茶屋町 児島湾干拓地の花莚産業で栄えた町並み

岡山県
倉敷市
茶屋町




交通

JR宇野線茶屋町駅下車徒歩






茶屋町



2005.10.27
児島湾の干拓は、戦国時代末期に宇喜多秀高が早島付近から開始し、その後、岡山藩によって積極的に進められた。明治以降、藤田組などが工事を進め、第二次世界大戦後は農林省の直営となる。茶屋町はその干拓によるクリーク地形の中にある。茶屋町の町名は、倉敷川を利用する水運の要地に茶屋を並べたことからおこったと言われる。幕末以来、ワタ・イグサの集散地として繁栄、明治中期には輸出用花莚、末期には畳表・ゴザの農村工業が発展した。大正初期は織物、中期に地下足袋、昭和期に入って農業機械製造が盛んになるなど、製造業によって支えられた繁栄した町である。
「備中茶屋町今神戸」とうたわれた茶屋町の繁栄は明治30年を中心に、地場産業の花形である花莚の輸出によって築き上げられた。磯崎眠亀は1878年(明治11年)、イグサによる広組縮織の技法を発明し、翌年イグサに独特の染色法を発明し、花莚産業の基礎を築いた。その眠亀の研究所が残されており(国登録文化財)、発明家の家らしいユニークな工夫を見ることが出来る。
町並みは残っているという部類には入らないが、旧金毘羅道沿いに見るべき古い町家が残っており、町中を巡る水路越しの景観がクリーク地形ならではである。
旧金毘羅道沿いの大きな屋敷。
旧金毘羅道沿いの大きな屋敷。
町中には水路が巡らされ、大きな屋敷のお堀のようになっている。
水路越の景観は児島湾干拓地ならではの風景。

右稲荷、左下津井の旧金毘羅道の道標が残る交差点に珍しい鏝絵のウダツが見られる町家があった。
世界的な規模での輸出で繁栄した花莚産業の基礎を築いた磯崎眠亀の研究所だった建物(国登録文化財)。
駅から旧金毘羅道道標のある交差点へ向かう通りに見られた民家。
駅前の正織産業工場内に建っている煉瓦造の煙突?
町のシンボルのようにそびえている。
旧金毘羅道沿いの町家。
上の旧金毘羅道沿いの町家の虫籠窓。逆三角形が珍しい。
茶屋町の町並み。
茶屋町の町並み。
町の端にあたる六間川を渡る橋。
参考資料 リンク
倉敷市

参考文献