野田 江戸東京をひかえたむらさき醸造のまち

千葉県
野田市
野田




交通

東武野田線野田市駅

県道17号結城野田線
 



野田




2003.12.14

 
 野田市歌に、 「むらさきの歴史はかがやき醸造のこだまはひびこうおゝ野田市」 とあるように日本一の醤油の町である。野田は、江戸時代初期からの江戸への醤油生産の地として、関東平野の良質な大豆と小麦、行徳の塩など原料の確保、良質の水と気候、江戸川の水運という、絶好の立地条件に恵まれていた。1917年に野田のしょうゆ醸造家一族が合同して設立した野田醤油株式会社が現在のキッコーマン(「亀甲萬」)の前身である。以来、野田のまちは醤油工場の城下町として発展してきた。
 野田の古くからの町並みは、キッコーマン野田工場の前に広がっており、工場の建物や商業地の町家や近代洋風建築などが見所となる。野田の町を歩くとほんのり醤油の香りが漂い、古い工場や創業者の大きな屋敷が町の中心部に存在するなど、企業城下町としての佇まいを色濃く感じる。
 
県道松戸野田線(流山街道)沿いの商店街には、出桁造りの町家や近代洋風建築が見られる。
流山街道の町並み。
左の建物には右書きで「中村商店倉庫」とある。
流山街道の出桁造りの町家、奥富家。
(株)千秋社(旧野田商誘銀行)

大正15年竣工、設計者不明。
野田商誘銀行は野田の醸造家たちが創った銀行で、「商誘」は「しょうゆ」に引っ掛けて命名したのだという。
戦後は千葉銀行野田支店として使用されていたが、現在は千秋社が所有している。
興風会館(登録有形文化財)

昭和4年竣工の建物で、設計者は大森茂、施工者は戸田組である。
野田市の醤油醸造家たちは、大正6年合同して野田醤油株式会社を設立した。その支援団体として組織されたのが千秋社であり、その寄付によって設立されたのが興風会である。
校風会館を設計した大森茂氏は東京駿河台の明治大学を設計した建築家で、建物はロマネスク様式の大建築。
流山街道沿いに建つ一際高いこの近代建築は、醤油の町野田のランドマークとなっている。
流山街道の東はキッコーマンの工場、西は工場城下町である。
流山街道と直交する通りの町並み。出桁造りの町家が並んでいる。
西の街中にあった近代建築。この辺りは今やすっかり寂れているが、かつては盛り場だったのであろうか。
キッコーマンの工場エリアの中には創始者の住宅らしき豪邸が残っている。
キノエネ醤油の工場は流山街道の北西にある。
参考資料 リンク
野田市
千葉県の近代産業遺跡

参考文献