行徳 利根水運で栄えた旧江戸川河岸の宿場町

千葉県
市川市
本行徳、伊勢宿、押切
 


交通

営団地下鉄東西線行徳駅下車

県道市川浦安線





本行徳


伊勢宿、押切




2003.12.21
本行徳の町並み
 
東京都と千葉県の県境を流れる江戸川。もとは利根川の本流であったが1654年に利根川東流の完成時に関宿から分流となった。近世は利根水運で栄え、流山の利根運河開通後は明治末期まで内陸航路として繁栄し、沿岸の東宝珠花・松戸・行徳・浦安などの河岸集落が発達した。
行徳はその河岸集落のひとつで、河港をもつ行徳街道の宿場町である。行徳は昔から塩の産地として知られ、この塩を江戸に運ぶために開発された航路もやがては人や物資の輸送に使われるようになった。本行徳はこの航路の独占権を得ており、嘉永年間(1848〜1854)には62隻の船数があったという。朝の6時から夕方の6時まで江戸小網町と行徳新河岸間を行き来していた船は「行徳船」と呼ばれ、松尾芭蕉をはじめとする歴史上の著名人や成田山参詣の講中らを運び、船着場や町はたいそう賑わった。
明治初期の地形図をみると旧江戸川にぴったり沿って走る行徳街道に宿場が形成されており、北端で成田街道を分岐しているが成田街道に沿ってもしばらく町並みは続いていたようだ。成田街道の分岐点から河港があった一つ目の鍵形付近までが本行徳驛(宿場)であり、一つ目の鍵形と二つ目の鍵形の間が伊勢宿村、二つ目の鍵形の南側が押切村、湊村、湊新田(南行徳)と続いて最後に鍵形があって町並みが終わっていたようだ。
町並みとしての見所は本行徳から押切にかけて。古い町並みとしての連続性はさすがに見られないが、必ず視界に2箇所以上は古い町家が入る程度には残っている。江戸時代から近代にかけての繁栄ぶりは、立派な町家が残っていることからも想像できる。特に河岸があった辺りは宿場の中心部らしい佇まいを今でも感じることができる。旧江戸川の対岸は東京都江戸川区という東京に至近の位置にあって、これだけの町並みが残っているということは驚きであり貴重な存在である。

後藤神輿(伊勢宿)

行徳には伝統の神輿製作所がある。この後藤家は典型的な出桁造りの町家だが、戸袋脇に注目してほしい。神輿の彫り物の技術が壁の装飾に生かされている。
浅子神輿(本行徳)
笹屋うどん跡
江戸時代に繁栄した店で、船着場付近にあったため立ち寄る旅人が多く、紀行文にも登場する。
本行徳河岸近くの加藤家住宅
行徳船船着場の常夜灯
田中家住宅(本行徳)
本行徳成田街道分岐点近くにある平川医院
和風玄関の洋館
参考資料 リンク
市川市
行徳・妙典を歩く

参考文献