宇和島(愛媛県宇和島市) |
宇和島の町は城山を取り巻くように市街地が広がっている。城はもともと海に面していたので旧市街は城山の東、南側に広がっていたが、現在では海側の埋め立てが進んでいるため、城山が町の真ん中に座っているような形になっている。
広い町を車で流すが古い町並みらしいところは見つからない。宇和島は戦災で殆ど焼けているのでしょうがない。ところが陸の無かったはずの港近くに古い洋館が建っていた。埋立地に移築保存された建物で現在歴史資料館になっている。
城山の東側はアーケードのある商業中心地である。アーケード街は車が通れないので裏通りを走る。そこはネオン街。商店街の裏通りが飲み屋街というお決まりのパターンである。延々と続く飲み屋街は南の端で外堀の線形に沿って西へ折れる。そこに思い出の木屋旅館が現れた。「残っていたか!」10年前の記憶が蘇ってくる。周りには戦前の建物が並んで残っていた。
宇和島旧市街のうち、城山より南のエリアにあたる武家屋敷町の一部は戦災を免れたようだ。佐伯町もその一つで、武家屋敷の土塀や古い造り酒屋の建物が残っていた。 |
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松丸(愛媛県松野町) |
昨晩宇和島までがんばって走ったのは、交通の便の悪い松丸と岩松を歩くためである。宇和島から土佐街道(松丸街道)にあたる国道320号線を走ると山間に霧がよどんでいる。高原地帯を走っているような錯覚に陥る。秋の伊予地方はこのような霧が出ることが多いようだ。
松丸は予土国境近くの町。立派な造り酒屋が二軒歴史を感じる佇まいを残しているほか、旧松丸街道に沿って古い民家が多く残っており見ごたえがある。朝靄が演出効果になっててとても幻想的だ。ずっとここに佇んでいたいような気持ちになった。 |
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岩松(愛媛県宇和島市津島町) |
再び霧の土佐街道を宇和島に戻って今度は宿毛街道にあたる国道56号線を南下する。松尾トンネルを抜けると岩松川が寄り添ってきた。川の対岸に岩松の町がある。旧道は細く車で流すのに気を使うほどだ。商店街の駐車場に停めて長い町並みを歩く。
写真を撮りながら歩いていくと被写体として避けたくなるほど派手に「てんやわんや・・・」とあちらこちらの看板に書きまくっている店がある。そういえば駐車場の壁にも書いてあった。「てんやわんや?」「漫才師のてんやわんやの生まれ故郷なのか?」と思ったがそうではない。岩松は小説「てんやわんや」の舞台になった町だった。「てんやわんや」で町おこしであろうか・・・。 |
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吉田(愛媛県宇和島市吉田町) |
岩松から南は二週間後に訪れる四国西巡礼後編に任せることにし、松山へ戻りながら集落町並みを巡る。三度、宇和島市街を抜け宇和島湾の入り江に面して作られた家中町吉田を訪れる。
町には鉤曲があって陣屋町らしい。町の中ほどを川が横切っていて護岸に石垣が綺麗に積み上げられている。この川は横堀といわれ町の北端にあった城の堀を形成していたという。横堀の南側が町人町で北側が武家屋敷町だった。
整然とした町割りの町人町の裏手を歩いてみると長い建物があった。その意匠から遊廓だったのかもしれない。 |
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宇和(愛媛県西予市宇和町) |
宇和町卯之町は1995年以来の再訪である。この町は保存整備されているので写真を撮り直すことだけが目的である。資料館など一切立ち寄らない。
開明学校のところで小学生の一団が資料館から出てきた。社会科見学かなにかであろうか、先生が引率している。「こんにちは!」と声をかけると元気に返事が返ってきた。こういうのは気持ちがいいものだが、困ったことに撮影をしている場所場所で彼らに出会うのである。そのたびに、「あのおじさんさっきおった人や、何しとんやろ」っていう目で見られる。 |
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田部(愛媛県伊方町) |
宇和島周辺の町並みを一通り歩いた後は佐田岬半島の集落を巡ろう。佐田岬半島は細長い標高300m〜400mの山脈の半島で海岸線は入り江の連続である。山には一面にミカンが栽培されており、半島の集落は農業と漁業の両方で生計を立ててきた。また、この半島では緑泥片岩という緑色の石が採れるため、険しい地形に合わせて緑の石垣を積み上げて集落がつくられている。その景観はそれぞれに特色があり興味深い。
田部は半島北岸の集落である。「日本の集落3」に紹介されていたので訪れた。緑泥片岩は一方向に割れやすい性質を持っているので、石垣に使用されている石は平べったいものが多く組み合わされている。従って独特の美しい造形の石垣に仕上がっている。 |
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大佐田(愛媛県伊方町) |
大佐田は半島先端近くにある旧三崎町に属した南岸の入り江の集落。入り江にある三崎港からは大分県佐賀関への連絡線が出ている。
大佐田集落も「日本の集落3」にかつての写真が掲載されている。海岸に寄棟の小屋が規則正しく並べられている姿に魅かれて訪れたが、多少変わってはいたものの健在であった。小屋ということで建替える必要性は少ないのであろう。集落はその小屋群に守られるようにその奥にある。集落内を歩き回っていると端っこに神社があった。神社を囲っている緑石の石垣は高く、鳥居の高さで積み上げられていた。 |
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井野浦(愛媛県伊方町) |
大佐田集落のさらに先に井野浦集落がある。「日本の集落3」では石垣を高く積み上げ屋根だけのせたような民家の写真か紹介されており、いつか訪れたいと思っていた(画像上)。
ところが、井野浦集落に差し掛かってもあの写真のような民家は現れない。おかしい、無くなったか?不安な気持ちで集落を通り過ぎた。すると集落から数百mいったところに石垣が崩れながら作業小屋が並んでいる場所があった。どうやらここらしい。写真では建物のスケールが分からなかったので主屋のように思っていたが小屋だったようだ。
車を停めて小屋群を見て歩く。大変な強風である。佐田岬半島の山脈の稜線に並べられた風力発電の風車が勢いよく回っている。なぜここまで石垣を積み上げる必要があったのか、教えてくれているようだ。小屋はかなり歯抜け状態になっていてちょっと寂しいが、写真にあった建物も残っていた(下の写真の一番右)。文献の写真と同じアングルで撮りたかったが、前面に軽トラが停まっていて適わなかった。 |
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川之石(愛媛県八幡浜市) |
佐田岬半島を戻る。半島付け根の宇和海に臨む旧保内町川之石町にやってきた。「一路一会」(大泉旅団さん)で紹介されていた町並みである。東洋紡績の工場のある町で明治期以降、製糸と紡績で栄えた。旧東洋紡績工場には赤煉瓦の建物が残っているほか、町並みには洋風の近代建築が見られる。その洋風建築の間の路地を入っていくと背後の山はミカン畑。斜面を上り下りする運搬用のモノレールがあった。
今日の宿は内子の民宿。一泊二食付きだから早めに宿についてゆっくりしよう。夕食では、宿のご主人とおしゃべりをしながら美味しい料理と地酒をいただいた。地酒は内子の隣町五十崎町の酒で、無愛想ながらこだわりの親父がつくっているという。美味しいのでつい飲みすぎてしまいベロンベロンに酔っぱらってしまった。 |
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内子(愛媛県内子町) |
内子は今や全国区の町並み観光地である。半端な時間に訪れては観光客が多く落ち着いて歩けない。重伝建地区は朝飯前に歩くのが定石だ。
内子を歩く前に昨晩いただいた地酒の蔵を確認しておきたい。民宿のある山を下り小田川を渡って五十崎町へ。町中には造り酒屋らしき建物は見当たらない。町を通り過ぎて人家が少なくなったところに「千代の亀」の亀岡酒蔵があった。こだわりの主人というだけあって建物もなかなかのものである。
内子では町並み最奥の護国町に車を停めて歩く。まだ7時になったばかりなので観光客などいない。朝早く家の前を掃除するおばさんや休日の部活に通う学生が歩いている程度。町並みには霧がかかっていてやわらかな朝だ。この町並みは1988年に歩いているが記憶はしっかり残っている。こんなに素晴らしい町並みだったのかと改めて感心する。重伝建地区はやはりそれなりに素晴らしい。人のいない朝一に歩くのは必須である。
一度朝食をとるために民宿に戻った。朝食に肱川で採れた川蟹の雑炊が出てきた。川蟹とは珍しいが中華料理で有名な上海蟹のようだった。
そして再度内子の町に戻る。今度は伝建地区ではなく六日市町を歩く。目的は修復された内子座である。仕事で歌舞伎劇場の企画設計をしているため、ここでは純粋に見学である。 |
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大洲(愛媛県大洲市) |
大洲も1988年に訪れているが、ここは「おはなはん通り」以外全く記憶が消えている。写真がないと記憶は薄れるもの。フィルム時代のケチった撮影のせいである。
その頃は町の端から端まで全て歩くようなことはしていなかった。今回歩いてみて「こんなにいい町並みがたくさんあったんだ」と驚いた。後で1988年の写真と2006年の写真を比較して、何がどのように変わったのか見比べるのも面白かった。大洲は早くから町並み観光に力が入れられていたので建替えこそ少ないが、結構大きく改変されている。
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長浜(愛媛県大洲市) |
大洲の外港だった長浜の町を訪れる。幹線道路から細い旧道を走ると肱川にぶつかった。そこに真っ赤なトラス橋が架かっている。肱川に架かる長浜大橋(昭和10年)は日本に残る現役開閉橋の最古の物という。真ん中の部分が跳ね上がる構造になっている。
一方、町並みの方はあまり古い民家の連続が見られないものの、点在して残ってはいる。それらと開閉橋を組み合わせて、町並みの復元イメージを頭の中に浮かべながら歩いてみた。 |
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双海(愛媛県伊予市双海町) |
双海は上灘町、下灘町が合併してできた町で、町村合併後は伊予市に属している。「図説 日本の町並み10」では、白壁虫籠窓の町家が残る町並みとして紹介されていたが、今では殆ど見ることは出来なかった。事実上、古い町並みとしては消滅したといっていいが、一角に僅かではあるがいい町並みが残っていたので☆一つでリストに残すことにしよう。 |
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郡中(愛媛県伊予市) |
郡中(ぐんちゅう)は松山から大洲へ向かう大洲街道沿いで、松山平野の南端に位置する。郡中三町といって、南から三島町、灘町、湊町と長い町が続いている。三島町はあまり古い建物が無さそうなので、横着して車窓からの撮影で流す。灘町で商店街の駐車場に車を停めてwalking開始。すると目の前に格式がありそうな町家がある。郡中は、1636年に双海の商人が移住し商家町を興した。この町家はその町を興した宮内家のものであった。古い町並みは主に灘町から湊町にかけて見られる。本瓦に黒漆喰が主体の重厚感のある商家がたくさん残る見ごたえの有る町並みである。
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松前(愛媛県松前町) |
郡中の直ぐそば、松前(まさき)の町を歩く。「図説日本の町並み10」では、旧街道に虫籠窓のある商家が残っていると書いてあったが、この文献ももう30年近く前のものである。実際歩いてみて旧街道には殆ど残ってはいなかった。港に車を置き、船溜りの南の新立地区、北の本村地区も歩いたが収穫なし。船溜りと背景の東レ愛媛工場の風景が印象に残ったに過ぎない。 |
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南齋院(愛媛県松山市) |
南齋院とは松山市郊外の田園の中に長屋門が並んでいるという珍しい集落。カーナビで近くに来ても田園風景という感じではなく、郊外のロードサイドショップが並んでいるような地域だ。道も混んでいる。渋滞でトロトロと走っていたらロードサイドショップに挟まれた田圃の向こうに長屋門が並んでいるではないか。「ここか?」と言いたくなるほど唐突である。これは別に武家屋敷町だったわけではなく普通の農家である。こういう集落は米どころと呼ばれる場所にしばしば見られる。関東で言えば筑波山麓の水田地帯などである。 |
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