関宿 利根川と江戸川を跨いでできた城下町

千葉県
野田市
関宿台町




交通

東武野田線野田市駅よりバス

県道17号線流山街道




関宿台町




2003.12.14

関宿台町流山街道
  
 関宿は、「こんなところに千葉県がある」と違和感を感じるほど利根川と江戸川にはさまれた千葉県が細く北へ延び、二つの川の分流点を頂点とした場所である。江戸時代、松本・板倉氏と続く4〜5万石の城下町で、小高い台町に武家屋敷町が置かれた。城下町といえば町人町もあるはずだが町人町は千葉県には無く、利根川の対岸にあたる茨城県の境町と江戸川対岸にあたる埼玉県幸手市の西関宿がその役割を担っていたのである。正確には後で県境が引かれたわけだが、大河をはさんでの城下町は要害としては適しているといえど外堀としてはちょっと大きすぎて不便であっただろう。
 台町は明治の地形図を見るとT字の町があったようだが、現在は建物も歯抜けで町並みがあったとは想像がつかないほどで、尾根道にあたる流山街道にわずかな町家が残るのみである。ところどころに寺もある。
 先のT字の交差点を城址の方向に突っ切ると、比較的大きな屋敷が見られる。屋敷構は、簸川平野の築地松のように外周に高い垣根をめぐらしたもので、平野部でしかも大河の分流点に突き出した丘という地形から河原からもろに吹きつける北風に対する対策なのであろう。

 文政5年(1822)頃に江戸川の流頭部に棒出しと呼ばれる両岸から突き出した一対の堤が築かれた。この棒出しの設置により、権現堂川から江戸川に流入する水量を減少させ、その流水を逆川に押し上げ利根川に流入させようとしたもの。これにより江戸川中・下流域の水害は幾分緩和されたが、逆に権現堂川や赤堀川流域の水流が滞りがちになり、流域での水害が増加した。また、利根川・逆川・江戸川の水量を一定に保つことが容易になったため、河川交通の面でも重要な役割を果たした。
 昭和2年(1927)に江戸川流頭部に関宿水閘門が設置されると、棒出しはその役目を終え、昭和4年に撤去された。

(上:棒出しの風景、下:現在の水門)


台地の尾根上を走る流山街道の町並み。
関宿の交差点から西関宿(埼玉県)方向へ下るところにある建物。妻面の真ん中にメダリオンがある。
交差点の北側にはこのような屋敷林の集落となる。
2階の軒ラインより高く屋敷林をめぐらしている。
城下町の町人地は川の対岸に形成された。
画像は一方の西関宿町で埼玉県幸手市に属する。もう一方は茨城県境町である。
参考資料 リンク
関宿城博物館

参考文献