塙山 昭和30年代からの仮設建築による飲食店街

茨城県
日立市
金沢町1





交通
JR常磐線常陸多賀駅




塙山キャバレー





2016.12.30
日立は、中世は佐竹氏の支配下、近世は徳川水戸藩領となった。その地名は、徳川光圀が朝日の立ち上る景勝を領内随一とたたえたことに由来する。陸奥国への関門として交通上の要所であったが、幕末には海防上の要地とされ、助川に土塁が築かれた。そして、1905年(明治38年)に久原房之助が日立鉱山を開き、宮田川沿いに上から採掘、選鉱、製錬、電錬の事業所を置いてから鉱山町が発達した。銅、金、銀、硫酸を生産して鉱工業都市の基礎を築いた。日立は大戦の度に発展し、1955年ごろまでが最盛期であった。1976年に銅の精錬をやめた。鉱山技師の小平浪平は鉱山機械修理工場を1920年(大正9年)独立させて日立製作所を創立した。電線、発電機、モーター、家庭用電気製品、絶縁物などを生産する工場群が常磐線沿いに発展している(Yahoo百科事典より)。
常磐線日立駅より水戸方面へ一駅の常陸多賀駅から1kmほど南西に行ったところ、国道6号線塙山十字路という交差点の南東角にトタン建築が密集している異様な場所がある。塙山(はなやま)キャバレー(通称:はなキャバ)というバラック系飲み屋街。55年ほど前から形成され始めたというが、いわゆる戦後の闇市系とは明らかにスタイルが違う。画一的な建物が一つの敷地に並んでいるから。キャバレーといってもそういう店ではないようで、居酒屋。ロケに使われたりして、遠くからわざわざ訪れる人もいるという。珍しい異空間には変わりはない。中央部の空き地は、2014年に火事で失われた。
塙山キャバレーの町並み
塙山キャバレーの町並み

塙山キャバレーの町並み
塙山キャバレーの町並み
塙山キャバレーの町並み
塙山キャバレーの町並み
塙山キャバレーの町並み
塙山キャバレーの町並み

塙山キャバレーの町並み
塙山キャバレーの町並み
参考資料 リンク
日立市

参考文献
東京新聞