函館
宝来町
東京以北最大の繁華街とうたわれた旧遊里

北海道
函館市
末広町
宝来町





交通
JR函館本線函館駅下車






宝来町





2003.08.03
2012.10.08
1454年(享徳3年)河野政道が函館山麓に箱状の館を築いたことにちなみ箱館と称したが、1869年(明治2年)に函館と改称。1512年(永生9年)アイヌの攻撃により一時衰退したが、1741年(寛保元年)番所が置かれ、1802年(享和2年)箱館奉行所が設置され、北海道開拓の拠点として繁栄した。1854年(安政元年)日米和親条約により下田港とともに開かれ、日米修好通商条約(1859年)により日本5港の一つとして開港場となる。そして函館は、明治、大正を通じて、北海道の漁業、商業の中心として繁栄した。函館の市街地は、やがて旧市街にあたる西部地区から北へと延び半島全体へと発達した。
函館の市街地の南部、函館山の東側にある宝来町は、昭和一ケタの時代は蓬莱町と呼ばれており、東京以北最大の繁華街であった。ここには、料亭、カフェー、映画館、劇場が建ち並び栄華を誇った。昭和初期の最盛期には4つの見番に200人の芸者がいたそうである。函館は、もともと地形的に風が強く度々大火に見舞われ、大正10年4月の大火の後、函館区は、蓬莱町、恵比須町の大通りに防火線を設定した。両側の建物全てを不燃質の鉄筋コンクリート造とすることにより、函館区の助成が行われ、長さ500mの道路は、車道と歩道の区別をつけモダンな街路灯も設置され、函館の銀座通りは完成した。しかしその後、昭和9年にはさらに大規模大火が発生しており、大火の範囲を記す地図を見ると宝来町もその範囲に含まれている。
今、末広町十字街電停から宝来町に向かって歩くと、かつてのような活気はまったく無く、ひっそりとした町である。銀座通りの町並みを注意深く見てみると、モダンな近代建築が建っていることに気がつく。これらの建物は、大正の大火後のものか、昭和初期の大火後のものか、一見しただけでは定かではないが、いずれにしても戦前の貴重な建築群といえるであろう。また、旧遊郭の範囲内には木造のらしき建築も残っており、窓の意匠などに面影を感じる。
旧蓬莱遊郭の頃の掘割
(地図は昭和5年)
末広町の町並み 
末広町の町並み
2003.08.03
末広町の町並み
2003.08.03
宝来町の町並み
2003.08.03

宝来町の町並み
左:2003.08.03

宝来町の町並み 
参考資料 リンク
函館市

参考文献