福江
堂崎
珍しい石垣塀が400mつづく五島藩の城下町

長崎県
福江市
(五島市)
武家屋敷町
堂崎
戸岐





交通






福江


五社神社


堂崎


戸岐



2010.04.24
五島列島は、かつて宇久氏の支配時代、宇久島・中通島・若松島・奈留島・福江島の五島を総称したことに由来する。現在は、宇久島(小値賀島、野崎島含む)は平戸諸島とされ除かれる。本土に面した東側を表五島、西側を裏五島とよび、主集落は東側に集中しており、地塁山地が沈降してできたリアス式海岸が発達している。奈留島以北の上五島は主漁副農、以南の下五島は主農副漁である。
福江島は五郎列島の主島。対馬暖流の影響で気候は温暖、東シナ海の荒波を受けた見事な海食崖や、わが国でも珍しい小型のホマーテアスピーデの火山群など、美しい自然景観を誇る。古くは、「大値賀島」と呼ばれ、遣唐使の寄留地や倭寇の根拠地として大陸との交流の中継基地となっていた。弘和3年(1383年)宇久島の宇久氏が福江に進出、文禄年間(1592〜96年)には五島氏を名乗り、江戸時代に入って1万2600石の五島藩主として支配した。

福江島の政治・行政・経済の中心都市である福江は五島藩の城下町を基盤に発展した街。三方を海に臨む海城として知られた石田城は、黒船の来航に備えて嘉永9年(1849年)に築造された。古来は、深い入り江の「深江」と呼ばれていたが、嘉永15年(1638年)石田陣屋の竣工を機に「福江」と改称された。
福江の中心部には上級武士の屋敷がつくられ(現在の商店街通り)、周辺部には中・下級武士の屋敷、さらに商人町・職人町が形成された。中でも現在の武家屋敷通りは中級の武家屋敷町だったところで、石垣などの保存状態が良い。約400m続く石垣は、溶岩塊の石を積み上げ、その上に「こぼれ石」と呼ばれる丸石を積み重ね、両端は蒲鉾形の石で止められ、全国的にも珍しい造りである。

福江の西北にある小さな半島の先には、明治41年に建てられた煉瓦造の堂崎教会がある。この教会の設計はペルー神父であり、施工は神父の指導を受けて福江市大工町の棟梁野原与吉が担当したという。後に教会堂建築の第一人者となる鉄川与助は、当時野原棟梁の下で修行を積んでおり、工事に参加したと言われている。

武家屋敷通りの町並み
全国的にも類例を見ない造りの石垣が約400m続く。溶岩塊の石を積み上げた上に「こぼれ石」といわれる丸石を積み重ね、両端は蒲鉾形の石で止められている。門はほとんどが薬医門で、当時の居宅としては「松園邸」(文久3年(1863年)創建)が保存されている。
 

武家屋敷通りの町並み
切石によってきちっと積まれた石垣(上、左上)
石垣のスタイルは福江市内のみならず、福江島全体でみられた。

現在の商店街のある丘の上にあった江川城は江戸初期に焼失、その後五島氏は石田陣屋を拠点とし、幕末に石田城が完成した。(左)

石田城五島氏庭園
嘉永2年(1849年)、幕府の命により石田城が建設された。完成間近の安政5年(1858年)藩主五島盛成は、隠殿として庭園を造った。
石田城に移る前の江川城のあったあたりは、商店街の隣の遊里地域となっている。
五社神社の石鳥居
堂島教会

この教会の設計はペルー神父であり、施工は神父の指導を受けて福江市大工町の棟梁野原与吉が担当したという。後に教会堂建築の第一人者となる鉄川与助は、当時野原棟梁の下で修行を積んでおり、工事に参加したと言われている。
戸岐集落
戸岐集落
参考資料 リンク
五島市

参考文献