長崎
銅座
戦後復興期に形成された闇市系の商店街

長崎県
長崎市
銅座町
船大工町
本石灰町





交通
長崎駅よりバス






銅座町


船大工町


本石灰町





2017.05.06



長崎は、ポルトガルとの南蛮貿易港として元亀2年(1571年)に創られた港町である。江戸徳川幕府の鎖国時代でも唯一の貿易港として、オランダと中国との交易だけが許され、全国で唯一長崎港だけが開かれていた。鎖国時代は出島に外国人居留地を造り、西欧文化の玄関口となっていた。長崎は他の都市が明治維新後西欧文化が入ってきたのとは違って、ずっと昔から途切れることなく海外に接していた町である。明治期になるとそれまでの独占的な立場は失ったが、造船所が出来て近代工業都市として発展した。第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)8/9に原爆が投下され、町は大きく被災した。しかし、同じく原爆が投下された広島とは地形の点で大きく異なっており、起伏の激しい地形によって熱風から免れた建物がいまでも残っている。
長崎の最初の市街地は、金毘羅山から南に延びた尾根につながる台地の上が発祥であり、時代地共に台地下の湿地帯が埋め立てられ街が拡大すると同時に斜面上にも駆け上がっていった。そして、現在の中心的な繁華街は、中島川と銅座川の周りの平らな土地に形成されている。その繁華街は、長崎の地形が功を奏して浦上上空に投下された原爆から全壊を免れた。したがって、銅座町・船大工町・本石灰町界隈は復興都市区画整理がなされていない。戦災復興期のいわゆる闇市系の建物群が集中している。それが現代では新たに造ることができない都市空間となっていて独特の魅力を発している。
銅座市場の入り口
終戦直後、春雨通りに建ち並んだ仮設建築群(いわゆる闇市)を整理するため、銅座川の上に蓋をして移転させた。
入口から反対側を見ると川の上であることが判る。しかも、建物がはみ出して建っている。

銅座市場の内部
営業している店舗は一部の模様。
銅座市場の屋根が見える
銅座市場(左)

銅座市場を出たところ。銅座川は思案橋交差点に向かって流れているので、銅座川の上の町はつづく。画像の左側の道が川の上(下)
春雨通りに面する思案橋商店街
この商店街も銅座川の上に建っており、成り立ちは銅座市場と同様。

思案橋商店街の裏側の町並み
船大工町商店街の町並み
船大工町の町並み
左にちらりと見えるのが福砂屋本店。右側の路地が、柳小路通り。

柳小路通りの町並み

通りからさらに入った路地(上)

柳小路通りの町並み
思案橋
左が思案橋横丁への入り口
右が思案橋商店街の裏道

思案橋横丁
参考資料 リンク
長崎市

参考文献