊池記念館。この上に歴史民俗資料館があり、菊池氏、焼畑農具の展示が見られる。

村所の一ツ瀬川の対岸にある集落。石垣を積上げ、段々状に宅地と水田を造っている。

狭上稲荷に向かう山道沿いの民家。

狭上稲荷に向かう山道沿いの民家。

狭上稲荷の社務所をかねた民家。5,6年前まで藁葺き屋根だったそうだ。旅番組の一コマのように、縁側に座ってお茶と漬物を頂いた。

狭上稲荷の参道。いくつもの鳥居をくぐって辿りつく。
 

十根川
椎葉村は九州山地の山岳集落の見られる最大の村である。椎葉は耳川の上流域一帯を指す地域称で、米良荘、五家荘、五木村と同様、近世は人吉藩の支配下にあった「天界の村」である。8年前にすべての谷のめぼしい集落を訪ねたが、十根川集落を見落としていた。その後、重伝建に指定され「しまったー」と後悔をしていた。今回は行く予定ではなかったが、欲張っていってしまおうと計画変更しエッチラオッチラ飯干峠を越えた。
十根川集落は椎葉村の中心である上椎葉から五ヶ瀬町へ抜ける国道265号線の途中から東へ入ったところにある。九州山地の山岳集落は、同じ「天界の村」である長野県遠山郷や奈良県十津川、徳島県祖谷山とに比べて集落ごとの戸数が少なく、割りと散在している形態だが、十根川集落は石垣で宅地を段々に造り民家が集まっている。等高線に沿って細長く一列に配棟し、部屋も一列に並べる平面形が特徴である。

等高線に沿って石垣で宅地を段々に造り、主屋や付属屋を一列に並べる。家の中も部屋が一列に並んでいる。

各家の規模が他の集落より比較的大きく、立派な石垣を築いているところを考えると、裕福な農家が集まっていたのであろう。
 

どこまでが敷地内の庭か共用の通路かわからない。最上段に最も大きい住宅があった。

屋根は瓦葺。山側の軒は隣の家の前庭より低い。
 

美々津
美々津は九州山地の椎葉を源流とする耳川の河口南岸に形成された古い港町である。神武天皇東征の船出の地として知られる。江戸時代は高鍋藩の港として海上交通の要衝であった。また、陸路でも日向街道の宿場であり、美々津千軒と言われるほどの規模を誇っていた。
町並みは海岸線に沿った3本の通り、上町、中町、下町に展開しており、海と反対側の丘に寺社、墓地が配置されている。重伝建に指定されて町並みの修景も進んでおり、古くない建物は古い建物に合わせた外観で造られている。従って、修復されていない古い建物は一目瞭然だが、ぱっと見どれが古い建物なのかわからない(ほとんど古い建物と思われるが)。したがって、町並みとしては統一感があって美しい反面、造った江戸村っぽい感じも受けてやや残念であった。3本の通りが突き当たる漁港近くには明らかにオリジナルの町家が集まっており、傾斜する通りとアイストップに港が見えて良い空間が味わえる。

上町から港方向をみる。

港際より上町の町並みを見る。

中町の町並み。最も修景が進んでいるので美しいが、郷愁をそそる古い町並みという点では薄れてしまっている。

廻船問屋旧河内屋。現在、歴史資料館となっている。
通り庭をもつ関西風の大規模な町家。妻入二階建の正面に通り庇が付き、1階は京格子でバッタリ床几(可動式越しかけ)が付く。

妻入通り庇付き町家で、左右どちらかに下屋を付ける例が多い。


高鍋
高鍋は秋月藩の居城のあった城下町で、現県立高鍋農業高校の東側の筏地区に武家屋敷町の風情が残る。
武家屋敷町の東側には古い町家が残っている一角があった。

筏地区の武家屋敷塀。

筏地区東側の町並み。

筏地区東側の町並み。

筏地区東側の町並み。
 

高岡
高岡は宮崎市の西部、大淀川に沿った城下町である。大淀川はかつて交通に利用されていたが、その当時は川湊もある賑わいのある日向街道の宿場町であった。町北部の山城の麓に武家屋敷町、旧日向街道沿いが町人町であった。町家には古いものはないが、武家屋敷の佇まいは残っている。

 

前田
霧島連峰の北西の高崎川に沿った開けた土地に、郷士集落前田はある。人吉と飫肥を結ぶ飫肥街道の旧道に沿って石垣+生垣の町並みが残っている。古い住宅は入母屋で、周囲に下屋をめぐらす薩摩地方共通のスタイルで、敷地の隅に共通して神を祭っている。これは出水でも見られた。


石垣+生垣の前田の町並み。

比較的新しい塀と思われるが、アーチの意匠が見られた。

石塀+植栽+入母屋屋根

敷地隅に神が祭られている。