長崎
館内町
国際貿易港長崎につくられた歴史ある唐人町

長崎県
長崎市
館内町





交通

JR長崎本線長崎駅より市電利用





館内町





2005.06.17
長崎は、ポルトガルとの南蛮貿易港として元亀2年(1571年)に創られた港町である。江戸徳川幕府の鎖国時代でも唯一の貿易港として、オランダと中国との交易だけが許され、全国で唯一長崎港だけが開かれていた。鎖国時代は出島に外国人居留地を造り、西欧文化の玄関口となっていた。長崎は他の都市が明治維新後西欧文化が入ってきたのとは違って、ずっと昔から途切れることなく海外に接していた町である。
元禄2年(1689年)に中国人居留地として広さ約9400坪を区切って堀をめぐらし、唐人屋敷と呼ばれる町がつくられた。その目的は密貿易を防ぐことにあった。貿易のために渡来した中国商人、船の乗組員がここに住み、屋敷の中には天后堂(てんこうどう)、観音堂などの之祠堂が祀られ、店舗もあり、中国人街が形成されていた。安政の開国後、唐人屋敷はその役目を終えたが、ここから中国の人々だけでなく、中国文化を日本に伝えた絵画、文学、薬学、宗教などに大きな影響を与えた。
現在の唐人屋敷を歩いてみるとかつての環濠はないが、町のエッジを感じ取ることが出来る。家屋は特に普通の長崎の他の地域と変わりはないが、寺院建築は明らかに中国のものである。アイストップに現れる中国寺院建築へ向かう通りというだけで町並みそのものが違って見えてくる不思議な街である。
新地中華街の方向から唐人屋敷に入ったところ。前方に見えるお堂は「土神堂」で、右手には市場のような店舗が集積している。
上記の市場のような空間の中を坂道が上っている。ここを上っていくと唐人屋敷の南西角に鎮座する「天后堂」に突き当たる。
天后堂前の町並み。写真は1980年代に訪れた時のもの。
上の写真と全く同じ場所を2005年に訪れた時のもの。
階段や電信柱の位置は変わらないが、階段に手摺が付き、助産所の看板が無くなり、左奥の家が無くなり、両側の塀や壁が変わっている。23年の変化とは最低でもこれくらいは変わるのであろう。
天后堂前で撮った記念写真。同じく訪れていた旅の人に写してもらった。
館内町を南北に貫く通りの町並み。この通りに商業が張り付いている。手前はすっかり空地になってしまっていた。
天后堂前より北方向を眺める。(左)

観音堂に至る路地(左)

路地から見え隠れする福建会館。(下)

福建会館北側付近の町並み

新地中華街(1980年代)
籠町、梅香町付近に残る長崎の町家
長崎でこのような伝統的な町家はなぜか似合わない。
参考資料 リンク
長崎市

参考文献
『図説 日本の町並み11 北九州編』 太田博太郎他 第一法規