口之島 トカラ列島最北の島 野生の黒毛和牛と白の集落

鹿児島県
十島村
口之島





交通
鹿児島港よりフェリー






口之島





2018.07.27

吐噶喇列島最北端、野生牛山を駆けタモトユリの香る島。夜、鹿児島港を出港した船は、午前6時頃(現在は5:00着)、吐噶喇列島の入口・口之島西之浜港に着く。これから無垢の自然との出会いが始まる。南北に長く、東西が狭い口之島の中央に前岳(628m)がそそり立ち、北側の緩やかな斜面に集落がある。島には純血種の野生牛が深い山林の中に生息しており、その数およそ40頭と言われている。全島リュウキュウチクに覆われ、アコウ・ガジュマルなどの亜熱帯性の植物も多い。その昔、平家の落人がこの島に流れてきた時に、着物の袂に入れてきたといわれるタモトユリが見られるなど、豊かな自然が息づいている。文献上の初見は、応永3年(1396)年にさかのぼる。江戸時代は薩摩藩直轄領で船奉行の支配のもと異国船遠見番所が置かれ、鹿児島から2人の在番が常駐、その下に住民推挙の郡司1人、横目2人がいて島政を司った。郡司は代々肥後家が務め、その屋敷地をトンチ(殿地)といい、村の中央にあった。享保12年(1727年)の『立証名寄帳写』によると薩摩藩の門割制が施行され、トンチを中心に20の屋敷(門)があり、人口222人、屋敷ごとに1人の名頭と2〜3人の名子がいた。当時、船は639石積1艘のほか大小6艘があって郡司が管理し、毎年1回上鹿してカツオブシなどの年貢を納めた。昭和21年2月、北緯30°線以南は全て米軍軍政に入り、30°線が島の北端をかすめる口之島では奄美地方と鹿児島地方から「闇船」が来て、物資交換・売買する場所となった。現在、サツマイモ栽培を中心とする農業と、肉用牛の生産が営まれている。小規模ながら水田もある。また、自然のリーフを掘った海水浴場も完成、潮の干満によってはたくさんの魚を見ながら海水浴が楽しめる。(「シマダス」参照)
鹿児島市に最も近い口之島は、下り船が早朝5:00に着く。観光ではマイナーな吐噶喇ではあるが、口之島は土日をたっぷり楽しめる島として、鹿児島市民の観光地、釣り客にも人気がある。

この島も悪石島に次ぐ山岳島という印象だ。集落への道路は、島北西部にある西之浜漁港から斜面を登り、尾根を越えて東海岸の高い位置を南へやや行くと口之島集落に至る。(左)
島の東海岸。島の周囲は全て切り立っている。この島には吐噶喇列島では珍しくわずかながら田圃がある。画像のように斜面上の棚田だ。山腹の緩斜面上の高い位置にあるのがわかる。(上)

大きな屋根の家が2棟見える。特に奥の民家が古そうだ。(左)
口之島集落の中心、コミセンの前に大きなガジュマルの木があり、その下に「河=カワ」という湧水による水場がある。今でもこんこんと湧く澄んだきれいな水は、島民の憩いの場であるとともに生活用水としても利用されている。夏場は子供達が水の中で遊んでいる光景も見られる。(左、左下、下)

斜面上に形成されていて割と密集しているため、石垣が多く、白い屋根と相まって集落景観の重要な要素となっている。
そしてこの島でも印象的なのが、この真っ白なルーフィング葺きの屋根だ。
こうして見ると、屋根の上に雪を載せているみたいに見える。
切妻、寄棟、入母屋といろんな屋根形態が混在する平屋建ての集落だが、傾斜屋根であることと色だけでこれだけ統一感を演出できるものだと、改めて認識する。
もちろん昔は草葺だったはずで、その時の景観も素晴らしかったであろう。
ルーフィングの前に使われていたという通称「便利瓦」。破風周りのややこしい納まりに見事に追従している。
このシームレスな屋根の造形によるインパクトはなんだろう。
まさにの「白の造形」
浜のゴロタ石を積んだ石垣
最初に下から見上げた民家。この家、軒が低くやはり古そうである。そして注目の壁は、木板の縦張りだった。どうやら古い張り方が縦で、新しいのは横張りということか。
下見板張り(横張り)
島の南半分は、前岳628mを最高に横岳501m、燃岳425m、タナギ岳453mと非常に険しい山岳地帯となっている。そして、そのエリアが口之島自慢の野生牛の生息地だ。林道を行くと牛が出られないように閉められたゲートに差し掛かるので、このゲートを開けて入っていく。閉め忘れには注意。

二本でも唯一の純血種の黒毛和牛である野生牛が生息する。(左)
早朝の下り便が入港。(上)
 
参考資料 リンク
十島村

参考文献
「シマダス 日本の島ガイド」㈶日本離島センター