| 鹿田 | 宿場町から発展した倉敷駅前の旧遊廓 | |
岡山県 岡山市 宮内 板倉 交通 JR吉備津線 ![]() 鹿田 2006.03.19 |
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| 児島湾の干拓は、戦国時代末期に宇喜多秀高が早島付近から開始し、その後、岡山藩によって積極的に進められた。明治以降、藤田組などが工事を進め、第二次世界大戦後は農林省の直営となる。茶屋町はその干拓によるクリーク地形の中にある。茶屋町の町名は、倉敷川を利用する水運の要地に茶屋を並べたことからおこったと言われる。幕末以来、ワタ・イグサの集散地として繁栄、明治中期には輸出用花莚、末期には畳表・ゴザの農村工業が発展した。大正初期は織物、中期に地下足袋、昭和期に入って農業機械製造が盛んになるなど、製造業によって支えられた繁栄した町である。 「備中茶屋町今神戸」とうたわれた茶屋町の繁栄は明治30年を中心に、地場産業の花形である花莚の輸出によって築き上げられた。磯崎眠亀は1878年(明治11年)、イグサによる広組縮織の技法を発明し、翌年イグサに独特の染色法を発明し、花莚産業の基礎を築いた。その眠亀の研究所が残されており(国登録文化財)、発明家の家らしいユニークな工夫を見ることが出来る。 町並みは残っているという部類には入らないが、旧金毘羅道沿いに見るべき古い町家が残っており、町中を巡る水路越しの景観がクリーク地形ならではである。 |
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| 参考資料 | リンク 倉敷市 参考文献 |
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