相川 | 江戸初期からの佐渡金山で栄えた鉱山門前の街 | |
新潟県 佐渡市 (旧相川町) 相川京町ほか 相川二丁目ほか 相川水金町 相川宗徳町 交通 相川京町 相川二丁目 相川水金町 相川宗徳町 2010.10.10 |
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相川は佐渡島北部西岸に位置する町。徳川幕府の財政を支えた佐渡金山と民謡佐渡おけさで知られる。1601年佐渡金山の開山に伴い、相川は幕府直轄の天領となり、慶長8年(1603年)に佐渡奉行所が建てられた。その後、相川は近代にかけて鉱山の街として盛衰した。 町は海岸段丘の上下にはっきりと分かれていて、急傾斜の階段でつながっている。下の街は海岸線に並行に続く町人町であり、切妻平入りの町並み。特に相川二丁目から三丁目にかけて統一感のある町並みが残されており、丘上の街と接続する辺りに郵便局や旅館街などがある。そこから北にも町は延びていて紙屋町で終わるが、そのさらに北の離れた場所に水金町と呼ばれた遊郭跡がある。 一方、下町の中心エリアから急斜面の階段を上ると上町の奉行所のあった場所に出る。ここには旧奉行所の建物が復元されており、向かいに木造の旧裁判所建物を活用した佐渡版画村美術館がある。美術館の横の煉瓦塀の脇を抜け、鐘楼の前を左に折れると一直線の尾根道が延びており、京町、大工町と金山門前の町が続く。町割に往時を偲ぶことができるが、建物としてはたいしたものは見られない。大工町から先は立ち入り禁止。実はここから金山にかけて、鉱山施設の豊富な近代化遺産が眠っているそうだ。 佐渡島・・・ わが国の離島中最大、北陸道七国の一つ。北側に大佐渡山地、南側に小佐渡丘陵が並行し、その間に地溝帯の国中平野、沿岸に河岸段丘が発達した島である。中世の守護本間氏は河原田獅子城、のちの真野壇風城を築城、1573年(天正1年)〜98年(慶長3年)まで上杉氏が支配、徳川氏は直轄領として佐渡奉行を相川に置き、相川金山経営に力を注いだ。古くから罪人配流の島でもあった。 |
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丘上から下る坂道から眺めた、相川二丁目の町並み。 | ||
相川二丁目の町並み | ||
相川二丁目の町並み | ||
相川羽田町の町並み 木造3階建ての旅館建築が残ってた(上) 急斜面を上る西坂の途中にあった洋館(左) |
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西坂 佐渡奉行所の腰部にひらかれた坂。ここを上ると奉行所跡に出る。享保4年にできた坂道で、石段はさりげなくさりげなく敷かれ榎の古木が多い。 |
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1888年に建てられた旧佐渡簡易裁判所。現在は佐渡版画村美術館として活用されている。 | ||
旧佐渡簡易裁判所の煉瓦塀。ここを抜けると金山へと続く尾根道の端部に出る(上) 金山への尾根道から海の方向を見る(左) |
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京町の町並み 京町通りは鉱山盛期の繁華街。江戸時代初期には三階建の家も見られたと言われる。相川きっての豪商山田吉左衛門(京都出身)もこの界隈に住み、両替や廻船を手広く営んでいた。家には連子窓が多く、近年まで上方風、シトミ戸が軒並みに眺められた。 |
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大工町辺りからながめた佐渡金山(上) 大工町通り(左上) 江戸初期、鉱山の大工たちが住んでいた。相川では金を掘る工夫のことを大工(でいく)といい家を建てる大工を番匠と呼んでいた。 紙屋町の町並み(左下) |
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水金遊郭跡 昔、この上流で水銀流し(アマルガム製錬)が行われていた。水金の地名はそれに由来する。享保2年から11軒の遊女屋がここにでき、戦後まで数軒残っていた。 佐渡金山下の間ノ山地区と山手の高任地区との連絡橋として明治時代に建設された石積アーチ橋。(下) |
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参考資料 | リンク 佐渡市 参考文献 『日本の町並みV 関東・甲信越・東北・北海道』 西村幸夫監修 平凡社 |