鳩ヶ谷 見沼通船の河港として栄えた日光御成街道の宿場町

埼玉県
鳩ヶ谷市
本町1,2,3
桜町1,5,6
坂下町1,2,3



交通

地下鉄南北線鳩ヶ谷駅下車






鳩ヶ谷

日光御成街道は、中世の鎌倉街道と重なっていたといわれるが、徳川家康が久能山より日光山へ改葬され、東照宮が造営されてから、江戸幕府将軍の日光社参への街道となった。日光道中の脇往還として、江戸日本橋を基点に本郷追分で中山道と分かれ、岩淵宿、川口宿、鳩ヶ谷宿、大門宿、岩槻宿を経て幸手宿まで五宿十二里の街道で、将軍専用の道であった。天保14年(1834)の鳩ヶ谷宿の家数は217軒、旅籠16軒のほかに本陣・脇本陣があった。徳川吉宗の時代、鳩ヶ谷宿の坂下を横切る見沼通船堀が開削されると、舟運が盛んとなり鳩ヶ谷は物資の集積地となり「市」がたった。明治に入っても、古着・古道具の売買が盛んとなり400人もの露天商が集まる県 内でも屈指の賑わいをみせたという。
しかし鉄道が川口を経由したため、鳩ヶ谷はその後徐々に賑わいを失っていった。したがって、近世から近代にかけて発展した鳩ヶ谷の町並みは、大きく開発されることもなく、所々に古い町並みが見られるのである。坂下の見沼通船堀の橋から岩槻方向の本町にかけての町並みは、東京近郊の町に見かける出桁つくりの商家が多いが、特に興味深いのは洋風の近代建築の存在である。昭和初期と思われる茶色いタイル張りの建物が町並み景観に彩を与えている。

東京方向から旧日光御成街道を進んでくるとまず出迎えてくれる江戸東京風出桁町家。

見沼通船堀を渡ると坂下町で、そこから坂を上る。坂の途中には特徴的な洋風建築が建っている。(左上、上)

坂上の寄棟の出桁造り町家。(左)

この辺りが旧市街の中心地か?。(右上、上)

街道から東へ入った通りは遊郭らしき佇まいを見せていた。(左)

鳩ヶ谷の町で以前から気になっていた近代建築。何時なくなっちゃうのかと心配していた。スクラッチタイルの外壁の真ん中に銅版の棟が上がっている。旧街道はこの建物付近で緩やかに曲がっているため、東京側からも岩槻側からも目立つランドマークになっている。

石の質感による味わいが良い石蔵。出桁つくりの町家とともに、古い町並みを残していた。(右上、上)

旧宿場の最も岩槻寄りにある蕎麦屋。なんてこと無いがなんてことある建物で、つい掲載したくなってしまった。
参考資料 リンク
鳩ヶ谷市

参考文献