宝島 トカラ列島最南端 珊瑚石と金属折板葺の島里

鹿児島県
十島村
宝島





交通
鹿児島港よりフェリー






宝島





2018.07.28

吐噶喇列島の有人島最南、亜熱帯の植物が咲き珊瑚礁では色鮮やかな魚が泳ぐロマンあふれる島だ。その名の通り、昔海賊キッドが財宝を隠したといわれ、島内には財宝を隠せる鍾乳洞もあり、ちょっと探検心をくすぐられる。吐噶喇列島では、宝島のことをトカラと言っており、『琉球国誌略』では、「琉球国人は七島全てを吐噶喇という」とある。大池遺跡や浜坂貝塚からは宇宿土器のほか本土系土器が出土し、すでに先史時代から南北交流の跡がうかがわれる。文書の上で最も古い時代はトンチ(殿内)の「平田家系図にある平田権次郎宗貞が永享年間(1429~41)リュウキュウへ渡り、布や酒を持参し鹿児島の藩主へ捧げ、以後薩琉の案内役をしたという記事だ。子孫の宗継はヒデヨシの朝鮮出兵に従軍し、慶長14年(1609)島津軍琉球出兵の案内役を務め、子孫代々郡司役だった。江戸時代は、異国遠見番所があり、在番のもと郡司、横目が島政を行った。文政7年(1824年)にはイギリス船の侵略があり、翌年幕府が命じた「異国船打払令」の一原因ともなった。西岸のトカラ観音堂には文明4年(1472)の墨字のある仏像が安置されている。歴史的にもいかにも宝島というネーミングにふさわしいロマンあふれる島だ。(「シマダス」参照)

口之島〜悪石島の5島とは異なる島影、小宝島を大きくしたようでもある。つまり海岸線にリーフが形成されている隆起珊瑚礁の島なのだ。
山は結構高い。集落は山の麓、港から歩いていけるような場所にあるようだ。
大きな擁壁に描かれた絵が宝島のシンボル。
前籠漁港から集落の真ん中めがけて上っていくメインストリートを歩く。宝島は琉球じゃないが、こういう港と集落の構成からして琉球っぽい。
メインストリートは「イギリス坂」と呼ばれる。時は江戸時代、小さな島で大きな事件が起きた。宝島にイギリスの船がやってきて船員らが上陸し、馬の交易を要求してきた。それを断ると牧場の牛を射殺したり銃を乱発した。そこで、当時藩より出張していた役人が応戦し、イギリス人1人を射殺したという。このことをきっかけに、幕府は翌年に「異国船打払令」を発令して、一段と鎖国体制を強化したと言われている。幕末はイギリスやロシアの外国船が貿易を求めて日本にやってくる動きが各所であったようである。
宝島ではかつて集落を部落と呼んでいた(現在は集落と呼ぶ)。今でもこのメインストリートから西側を西ブラ、東側を東ブラと呼んでいるそうだ。
切妻屋根の民家。真っ白な屋根なので、ルーフィング葺きかと思ったが、よく見ると金属折板だ。壁は押し縁形式の下見板張り。
 

墓地は普通集落の外周部にあるのだが、古い墓地が集落中心部にあった。石は珊瑚石であろうか、かなり風化している。
ブロック造の建物も多く見かける.
若い人が多ければ子供も多い。本来集落はこうあるべきだが、老人の多い離島の集落ばかり見てきている私にはどうも違和感がある。
鳥居の更に奥に石碑があって、平仮名で「ごんげん」と書かれている。琉球の御嶽にような変わった形態の石塀に囲まれた入口があり、中は鬱蒼と茂った森になっている。建物の外壁の遺構ではなさそうにも見える。なんだろう。
金属折板屋根の木造民家と鉄筋コンクリート造の民家が混在する町並み。
東ブラの町並み。
珊瑚石の石塀と寄棟平屋建て。
珊瑚石の石塀と寄棟平屋建て。
奄美地方に多い入母屋屋根ではないが、金属折板屋根の形態は似ている。
外壁に珊瑚石を積んだ建物。現在使っていないが、牛舎だろうか。入口の木のアーチが珍しい。 
島の西海岸にある大間泊という場所に行ってみた。ここには、かつて集落があったそうで、疫病が流行し消滅した。
城之内牧場から北を見る。この風景見せられて日本と思う人はそういないだろう。(上)

東海岸の中央あたりにある宝島港。船もなくあまり使われていない様子。珊瑚礁のリーフを掘削して造られている。(左)
早朝5:00。上り便はこの時間になるため朝食は宿では出ず、船内で食べることになる。
参考資料 リンク
十島村

参考文献
「シマダス 日本の島ガイド」㈶日本離島センター