池島 戦後開発された建築群の残る最後の炭鉱町

長崎県
長崎市
(旧外海町)
池島町





交通
佐世保、瀬戸、神浦より船






池島





2015.05.05
池島は、西彼杵半島の旧外海町四方海上役7kmに位置する。九州で最後まで操業を続けていた炭鉱の島である。標高115mの四方山が最高点、大部分が標高約80mの台地で、港周辺の低平地と従来からの集落とともに生活の場となっている。かつては、半農半漁の島で、多くは船員として出稼ぎの生活が営まれていた。1952年に松島炭鉱が開発に着手し、1959年に操業開始して以来、良質の原料炭を産出し、2001年に閉山するまで42年間操業を続けた。現在の池島港は、開発前においては自然の砂州に囲まれた「鏡池」と呼ばれる池だったところで、島の名もこれに由来する。炭鉱開発の際に砂州の一部が爆破により崩され海とつなげられた。
2015年、閉山して14年が過ぎた島を訪問した。西彼杵半島の岸壁上から眺めると台地の上に白い建物が建っている様子が目視で確認でき、あたかもリゾート地のホテルが並んでいるように錯覚してしまう。しかし、船で近づくにつれてこの島全体が鉱業所であることが認識される。港に面する台地の斜面は地形を利用して、堀だし生成された原炭を船に積み込むための巨大な鉱業施設がへばりついている。そして洗面器をひっくり返したような形をした丘の上に炭鉱町が形成されている。最盛期は約8000人が生活していたという。戦後開発されたため、近代的な鉄筋コンクリート造の住宅や病院、学校、集会所、スーパーマーケット、娯楽施設などが計画的に造られていた。
一方、開発前からの集落も島の北側丘下のV字谷に息づいており、丘上の炭鉱町と港を結ぶように、計画的に造ることができない歓楽街が既存集落を侵食するように形成された模様。ニュータウンうや工場町の外郭に歓楽街が形成されるのと同じ現象と思われる。
開発前の池島(上)
現在の港は、炭鉱開発前は海とつながっていない「鏡池」ちう池で、丘の上は農地だった。右手の丘下が従来からの集落。

西彼杵半島から眺めた池島全景(左)

港から台地斜面の鉱業所施設を眺める(下)

池島港(左)と港地区にあった観光用ガイダンス施設兼ショッピングセンター(上)
鉱業所入り口近くにそびえる立坑(左)
5階建ての住棟群(左、左下)

住棟群の中にある旧食品小売センター
現在は島唯一の食堂「かあちゃんの店」だけが営業している(上)
 
住棟群の間を走り回る蒸気配管。鉱業所で造られた蒸気を各家庭にも配って湯沸しに使われていた。(上)

島の最奥にある中層住棟群。8階建てで階段毎の棟割長屋形式だが、5階に横通路がある。(左)
デザイン的にもインパクトのある中層住棟群 
5階横通路は住棟間も連結している
中層住棟の後ろ側は高くなっていて、5階横通路と同じレベルになっている。
8階建てをエレベーターなしで成立させる工夫である。
生活されているころの中層住棟群
最奥部のところからも職場である坑道への出入り口があった。
坑道に向かう際に「御安全に」、帰ってくると「御苦労さん」のサインがある。

池島小・中学校。巨大な校舎だが現在生徒は小学生1人。数年前に6億円かけて耐震改修がなされたという。(上)

「新店街」と呼ばれていた炭鉱町の中心商業ゾーン。2階建て長屋形式の店舗が表通りに面し(左上)、裏通りには娯楽施設があった(左下)。
 
新店街から坂道を下ると開発以前からの集落に繋がっている。
元々は半農半漁の集落であったが、炭鉱町が出来上がったあとは、商業ゾーンが浸食していったものと思われる。計画的には造られない歓楽街が一部に形成されていたようだ。
参考資料 リンク
長崎市

参考文献
池島に行くには?:九州最後の炭鉱「池島」より