鳥取ぼけぼけ紀行 Movie
「集落町並みWalker」では来年より動画による探訪シリーズを開始する予定です。それに先駆けて、先般歩いてきた鳥取紀行の印象記の動画版を試験的につくってみました。今後、皆さんからのご意見を取り入れながら臨場感のあるムービーシリーズに出来ればと思っています。
鳥取紀行では、最初に泊まった津山のホテルに携帯電話を忘れたため、夜倉吉から中国山地を越えて津山を往復したり、智頭町の上板井原集落に行くつもりが用瀬町の下板井原(同じ谷ですが)を間違えて歩いたりと、「ぼけぼけ」の旅でした。題して「鳥取ぼけぼけ紀行」。梅雨空のしっとりとした集落町並みを味わっていただけるのではないでしょうか。
BGMは、河口恭吾の「私のすべて」。レンタカーで走っている途中、偶然FMから流れてきた曲。いいなぁと思ってCD屋でアルバム「風と落ち葉の季節に」を買い、旅の最中ずっと聞いていました。




鳥取ぼけぼけ紀行

2006年6月30日20:37 山陽新幹線の下り線ホーム。山陰を攻めるにして、なぜこの岡山から始めなければならんのか。
山陰攻めの計画はどうもすっきりいかない。ようは便が悪いのである。飛行機で鳥取空港や米子空港から始めるのが正当だろうが、どうしても出だしが遅くなってしまう。10通りは計画したであろうか。山間部から海沿いにかけて合理的に一周する計画を立てた結果、津山を早朝出発するのが最適解となった。ところが津山を早朝出発するためには前日にレンタカーを借りておかなければならない。津山営業所で借りるとなると前日の夜20:00までに津山に入らなければならないことになるが、仕事を終えて東京を出るのでは到底間に合わない。
毎度おなじみのニッポンレンタカー24時間営業をしている岡山駅前店でスバルR2を借りることにした。今晩は津山まで走って一泊。かつて、吉備路紀行で泊まったホテルアルファワン津山である。
智頭(鳥取県智頭町)
7月1日am5:00に津山のホテルを出発する。日が長い夏は行動半径が広がるが睡眠時間が削られる。
県境の峠を越えて智頭についたのは7時前。鳥取県への国道は高速道路が出来ていない分非常に整備が進んでいる。
智頭の町は川を挟んだ上町下町地区と河原町地区が見所である。上町下町地区は、重厚でしっかりとした商家が建ち並んでいる。背景の山との調和が気持ちのよい町並みであった。一方、河原町は切妻平入の町家が肩を寄せ合って並んでいる。両方とも瓦は赤い。鳥取県に来たんだと実感する。
用瀬(鳥取県用瀬町)
智頭から北へ国道53号線を辿り、用瀬から佐治川沿いに西へ行く。小学5年生の娘の勉強を見ていたら社会科で「鳥取県佐治村=和紙」と書いてあった。それまで知らなかったのは恥ずかしいが、和紙で栄えたのであれば良い集落が見られるかもしれない。谷間の村は中国山地らしく山並みがなだらかで、美しい農村風景である。しかし、断念ながら集落としては見るべきものが見出せなかった。
智頭街道に戻って用瀬の町並みを歩く。用瀬は「流し雛の里」で知られる旧智頭街道の宿場町。町の中にはかつての鉤曲りが残っている。町には僅かではあるが切妻平入の町家が残っていた。
下板井原(鳥取県用瀬町)
最近のレンタカーは全てカーナビがついているので重たい道路地図は持っていく必要がない。集落に入ってから使用する詳細な地図だけあれば十分である。
カーナビで「板井原」を検索し導かれるまま走る。やがて道は狭まりすれ違いもやっとのような山道となった。カーナビが目的地到着を案内した場所には「板井原の里」という石碑が建っていた。ここが本でも紹介されている板井原なのだろうか。綺麗な清流に沿って集落に入っていく。道に雑草が生え放題、人が住んでいる気配が無い。そう、この集落はゴーストタウンである。廃墟だが大きな農家や倉があって養蚕で栄えた痕跡は見て取れる。半信半疑で集落を後にした。
東京に戻って判明したことだが、板井原という地域は用瀬町と智頭町の両方にまたがっていて、本で紹介されている板井原は上板井原といって智頭町だった。道路地図を持っていれば間違えないものを・・・。ボケボケ失敗第一弾。
立川(鳥取県鳥取市)
鳥取は戦災にこそあっていないものの市街の殆どが戦後の大火に見舞われている。大火に遭っていないエリアは鳥取駅前と市街地東部。駅前地区は時すでに遅し、近年の再開発で古い町並みは残っていなかった。10年前に来たとき歩いておけばよかった。色町であった瓦町も大火後の町並みであった。東部の中町は大火に遭っていない武家屋敷町跡だが、ただの住宅街。こうして大火の無いエリアを丹念に探した結果、立川町にだけ歴史の町並みが見られるのであった。
鳥取市街の大火後の町並みも昭和戦後スタイルとして面白そうなのだが、今回は先を急いでカットする。
ここで昨晩泊まった津山のホテルに、充電したままの携帯電話を忘れたことに気づく。さぁどうしようか・・・。ホテルに連絡を入れたいのだが携帯電話がないので連絡ができない。公衆電話を探しても見つからない。ようやく郵便局の前にあって、小銭を作るために飲みたくも無い缶コーヒーを買わされた。
鹿野(鳥取県鹿野町)
鹿野は10年ぶりの再訪である。「田園地帯の中にポツリとある古い町並み」というイメージが記憶に残っている。遠くに車を置いてアプローチを味わいながら町に入って行く。町全体が緩やかに傾斜していて通りの両側に綺麗な水が流れている。鳥取県の町並みはこの水の流れが印象的な町が多いと思う。下町に来たところで10年前の記憶と繋がった。通りのペーブメントが整備されたが古い町並みは健全である。10年前と同様、赤瓦が印象的である。
空中写真で家並みを確かめながら大工町のほうまで町全域を歩いた。時が経てば見る目も変わる。再訪してよかった。
青谷(鳥取県青谷町)
内陸の鹿野からまた日本海岸へ出る。青谷は鹿野亀井藩の外港であり、江戸時代は宿場町であった。
空中写真をたよりに町並みを探す。2本の川が合流する橋の辺りから古く揃った町並みが始まる。そこには造り酒屋やお寺があり、漆喰が剥げ落ちて茶色い土壁があらわになった町家が風情を醸しだしていた。古い町並みが連続的でT字の交差点もあり、シークエンス(連続する景観)に魅力がある。動画の撮影を何度も行ってしまった。
橋津(鳥取県羽合町)
橋津も日本海岸の町で、天神川河口の港町である。米の積出港として藩の米倉があった。近代になって山陰本線の開通で港の機能を失い廃れたという。町並みを歩いて西に抜けると通りが広くなったところがあり、長く古い建物が横たわっている。藩倉の一部が有形文化財として保存されていた。ここには藩の米倉が集まっていたが、この一棟と他にも一部が2棟残っている。文化財になっていないものは民家の一部に組み込まれていてかなり痛んでいた。
倉吉(鳥取県倉吉市)
倉吉も再訪である。ここは10年ぶりとは思えないほど記憶によく残っている。今回は、有名な玉川沿いの蔵並みだけではなく、歴史の町並みの見られる全域を歩いた。玄関を45度に振って交差点に建つ和風の旧銀行建築、玉川沿いの白壁土蔵の町並み、アーケード街の中に残る古い町家、旧駅前通りの昭和レトロの町並みなど、改めて見所が多いと思った。

今晩の宿泊地は倉吉のホテルである。だが、寝る前にやらねばならぬことがある。70KM離れた津山まで携帯電話をとりに往復しなければならない。3時間かけて中国山地を越えて往復した。なんというボケボケであろうか。
八橋(鳥取県東伯町)
三度、日本海岸に出る。八橋は旧陣屋町宿場町で、2つの鉤曲の間に歴史の町並みが残っている。特徴は、一本の長い街村形態であること、日本海岸らしい切妻平入に木の下見板張りの民家が並ぶ景観だ。家と家の間の路地を抜けると裏町があり、さらに抜けると海岸線にでる。この構成は太平洋側ではあまり見ない。遠く離れた北陸地方と印象が連続する町並みであった。
梅雨の真っ只中、雨は降ったりやんだりの愚図ついた天気。日本海はどんより鼠色だった。
赤碕(鳥取県赤碕町)
八橋と連続するかのように赤碕の町並みは始まる。港が東端、山陰本線の赤碕駅が西端、赤碕は海岸線に沿って延々と続く異常に長い町並みである。
こういう町並みはあらかじめ車で流す事前調査でも10分はかかる。町を歩いても行って戻ってこなければならないので所要時間がかかる。日本海岸に多い時間のかかる町並みの典型である。
町並みを歩き始めた時は激しい雨が降っていたが、半分歩いたところで雨が上り朝陽がさしてきた。朝だというのに西の空にきれいな虹がかかっていた。
所子(鳥取県大山町)
さらに西へ車を走らせる。左手に大山が見えてきた。大山の裾野に広がる雄大な農村風景である。その農村の中に豪農の集落と呼ぶに相応しい所子(ところご)集落がある。
緑輝く青田の向こうにきれいに修復された茅葺屋根の主屋と石屋根の付属屋の並ぶ重要文化財「門脇家住宅」が見える。集落内の通りは石垣の上に黒の板壁でビシッと挟まれている。
ここは「いらかぐみ」の孫右衛門さんが教えてくれた集落。集落を歩くときれいに整えられた板壁の建物や塀、そしてその下を大山の豊富な水の流れる様が素晴らしい。これが意図的にデザインされたものだとしたら、見事なランドスケープデザインである。
安来(島根県安来町)
今回の旅の目的地は鳥取県であるが、できるだけ島根県の東端を歩いておきたい。島根県は東西に長く高速道路もない。したがって、次の島根攻めを楽にするためにも安来と美保関だけは今回歩いておきたかった。
安来は、港町、宿場町として発展したが、近代以降は安来製鋼(現日立金属)の産業町として栄えた。港から山に向かう南北の通りに入母屋妻入りの商家が点在する。中には海鼠壁の意匠を凝らした豪商の館もみられ見ごたえ十分である。また、古い料亭旅館も残っており、かつての繁栄振りがうかがえる。
米子(鳥取県米子市)
米子は10年前、加茂川沿いの町並みを見ただけであったが、今回は全的に歩き直す。
加茂川にかかる昭和橋の袂に重要文化財の後藤家住宅がある。昭和橋から川の北岸の旧市街を米子駅方向(東方向)に歩く。ところが空地が目立ち家並みになっていない。かつては通りに商家が並び後ろの川沿いには倉が並んでいたのであろう。尾高町あたりで前方に背の高い建物が見えてきた。大正末期から昭和初期と思われる旧銀行建築であろうか。漆喰の町家と並んでいて米子の町並みの見所の一つと言えそうだ。
昭和橋まで戻り今度は北西方向へ歩いていく。「全国遊廓案内」(昭和9年刊)にも紹介されている旧米子灘町遊廓は旧市街の北西の外れにああった。航空写真と「花園町」という地名から場所を絞り込んだ。旧遊廓でおなじみの中央大通りはそのままに、かつての楼が点在して残っていた。
境港(鳥取県境港市)
境港は鳥取県最西端の町。水揚げ量では全国屈指の漁業の港町である。水木しげるの出身地でもあり、しつこいくらい「ゲゲゲの鬼太郎」で町おこしをしている。
戦災に遭っているわけでもなく漁業で栄えた町ということで古い町並みを期待して訪れたが殆ど残っていない。それでも水木しげるファンは多いのか、観光客がたくさんいた。古い町並みは、市街地の東端、入船町界隈に少しあった。
美保関(島根県美保関町)
境水道大橋を渡って島根県美保関町(現松江市)に入る。美保関は、10年前に3階建ての旅館を一軒撮影しているだけなので再訪せざるを得ない。
木造3階建ての旅館は残っていたがもう営業をしていないようだ。海岸線に沿って一本内側を走っている通りを歩く。美保神社は出雲大社の形式の神社で、その門前から町並みが始まっている。狭い石畳の通りの両側に古い木造の旅館建物が並ぶ。港町として門前町として賑わった面影が感じられる。この通りは湾に沿って円弧を描いており、美保神社から離れると漁村に雰囲気になる。
溝口(鳥取県溝口町)
境水道大橋を渡って鳥取県に戻り、最後の訪問地である鳥取県溝口へ向かう。溝口は、米子から日野町根雨を経て岡山県へ通じる出雲街道の宿場町である。一直線のオーソドックスな宿場町の形態で、特徴といえば白漆喰に赤瓦屋根であろうか。所々に勢いよく水が流れる水路があり、同街道の根雨宿と印象が重なる。
駅前に車を置いたら赤鬼の姿をした公衆便所があった。町中のバス転回所には青鬼の公衆電話ボックスが・・・。なぜ、赤鬼と青鬼が?町おこしのマスコットであろうか。

梅雨空は時たま強い雨を降らしたが、おおむね曇りに恵まれた。携帯電話をホテルに忘れたり、間違った集落を訪ねたりと梅雨空の曇天のように寝ぼけた旅であった。これで鳥取県50%が達成した。智頭町上板井原が内陸部にぽっかり残ってしまって気がかりだが、また鳥取を訪れる機会が残されたと思って、いざ島根県を目指そう。