群馬東部(2003.03.23)  太田・伊勢崎・境町

企業城下町と呼ばれる場所がある。これは、特定の企業が存在することで発展した町のことでがあり、その地域に住まう人々の多くがその企業や関連会社に何らかの関係を持っているようなまちである。愛知県の豊田市や茨城県の日立市などはその典型である。企業城下町にはその繁栄した時代に、工場の廻りなどに町が形成される。都市から外れた場所であればあるほど、特定の企業と町の関係は顕著にあらわれるものと思われる。また、企業が移ったり産業が衰退したりすると町の発展はストップし、一時期に繁栄し形成された町並みが残るという現象が起こる。炭坑町や鉄鋼町などはその典型だ。
私は、友人の経済学者とともに企業城下町の研究を始めることにした。もちろん私の視点は、集落町並みの形態や形成過程、現象についてが主となる。一方、友人の方は経済学的視点から企業城下町の構造を分析する。今後、全国の企業城下町を訪れ、その構造を多角的に解き明かしていこうという試みである。
今日は、わが愛車スバルのお膝元、群馬県太田と伊勢崎を訪れた。また、近くなので日光例幣使街道の宿場境町も立ち寄った。

太田
太田は、中山道の倉賀野から分岐し日光に至る日光例幣使街道の宿場町として発達した。太田駅の北側を東西に走る県道が旧街道で、東西に宿場町が形成されていた。
太田と伊勢崎は富士重工スバルの前身、中島飛行機があった場所で、第二次世界大戦時にはおそらくイラク=バグダッドのようにアメリカに攻撃され焼け野原となった。戦後、中島飛行機は解体されが、自動車製造会社として再出発することとなる。スバルのマークにある六連星は、解体された6つの工場(会社)が再び集まって自動車製造会社を作ったことに由来している。
太田のシンボル金山の麓には寺社が集まっており宿場から北へ参道が延びていた。参道の北端に富士重工北工場がある。ここは中島飛行機発祥の地。旧宿場の西半分と北工場の南側に本町という町があり、戦災に免れたと思われる建物が見うけられる。おそらく、北工場と旧宿場町の間の参道添いのエリアが企業城下町の原形エリアと思われる。

明治初期
東西の日光例幣使街道に沿った路村状の宿場町。
北側の金山の麓に寺社があり参道が延びている。

平成期
金山の麓の北工場が富士重工の前身中島飛行機発祥の地。宿場と北工場の間が企業城下町の原形エリアのようだ。戦後駅の南側が都市計画され、南一番街が誕生。

本町 レンガ煙突と大谷石倉

本町 洋風下見板貼の住宅
 
富士重工の最も大きな本社工場は、本町の東にあり、東本町と呼ばれている。東武伊勢崎線の太田駅はこの東本町にある。東本町は数年前「スバル町」にするとかしないとか話題になった場所である。電信柱や交差点標識には「東本町」とかかれているが、交差点に面する本社工場ビルの壁面にはしっかり「スバル町1」と堂々と書かれていた。
本社工場の前には伊勢屋という和菓子屋がある。大きく「スバル最中」と書かれた看板が出ていた。ここはスバリスト(スバルファンをこう呼ぶ)なら知る人ぞ知る店で、初代レオーネを模ったスバル最中や名車スバル360を模ったサブロク焼きが売られている。名車スバル360は、中島飛行機時代の技術者が富士重工になって、技術の粋を集めて生み出した日本発のファミリーカー。以前、その生みの親でNHK「プロジェクトX」でも取り上げられた名技術者百瀬晋六氏のお宅を訪問した際、お土産に頂いたのもスバル最中であった。彼の自宅は、企業城下町の原形エリアにある。彼も設計にかかわったという家で、スバル360の設計思想が家造りにも見事に反映された、機能美を感じさせる建築であった。

本社工場の正門

これぞ企業城下町!町名にスバルの名が。もちろん本社工場が1丁目である。しかし、電信柱には東本町のプレートが残っていた。

本社工場正門前の和菓子伊勢屋のサブロク焼き。
箱の中には「スバルの歩み」なるしおりが入っている。

スバルが世に送り出した名車スバル360。最小のボディに家族4人が乗れる日本発のファミリーカー。中島飛行機時代からの名技術者、百瀬晋六氏が独創的に生み出した。
 
 
太田駅の南側は昭和40年頃区画整理された町で、整然と区画されている。駅前の大型スーパーマーケットの他は空き地が多くあっけらかんとした街である。
駅から南側に一直線に伸びる通りは極端に道幅が広い。両側には怪しげな2〜3階建ての商店建築が建っている。何が怪しげかというと、通りに面する建物のデザインに一定のきまり(デザインコード)を定めていたようで、各階の床位置をそろえて横ラインを通したり、窓デザインをそろえたりしている。近世の宿場町のような、統一感のある町並みを作ろうとした意図が明らかに感じられる。同様の事例を、近くの桐生市や長野県佐久市あたりの商店街でも見た。
江戸東京の近郊都市には、江戸東京の建物デザインが影響した町並みが見られる。出桁造り町家、黒漆喰の店倉、看板建築などはその代表例である。統一感のある通り沿いの町並みで戦後の代表例といえば東京丸の内があげられる。南一番街も同時期であり、統一感のある町並みを創ろうとした時代のひとつの現象なのか。
しかし、群馬県は一人あたりの車保有台数が日本一の県。日常生活は完全に車中心になっている。商業の中心はバイパス沿に移ってしまっており、駅前といえども閑散としている。しかも、風俗店が駅南側の町中に点在している。町行く人も工場で働く外国人がやたらと多い。

南一番街の町並み
共通のデザインの建物が通りの両側に並ぶ。何らかのデザインコードがあったのか。
屋根には共通して円形の飾りがついている。

南一番街の町並み
建物はひとつなのか分かれているのか?。車社会により駅前商店街は閑古鳥が鳴いている。しかし、風俗店そこら中に点在している不思議な町だ。

南一番街の町並み
ここにも同じデザインの事務所建築があった。

日本に3ヶ所しかないさざえ堂のひとつ、曹源寺。建物内に安置された観音像を一周すると関東・秩父・西国33ヶ所霊場を巡ったことになるという。


伊勢崎
伊勢崎は本当の城下町で、江戸時代からの織物業の都市である。旧市街は駅の南側一帯。伊勢崎にも富士重工の工場があり、駅の北側と旧市街の東側にある。富士重工伊勢崎東工場には、のこぎり屋根の古いレンガ工場が残っていると聞き行ってみたが、時既に遅し。東工場は閉鎖され、建物はすっかり取り壊されてしまっていた。ただ、ギザギザレンガ壁が一枚、再利用を待って残されていた。
旧市街にはあまり古い町並みは残っていないが、点在はしている。昨年、曳家保存された旧黒羽根医院が修復をまって新たな場所に建っていた。

富士重工伊勢崎工場に展示されている「ふじ号」
日本発のモノコックフレームレス構造リアエンジンバス。

「スバル車以外はご遠慮ください」の看板
トヨタに乗った従業員は停められないということか。

保存されたレンガ壁の残る、東工場跡地

本町の町並み

旧黒羽根医内科医院 明治38年
前橋に通じる本町通りに面して建っていた明治建築。昨年、約100m道路上を曳家し、別の場所に移動保存された。どのような施設として利用するかはきまっていないようだ。

「時の鐘」大正4年
 

境町
境町は、利根川中流北岸の低地を占める、農業と繊維・電気工業の町である。街道に沿って、関東の定番、黒漆喰塗りの町家が何軒か残っていた。
近くにある平塚は銅街道の終点で、足尾銅山の銅を江戸へ船で積み出した河港として栄えた集落である。後で調べて存在を知ったため今回は訪れていない。失敗した、あらかじめ知っておれば・・・・。また行くしかない。

その近辺に渋沢姓が多い。利根川の対岸は渋沢栄一の生誕地である。

街道からちょっと入ったところに料亭建築があった。

王形製薬所 

王形製薬所
伝統的町家と一体化している近代様式建築。1階の店内を見るとひとつの大部屋になっているので、積石造とは考えられないし、鉄筋コンクリート造でもなさそうだ。もしや木造なのか?。

江戸風町家が並んでいたのであろう。徒歩客を相手にした江戸風町家の間に、車客を相手にするファミレスが挿入されている。こはまさに新旧の対比だ。

江戸風町家
右手はファミレス=ガストの駐車場